桜 花





どこからともなく、かすかな花の香りが漂い来ていた。
あかねは、その香りを胸いっぱいに吸い込む。京に来て以来、元の世界にいたころよりも、自分のさまざまな感覚が敏感になったような気がする。たとえば、今のように、夜の闇の中、漂いくる花の香りに気がつくようになった。これは、何の花だろう。まだ、そこまではわかりかねる。きっと、彼女が今、帰りを待っている思い人なら、それが何の花の香りかわかるのだろう。
そうして、あかねは、自分が今日、手折ってきて部屋に飾った花を思い出し、その花の香りかと思い至って笑みを漏らした。彼に見せようと思っていたのに、そのことをすっかり忘れていたなんて。
「早く、かえってこないかなあ・・・」
せっかくだというのに、今日はまた帰りが遅い待ち人にあかねは部屋を出て、縁に座り込み月を見上げた。いつもだともうとっくに帰ってきている時間だろうに。月を見上げてそう思う。そして、自分が時計ではなく月の位置で時間を計っていることに気づいて、少し息を吐いた。
こうやって少しずつ、自分の感覚もここの暮らしになじんでいくのだろう。
立ち並びぶビル、行き交う車、テレビ、ラジオ。どれもこれも、なんて遠い世界のものだろう。今になっては、まるでそれらの世界こそが遠い夢のようにさえ思える。
「姫君は今宵は月を愛でておられるのかな」
そこに背後から優しげな声がかけられた。あかねが待ちわびていた、彼女の胸を震わせる声。
あかねは声を振り向いてこぼれるような笑みを浮かべた。
「友雅さん!」
立ち上がって、彼女の元へ歩いてくる友雅の元へ近づく。まるで飛び込んでくるかのようなあかねを、友雅はその腕を広げて受け止め、自らの胸の内に抱き込んだ。
「お帰りなさい! 今日は少し、遅かったんですね!」
きらきらと瞳を輝かせながら友雅を見上げてあかねが言う。優しい微笑を浮かべてそんなあかねを見つめ返す友雅に、あかねの頬がうっすらと染まる。もうこうやって間近に見ることにも慣れたと思うのに、彼のこの優しい瞳に見つめられると胸が苦しくなってしまう。だが、それは甘くて心地よい苦しさで、彼の瞳から目が離せなくなってしまうのだ。
「今日は、また一人でお出かけになったそうだね。
 供の者が嘆いていたよ。」
「あ、ごめんなさい。でも、堅苦しいのとか苦手なんだもの・・・」
屋敷を出ることさえ、通常の貴族の姫君であればめったに叶うものではない。ましてや供もつけず、牛車にも乗らずということなどありえない。しかし、どれほど長く京に暮らそうとも、あかねはこればかりは慣れることができそうもなかった。今となっても、姫君らしく屋敷の奥に収まっていることも、供に付き添われて、牛車で出歩くことも苦手だった。
友雅はすまなそうにうつむきつつも、何か言いたげに上目遣いで自分を見上げるあかねに、声を出して笑った。
「あなたらしいね。」
「・・・怒らないんですか?」
「なぜ、怒るの? 供の者には気の毒だけれど、私はあなたのその自由に羽ばたく心が好きなのだよ。
 それは確かに、少しは心配するけれども・・・
 でも、どれほど言ってもあなたを閉じ込めてしまうことなど出来ないと思うしね。」
「・・・なんだか、どう反応していいか困ります・・・」
「ふふふ、誉めているんだよ?
 あなたが、その心に纏う羽衣を今も持っていてくれることを」
む〜、とあかねは、友雅の腕の中で少し納得しかねる顔をしながらも、彼が自分が一人で出歩くことを怒らずに認めてくれたことを嬉しく思った。
あかねが、京に残ることを決めたのが去年の夏。残ることを決心させた友雅の元に身を寄せるようになり、季節は秋、冬と過ぎてまもなく京で迎える2度目の春がこようとしている。友雅のことを思えば、あかねは彼の北の方に相応しく振舞うことが必要であったろう。だが、友雅はあかねにそれを望もうとはしなかった。
彼女の自由な心と、その情熱の赴くままに行動する力を友雅は何より愛していたのだから、それは当然のことではあったが。もちろん、その一方で彼の心には常にあかねを心配する思いが常にあったのだけれど、それを表に出すほど若くはなかった。むしろ、そういう心の揺れを楽しんでいる節さえあったのである。
「まあ、しかし、牛車はともかくとして、けれどせめて供の一人くらいは付けて行ってくれると
