深く暗い闇の中に立っていると、波の音が聞こえてくる。それは壇ノ浦の波音のように聞こえた。しかし、自分が今いるところが壇ノ浦なのかどうかはわからず、ただ何も見えない深い闇の中に、波音だけが聞こえる。
(……私、死んじゃったのかな)
ぼんやりとその波の音を聞きながら、望美はそう考えた。あんまり苦しくもなかったし、痛かったけど思っていたほどでもなかったから良かった。 だから、あんまり気にしないでね、と景時に伝えたいけれど死んでしまった身では無理かな、とそんなことを考える。撃たれる望美よりも、撃つ景時の方が痛くて辛くて死にそうな顔をしていたから心配だった。
夜の海で、彼と交わした会話を思い出す。いつもの陽気で飄々とした仮面を彼はもう被っていられなくなっていた。いつも望美を励まし護ってくれた大きな手が、望美に救いを求めて縋り付いていた。
『もう、楽になりたいんだ』
血を吐くような言葉だった。叫ぶでなく、ただ静かに絞り出すようにやっとこぼれ落ちたその言葉は、どれほど長い間、彼の胸の内に留まっていたのだろう。どれほど長い間、そう言いたくて言えなくて呑み込まれ続けてきた言葉だっただろう。 驚きはしたけれど、彼を責める気にも、軽蔑する気にもならなかった。ただただ、彼が愛しくて哀しくて、彼を護りたいと思った。彼の心を、これからを、平穏を護りたいと。
(……でも、私は本当に何も知らなかっただけなんだね)
彼がどんな気持ちで、あの夜に望美に自分の罪を打ち明け縋ってきたのか、あのときの自分は何も知らなかった。彼が本当にもうただ『耐えきれなくなった』のだとしかわからなかった。 彼は鎌倉で受け取った書状には暗殺の命令が書いてあったんだ、と言ったけれど、そこに書かれた暗殺せねばならない人の名が誰だったのかは言わなかったのだ。そのことに気づきもしなかった。 だから、『逃げちゃ駄目だよ』なんて無責任な綺麗事を言えた。何とかできるなどと、どうしてそんなことを、あのときの自分は彼に言えたのだろう?
逃げて欲しくなかった、景時ならきっと何とかできるはずだとも思った。それは嘘ではなかった。けれど、自分は彼にそう言葉をかけるだけで何もできなかった。どうすることが一番良いのかを一緒に考えることすらできなかった。 『信じているから、あなたならできるから』……それはなんと無責任な言葉なのだろう。一体、自分は景時を苦しめる以外に、何をできたというのだろうか。
(苦しくて、苦しくて、逃げ場のない苦しみの中で、それでも何も言わずに私を護ろうとしてくれていたんだね)
それなのに、何もしてあげられなくてごめんなさい、と小さく呟く。 あの夜、信じているという以外に景時にかける言葉を見つけられず、黙ったままの彼をただ抱きしめていた。触れあう身体の熱だけが想いは繋がっているという証のように、ただ彼を抱きしめていた。 本当は自分の中にもある不安を、信じていると言いながら彼がまた一人全てを背負って消えてしまうのではないかという不安を隠すためだったかもしれない。夜明けまで、ただ彼を離したくなくて触れ合っていたくて抱きしめていたくて、傍にいた。 でも、傍にいることしかできなかった。
この世界に来てから、一体、何度後悔しただろう、と望美は考えた。景時を2度、失って、これ以上もう彼を失うのは沢山だと思った。 彼が何か深い闇を抱えていることは薄々と感じていたから、その闇に射す光のようなものに自分はなりたいと願っていた。それはなんと傲慢な願いだろう。 そして今も、後悔は多く、彼に伝えたかったことの何分の一さえも伝えることができなかったと思う。それでもただ一つ慰められるものがあるとすれば、きっと彼は今も生きていてくれるということだった。
ずっと、景時の笑顔に隠された暗い瞳が怖かった。それは彼自身を恐ろしく感じるということではなくて、彼がその暗い闇に呑み込まれてしまうのではないかと懼れていたから。 血を求め戦の中で昏い情熱を迸らせる平家の武将、平知盛と同じ瞳に見えて、そのことが景時の抱える闇の深さにも思えて怖かった。壇ノ浦で知盛は源氏に破れ自ら海へと身を投げた。 そのとき、望美にはわかった。景時と知盛と、2人の瞳に宿る暗い闇が何だったのか。
(……同じ。景時さんも知盛も、抱えていた闇は『絶望』だったんだ。
景時さんが、どうして死にたかったのか、やっとわかったの。 苦しくて苦しくて、生きることが苦しくて絶望していた)
2人がよく似ていると思ったその理由が、あのときやっとわかった。そして、また、2人が全く違うということも、同じくあのときにわかった。 知盛のことを景時は『オレにはわからないよ』そう、言った。それは悲痛な声でもあった。敵将であってさえ、景時は殺したいとは思っていなかったのだろう。彼の死を景時は悼んでいた。敵であれ、出来る限り人を殺したくない、そう考えるのが景時だった。
(そう、景時さんは、知盛のことがわからない、ってそう言った。それで、わかった。
景時さんと知盛は、正反対だったんだ、ってわかった。 私が何故景時さんに惹かれたかも、わかった)
絶望という闇の中で、知盛は望美に共に闇に落ちることを求めた。血の匂いのする修羅の道に共に来いと求めた。 そして、景時は、絶望から抜け出すことを望んだ。血の匂いのする闇を抜けて、光射す道を求めていた。
(景時さんは、屋島で死を選んだけれど、でも、本当は生きたいと思っていたんだよね。
生きたくて、でも、殺したくなくて、誰かを殺すくらいなら自分が死んだほうがいいって……
