夢のつづき


「景時さん、大丈夫ですか?」
見慣れない情景に、思わずそこにあったソファに腰を下ろしてしまった景時の手を取って、望美が顔を覗きこむ。はっと顔を上げて望美を見つめた景時は、少し情けない顔になって苦笑した。
「……うん、大丈夫、だよ。少し驚いただけ」
そして頭を小さく何度か横に振った。少しづつ、頭の中に体験したことのない知識が入ってくる。それも不思議な感じだった。例えば今、自分が腰を下ろしているものが『ソファ』というものだということだとか。今、自分を取り巻いているものの中で、ちゃんと『知って』いるものは望美だけ、だ。
「……望美ちゃん、がオレたちのところへ来たときもこんな感じ、だったのかな?」
思わず呟く。望美は少し首をかしげて言った。
「……うーん、ちょっと違うかも。確かに、服はそういえばこちらの服とは変わっていましたけど、ほら、他は全然何も用意されてなかったし
 あちらの世界の知識もなかったですよ」
景時の言葉足らずの部分を補って望美はそう答える。もう一度、景時は頭を何度か横に振った。どうやら、もうこちらの世界の知識が頭に入ってくるのは止まったらしい。目に見えるものの名前はどれもちゃんとわかる。どう使うかもわかる。が、それだけだ。どれもやはり初めて見るものには違いがない。少しばかり落ち着かない気分になるのを、望美が握ってくれている手から伝わる温もりが落ち着かせてくれた。
「そっかー。オレがいろいろわかるのは白龍の力にもよるのかな。
 望美ちゃんが京へ来たときは白龍も力を失っていたから、いろいろ準備できなかったのかな」
「……ここ、景時さんの家ですか?」
望美は部屋を見回し、それから景時の隣に腰を下ろした。
景時はつられて部屋を見回す。初めて来たけれどずっと住んでいたらしい部屋。このソファも、多分、扉を開けた向こうの部屋にあるらしいベッドも初めて見るし初めて使うけれど間違いなく自分のものということになる。この部屋の間取りも頭の中に入っている。台所、風呂、洗面所、どこにあって何があるかもなんとなくわかる。なんとも変な気分だった。
「……そう、みたいだね。いろいろ、ここで暮らすのに必要な手立ては整えてくれてるみたいだ。白龍の力、なんだろうねえ。
 それとも望美ちゃんがそれを願ってくれたからかな」
「……景時さんが、ちゃんと約束を守ってくれたからです」
にこり、と望美は微笑みながら景時の手を握る手に力をこめた。うん、と景時は小さく頷いてそっと望美の頭に自らの頬を寄せた。

寒い冬だった。雪が積っていた。多分、もう二度と会うことはないとそのときは思っていた。彼女が『自分の元に戻ってきてください』と言ってくれるまでは。そう、そう言われるまではその先の人生も、生きる理由も、もうないと思っていた。ただ、死ぬ理由しか自分は持ち合わせていないと思っていた。
自分がここへやってこれたのは、彼女がそう望んでくれたから。そして、何一つ果たすことができなかった彼女との約束をひとつくらいは叶えたいと、何より自分が願ったから。
こんなことが現実になるなんて、夢でしか有り得ないと思っていた。望美の手の温もりがなければきっと夢の続きを見ているに違いないと思ったことだろう。いつだって叶うはずがないと思う夢を自分は思い描いていたから。叶わないから夢なんだ、なんて言い訳をずっとしてきたから。

今、いつなんだろう、と望美は呟いて景時の側から立ち上がると部屋の中を歩き回った。カレンダーを見つけてその日付を見る。
景時もそんな望美を目で追いながら同じものを見つめる。
「終業式の後かな。ということは明日から冬休みだ。すぐにクリスマスね」
初めて聞く言葉ばかりだけれど景時にもそれがなんとなくイメージされる。それも不思議な感覚だった。
「……それが、カレンダーっていう、ええと、暦なんだね。なんだか、すごいな。
 見たことないもののはずなのに、それが何かわかるっていうのがすごく不思議だなあ」
その言葉に振り向いた望美はもう一度、景時の側に戻ってくるとその手を取り、立ち上がるように促した。
「じゃあ、景時さんの部屋を探検しましょう。私も、景時さんの部屋がどうなってるか知りたいですし」