 私も供の者も少しは安心できると思うのだけれど」
「・・・なるべく、そうします」
「ふふふ、それでも、なるべく、なのだねえ。なんなら私がいつもついていてもいいのだけれど」
「駄目です! 友雅さんはお仕事があるんですから!
 ちゃんと今度からは誰かと一緒に出かけることにしますから・・・」
「はっははは」
あかねが即答したことに友雅はおかしそうに笑った。あかねは、また自分が友雅の予想の範囲で反応を返してしまったことに気づいて不満そうに頬を膨らませる。くすくすと面白そうにその顔を眺め、ぷっくりと膨れた頬を指先でつついて友雅は尋ねた。 「それで、今日はどちらへ出かけておいでだったのかな」
その問いにあかねは思い出したようにはっと顔を上げる。
「そう! あのね、今日は藤姫のところへ行ってきたんです!」
そうだろうと思った、と友雅は内心笑みを漏らす。友雅の屋敷に移ってからもあかねは、頻繁に藤姫の屋敷を訪れていた。一人、屋敷の中に暮らす藤姫を気遣ってということもあるが、本当の姉妹のようにあかねは藤姫を可愛がっていたのである。そしてまた、この京にあってあかねが睦まじく話をできる少ない人間の一人でも藤姫はあった。
「藤の姫はお元気だったかな?」
「ええ! それに、頼久さんも元気そうでしたよ。」
「相変わらず、真面目一筋なのだろうねえ、頼久は」
「もちろんですよ。私が来たからって藤姫がわざわざ呼んでくれたんだけど
 少しお話したら、仕事が残ってるからって言ってゆっくりお話できなくてちょっと残念でした」
「ふうん、しかし、そんな風に言われると、少し頼久に妬くねえ、」
「バカなこと言わないでください、友雅さんったら」
「ははは、ほんとだよ、あなたの口から例え八葉でも
 他の男の名前が出ると心が痛むんだよ」
どこまで本気と信じていいのかあかねは困った顔をした。友雅はそんな顔を見てまた笑う。その顔を見て、あかねは、からかわれたのだと思って少し怒った顔をしてみせたが、話を続けた。
「それで、藤姫の屋敷のお庭に出てお話をしていたんですけど、
 お庭の桜が、ほころび始めていて早いものが少し枝の先で咲いていたんです」
「ほう、まだ蕾が膨らみ始めたところが大方だといのに、一足先に
 藤の姫の屋敷は桜の季節が訪れたかな」
そうして友雅はふと気づいたようにすうっと息を大きく吸い込んだ。それを見て、あかねがふふっと笑う。
「わかりました? 友雅さんにも早い桜を見せてあげたくて、一枝もらってきたんです」
「ああ、だからだね、香りがするよ」
「私のいた世界では、桜の花って春を象徴するような花で
 満開の桜の下で宴を催したりしたんですよ」
「じゃあ、一緒に桜を見にいこうか? 何なら宴を催してもいいね」
「・・・宴はいいですけど、それじゃあ、二人で桜を見にいきたいです」
あかねは少し恥ずかしそうにではあったが、そう友雅にねだった。友雅は優しく微笑むとあかねの柔らかな髪に口付けて
「じゃあ、墨染にでも、なんなら吉野にでも行こうか。満開の吉野は美しいだろうね」
「桜って毎年咲くけれど、毎年見ても全然飽かないですよね・・・不思議」
「・・・そうだね、でも私にはそれはちっとも不思議なことではないな」
「?どうしてですか?」
「・・・あなたと同じだからだよ。花も」
「・・・ちっとも、わかりません」
また少しふくれっつらになったあかねに、友雅は声を出して笑う。
「さあ、吉野の桜もいいけれど、咲き初めの一枝の桜を見せてくれるかな?」
そう言って腕を緩めてあかねの肩を抱く。あかねは、それを聞いて大きく頷きながら「はい!」と答えると友雅と共に部屋の中へと入っていった。
桜の花の柔らかな香りは夜の闇を満たし、二人の心をも満たしていった。


春霞 たなびく山のさくら花 見れどもあかぬ 君にもあるかな





END





少将お誕生日企画第二弾。っていうか、何がお誕生日企画なんだか(^_^;)
ちっとも誕生日ネタじゃないあたり。とほほ。
いや、お祝代わりにいつもより、ちょっと甘いめを目指したんですが(^_^;;;)




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