だから、本当は生きたいのに、泣いても嘆いても仕方ないって笑って、死ぬことを選んだ)
望美だけが知っている、屋島の記憶。あのときのことを思い出すと、今、景時が生きているとわかっていても、辛くて苦しくて泣きたくなった。 そして、あのときの景時の気持ちがわかった今は、彼のあのときの心情が余計に哀しくて苦しい。自分が味わった悲しみよりも、あのとき死を選んだ景時の心を想って泣きそうになる。
絶望の中で、それでも景時は望美に光を求めてくれた。死にそびれたことを悔いながらも、一緒に生きたいのだと言ってくれた。
(私を護るために、全てを捨ててもいいと言ってくれた景時さんを、そうと知らずに追い詰めたのは、私。
逃げることを許さずに、追い詰めたのは私)
船の上で、景時に銃を向けられたときにやっと全てわかった。 一緒に逃げようと言ってくれた景時の願い。自分を選んでくれたこと。それがわかったから、望美は自分はもうそれでいいと思った。一度は景時が全てよりも自分を選んでくれた。でも、自分のために景時に家族を捨てさせるのはやっぱり間違いな気がするから、景時が家族を護るために自分を撃つなら、それでいいと思った。 そう伝えたかったから『いいよ』と、そう言った。景時は屋島で一度、望美のために死んで行った。それなら自分も彼のために命を捨てようと思ったのだ。
暗い闇に立って望美は天を仰ぐ。
(この暗闇は、景時さんの心の中の闇なのかな)
ちゃんと自分の気持ちは伝わったかが今になって心配だった。
苦しまなくていいよ、悲しまなくていいよ、迷わなくてもいいよ、私のために、苦しまなくていいよ。
あなたの全てを赦している、あなたの全てを愛している。
そう、ちゃんと伝わったかどうか、心配だった。だから、生きて、苦しくても、生きて、という願いが景時に届いたかどうか。
(景時さんが殺した人たちが景時さんを許さなくても。 景時さんのしたことを生きている人たちが許さなくても。
私が景時さんを赦すから)
この闇が景時の抱える心の闇だというのなら、自分はここに立ち、彼のためにこの闇に射す光になりたい。 彼の悲しみのために、苦しみのために、涙を流すことしかできないかもしれないけれど、その雫が光となるように祈り続けよう。望美はそう思った。 暗く寂しい場所ではあるけれど、この場所が景時の抱えるものだと思えばそれさえも愛おしい。彼が苦しまなくてもよいように、祈ることしかもうできないけれど。
……ちゃん……! ……美ちゃん!………望美ちゃん……!
遠く、声がした。望美はその声を探して顔を上げる。間違えようもない、声の主は景時だった。 暗闇の中で、その声は望美の行き先を示しているように感じられ、望美は声の元を探した。呼んでいる声は、ひどく心配げな響きで、望美は『大丈夫だよ』と伝えたくて景時を探した。 呼んでいる声は遠く空から聞こえてくるようで、その声を頼りに見上げると不意に意識が浮上していった。
気がつくと、心配そうな顔をした景時が望美の顔を覗き込んでいた。訳がわからず、望美がぼんやりと景時を見返していると、ほっとしたように景時の顔が緩んでその胸に抱きしめられる。未だに事情がわからないまでも、条件反射のように望美も景時の背中に腕を廻した。
「良かった〜、目を覚まさなかったらどうしようって思ったよ」
温かい腕の中の人の感触に、望美はこれが夢ではないことにやっと気付いて呟く。
「……生きてる……? あれ、私、生きてる?」
「そうだよ、もちろん! 大丈夫? 痛いところはない?」
「でも、だって私、景時さんに撃たれて……」
「あれは魔弾。オレが本当に君を撃てるわけ、ないでしょ」
「じゃあ、あの血は……」
「あれは、幻術」
呆然とした様子の望美に景時が申し訳なさそうに事情を説明する。あらましを聞いた望美は景時の胸を拳で強く叩き、
「もうっ! 寿命が縮むかと思いました!!」
と怒った声で言いながらその胸に顔を埋めた。
「ご、ごめんね〜」
望美の肩を抱きながら景時が何度も謝る。けれど望美は、もちろん、本気で怒っていたわけではない。ただ、景時の顔をそのまま見つめていたら、涙がこみ上げてきそうでそれを誤魔化すために怒ってみせたのだ。 死んでもいいと思ったけれど、本当はもちろん、景時と一緒に生きていたかった。生きて、彼を支え、共にありたかった。 それが自分の本当の願いだと気付いたから。景時を照らす光になりたいと願ったけれど、自分もまた、ずっと景時という人に照らし護られてきたのだと気付いたから。だから、景時の胸に顔を埋めて、怒ったふりをしてやり過ごした。
景時と二人ただ黙って触れあっていた夜の海からのことを考えると、良かったという一言では言い表せない感情が望美の中に溢れてくる。まだ、全てが終わったわけではなかったし、その気持ちをまだ上手に景時に伝えられそうもなかったので、とりあえず、景時の背中に廻した腕にぎゅっと力を込めた。
暗い闇の中で自分が考えたことを、ちゃんと覚えておこうと思った。
生きることの尊さを知るからこそ、殺すことの罪深さを知り、絶望の中、苦しんできた彼だから。だから、惹かれた、だから、彼のための救いになりたかった。
彼のために祈ったこと、自分が願ったこと。それを生きて為しとげるためにちゃんと覚えておこうと思った。後悔することのないように、景時を二度と失わないように。彼の願いを見失わないように。 二人で共にあるために。
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