自分も初めて見るものばかりで、珍しく面白いのにどこか面映い心持で望美と二人、部屋の中を歩いてまわった。奥の寝室を見たときは望美も少しばかり恥ずかしそうにしていた。
「これがベッド、だね。ここで寝るのか〜」
触ってみて、京の褥との違いに驚く。柔らかくてふわふわしていて、どうも落ち着かない。くすくすと、望美はそんな景時の表情を見て微笑んだ。そのまま、脇のクローゼットを開けてこちらの服を見て目を丸くする景時に、望美も面白そうに並んだ服を見ながらひとつひとつ解説をする。
「えーと、これは寝るときに着るんです。こっちは普段着。これも。…………こっちの引き出しは……ええと、下着、ですね……」
「あ、ああああ〜……あの、その、うん……だ、だいたい、わかる、かな」
「……ごめんなさい……」
お互いに真っ赤になって顔を見合わせる。そして、なんとなく可笑しくなって笑い出す。照れ隠しのように望美はクローゼットの中のジャケットを一着取り出して、景時に羽織らせる。
「これ、結構カッコイイですよね! 色もすごく綺麗」
そう? と少し照れくさげに景時は笑って、そのジャケットに袖を通した。それから不器用にボタンを留めようとする。どうすれば良いかはわかっても、初めて実際にやってみるとなかなか上手くいかないらしい。望美はそうと知って、さらに張り切ってしまった。何度かボタンを留める練習をしてみると、もともと手先が器用な景時はすぐにコツを覚えた。それから、次は台所。
「冬休みの間や週末は、私、ここに来ますね。景時さんってお料理できますか?」
「……どうかなあ。簡単なものならなんとかなる……感じかな」
ガスレンジの使い方、電子レンジ、炊飯器、コーヒーメーカー、ひとつひとつ、ちょっと使ってみる。お湯を沸かしてお茶を淹れてみるのがちょうどよい練習になった。戸棚と冷蔵庫を開けて品揃えもチェックする。
「……白龍ってばほんと、至れり尽くせりだな」
棚の中からビスケットの箱を取り出して景時が呟く。それを食べてみたいと思っているらしいのがわかった望美は、ちょうどお茶も入ったから、と休憩を提案した。居間に戻って景時がどこかわくわくしたような面持ちでいるのを嬉しく思いながら、望美はビスケットの箱を開けた。何の変哲もないチョコレートのダイジェスティブビスケット。でも、今までこれほどドキドキしながら食べたことはなかっただろう。一枚取り出して、景時に差し出す。おずおずとそれを受け取った景時が、まじまじとそれを見て、少し戸惑いながら口に入れた。さすがに譲も京でチョコレートは作れなかったから、景時にとってこれは初めてのチョコレートということになる。望美は自分も一枚手に取りながら、景時の顔をじっと見つめた。ゆっくり味わうように口の中のビスケットを噛み締めていた景時は、やがてそれを飲み込んで驚いたように言う。
「美味しいね〜。なんだか、びっくりするなあ。甘くて味が濃くて、初めての味だよ。……すごいなあ、こんなものがあるなんて」
一枚のビスケットをその後も大切そうに味わいながら食べる景時に望美も嬉しくなって、一緒によく味わいながら食べなれたはずのチョコビスケットを食べる。初めて食べたとき、どんな気がしただろうと思い出し、自分もこれから景時と一緒に様々な『初めて』をもう一度体験するのだろうか、などと感じて嬉しくなった。結局、景時はビスケットをとても気に入りながらも、もったいないと言って2枚ほどしか口にしなかった。湿気る前に、ちょっとづつ食べてくださいね、と望美は言いながら、封をして残りを片付ける。それから洗面所に移動して、次は歯磨きだった。
「ちょうどいいですね、食べた後だし歯磨きしましょう!」
白龍の配慮なのかなんなのか、歯ブラシが2本並んでいるのが、なんとなく気恥ずかしい。もっとも景時はあまり気になっていないようだったが。人に教えるとなると、自分はこんなに歯を磨くのが下手だっただろうか、などと望美は思ってしまった。そもそも、無意識に行っていることなので、どう動かすとか上手く説明できないのだ。それでも景時はなんとか上手く歯ブラシを使いこなした。そしてむしろ、歯磨き粉の味に驚いているようだった。いろいろな味があるから好きなのをまた買えばいいんですよ、と望美が言うと、更に驚いていた。
「……ここは、なんでも本当にいろいろなものがあるんだね。オレ、どれを選べばいいかもわからないくらいだよ。
 夢みたいな世界だな……」
ぼんやりと洗面所の窓から外の景色を眺めながら景時がそう言う。自分も京に行ってしばらくは、現実感がなかったと望美は横に並んだ景時を見上げて思った。それから気を取り直したように、剃刀だのシェーブローションだの、ヘアワックスだの、いちいち景時が驚くのに新鮮な心持になりつつ、望美はひとつひとつ説明し、あるいは実際に使ってみたりした。そしてバスルームの使い方も。ひねれば水が出る蛇口に驚いていた景時は、更に湯が出ることにも感心する。どういう仕組みなのかを知りたがるのだが、望美に説明できるわけもなく、今度図書館で本を借りましょう、という話になったのだった。
部屋をくまなく探検し終わった頃には、すっかり夕方になっていた。薄暗くなった部屋の中で、望美は電気を点けた。その明るい光に景時は目を細める。
「……頭では判っているんだけど、やっぱり実際に目で見ると驚くことばかりだよ。
 なんか、もう、ほんと、今日はびっくりがいっぱいだなあ〜」
そんな景時を見上げて、それから時計を見て望美は溜息をつく。
「……景時さん、あのね……」
言いにくそうに口を開けた望美に、景時がわかっていると言いたげに顔を向けると、少し寂しそうに笑った。
「……うん、そろそろ望美ちゃんは帰らないと、ね。京みたいに、同じ家に住んでるわけじゃないものね」
望美もひどく寂しくて、本当を言えば帰りたくなどなかった。その気持ちが溢れそうになり思わず口を開きかけるのを景時が制した。
「駄目だよ、ちゃんと帰らなくちゃ。お父上やお母上に会うのも久しぶりになるでしょ、望美ちゃんにとっては。
 オレなら大丈夫だよ、ほら、一人も慣れてるしね?」
慣れてるからこそ一緒に居たいのだと望美は言いたかったけれど、帰らないわけにもいかないこともわかって口をつぐんだ。側に居たくて、いっそ白龍もそこまで辻褄を合わせてくれれば良かったのに、などとつい過ぎた願を思ってしまう。ぎゅっと景時に抱きついて、目を閉じる。
「……明日も朝一番に来ますから! 冬休みの間、毎日来ますから。景時さんがイヤって言っても来ますからね」
そっと景時はそんな望美の身体を抱きしめ返す。離したくない、帰したくない、ずっと側にいたい。その気持ちはもちろん、景時だって同じだ。長く離れていた間もずっと、彼女を思い続けてきた。だからこそ、ここで思いとどまらないと抑制がきかなくなりそうで、景時はむしろ自身の腕を解くのに力を必要とした。見上げる望美の額にそっと唇を寄せる。望美は少しばかり恨めしげな表情をして、景時はすまなそうに苦笑した。本当はもっと彼女が望むように違うところに口付けしたかったけれど、それはやはり、自分の心にかけた抑制という鍵を外すことになりそうで、できなかったのだ。
 景時に手渡された合鍵に、何かきーホルダーをつけなくちゃ、と呟いて、何度も振り向いて望美は帰って行った。


 彼女が去った途端に、あたりから音が消える。音だけではなかった、室温まで冷え切ったような気がする。景時は思わず身震いをした。居間に戻ると電気の明るさが空々しく感じられた。本当にここは自分の部屋なのか? これは現実なのだろうか? 突然に不安になる。落ち着かなくて景時は居間の電気を常夜灯に変えた。薄暗い灯りは京の夜を思い出させて、少しだけ景時は息をついた。それでも、さっきまで間近くあったはずの温もりがなくなったことで不安は高まるばかりだ。冷えてゆく部屋の温度は、あの雪の積った平泉の町を思い出させる。知っているのに知らない部屋はさっきひとつひとつ望美と確かめたはずなのに、どこかよそよそしくて本当にこれは現実なのだろうかと思わせられる。『夢の世界みたいだ』そう言ったのは確かに自分だったけれど、本当にこれは夢なのではないだろうか? 愛しい少女の手を取ったことも夢なのではないだろうか? ここで眠ったら次に目覚めたとき、自分はあの北の大地でただ一人、仲間を追うために戦場にいるのかもしれない。自分はやっぱり、夢の続きを見ているだけなのかもしれない。そう思った途端に、ひどく空恐ろしい気持ちになり、景時は身動きすらできなくなってしまった。


 自分にとって一年以上ぶりに会った両親は、当然のことではあったけれど何一つ変わったところはなく、望美の姿を見ても何も不審に思った様子もなかった。しかし、懐かしいはずの我が家も自分の部屋も、今となってはなんだか落ち着かない。硬い褥に慣れた身にベッドはなんだか頼りなくて、床に布団を敷いてしまいそうになった。こちらの世界では一日にも満たない時間。でも確かに望美は1年……逆鱗を使ったことを思えばそれ以上を京で過ごした。思った以上にあちらの世界に自分は馴染んでいたのだなあと思う。そして、生まれてからずっと過ごした世界を離れて、今一人でいる景時を思うと堪らない気持ちになった。さっき別れてきたばかりなのに、今すぐにでも会いに帰りたい。……会いに行きたいのではなくて、帰りたい、のだ。自分の中ではもう景時の側こそが自分の居場所なのだと改めて感じて望美は息を吐いた。早く朝になればいい。朝ごはんもそこそこに、陽が昇ればすぐにでも、景時の側に行くのに、と。まだ遠い夜明けを待ちながら、何度目かの溜息を望美は吐いた。


 望美が景時の部屋に着いたときはまだ8時を少し過ぎたくらいで。ちゃんと朝ごはんを食べたか心配で途中で立ち寄ったパン屋で買った焼きたてパンとサンドイッチを手にそっと玄関の扉を開けた。しん、とした室内に音はなく、まだ景時は起きていないのだろうかと望美は思う。そのまま音を立てないように部屋に上がると居間の扉を開けた。カーテンの隙間から太陽の光が室内を照らす。整えられてはいるけれど、まだ生活感のない室内はどこか冷たい印象もあって、ソファにうずくまっている景時の姿を見た望美は少しどきりとした。その姿がどこか痛々しく見えたから。
「景時、さん?」
そっと声をかけると、はっとしたように景時が顔を上げた。そして望美の姿を見るとほっとしたような笑顔になる。
「ああ、おはよう〜望美ちゃん」
そして望美は景時が昨日と同じ服のままなのに気付いて、彼に近づいてその顔をじっと見つめる。どこか疲れの滲んだ表情に不安になった。
「……景時さん、もしかして、寝てないんですか? ……ベッド、眠り辛かったですか?」
「そ、そんなことないよ〜! 大丈夫大丈夫!」
「景時さん!!」
笑って誤魔化そうとする景時に、望美はその手を取ってぎゅっと握る。ちゃんと言ってくれ、とその瞳が言っていた。怒ったような表情の望美に、景時は笑いながら、言った。
「ほんと、大丈夫だよ、望美ちゃんが来てくれたから。大丈夫なんだってわかったよ」
そのまま、景時の前に立った望美の胸に頭を預ける。その動きはやっとほっとできたというようなものだったので、望美は思わずそんな景時の頭をそっと抱きしめた。その優しい温もりに景時はほうっと息をついて、つい、目を閉じる。
「……景時さん、眠れなかったんでしょう? 側にいるから、眠ってください。
 初めて来たところで一人ぼっちで、眠れるはずなんかないですよね、ごめんなさい。
 でも、私が側にいますから。眠ってください、ね? 目が覚めたら一緒にご飯食べて、それから外に出ましょう?」
うん、と声にならない声で景時は答えた。知っているようで知らないものばかりの世界の中で、唯一確かなものは彼女の存在だけで。これが夢ではないと教えてくれるのも彼女の存在だけだった。
「……良かった、夢じゃなかったんだね」
そう呟いた言葉が聞こえたのかどうか、望美がソファに座り、それにつられて景時の頭も下がる。そのままソファに座った望美の足に頭を乗せて、景時はやっと安心して眠りにつくことができたのだった。


 この不思議な世界も、望美が側にいてくれることも夢ではなかったけれど、眠りに落ちる一瞬前、景時に向かって身を屈めた望美がまるでおやすみの挨拶代わりのようにそっと唇に触れたことは夢だったかもしれない。




十六夜記ED後の現代に来たばかりの二人で。
カルチャーギャップってやっぱりあるでしょうしねえ。
普通に甘いだけの話にしたかったのに最後、ちょっと妙に暗くなってしまったですよ。




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