それから


「ん……」
朝の柔らかい日差しが二重に閉めたカーテンの隙間から差し込んでくる。景時はうっすらと目を開けて、まだ少し早い時間だと見ると、隣に眠る望美が目覚めてしまわないようにとその光が届かないよう自らの体の位置を変えた。その動きに少しだけ望美は身じろぎをして、景時に身を寄せてくる。ふわりと彼女の髪から柔らかい花の香りが景時の鼻腔をくすぐった。

『望美ちゃん、いい匂いがする』
そう言って抱きしめると、『シャンプー変えたんです』とはにかみながら答えていたっけ、と思い出す。少し前までは全く想像もできなかったものが今は身近にあって当たり前のように景時も使っている不思議。しかし、一番の不思議は何よりもきっと自分のこの腕の中に望美がいてくれることだと間違いなく思う。かつて、熊野の地で彼女の口から自分を好きだと言われたときでさえも、自分が彼女と未来をともにすることがあるなどと思い描くことはできなかった。それが今、こうやって彼女を抱きしめて口付けて間近く感じることができる。
 生まれ育った場所とは全く違うこの世界に来て、見たこともないものに驚くばかりだった。なのに不思議に馴染むのは早くて、今はもう当たり前に柔らかなベッドで眠り、口にしたこともなかった食べ物だって普通に食べている。そうやって少しずつ全てが当たり前になっていくのかもしれないけれど、彼女が自分の傍にいてくれることを当たり前にしたくはないと思う。いつだって、それだけは奇跡に近いほどの何よりも尊い特別なことだと感じていたい。
 すうすうと眠る望美の頬にかかる髪をそっと指で避けて優しく撫でる。穏やかな寝顔を見ていると景時も幸せな気持ちに満たされる。愛しいと思う気持ちはどこか苦しくて切なくて哀しさに良くにた思いに感じる。けれどその愛しさが溢れそうになって望美に触れると、苦しくて切なくて哀しいような愛しさは、ただただ満たされる幸せへと変化するのだ。

 眠る望美の手がもぞもぞと景時の胸に触れる。そっとその手をとって指先に口付け、布団の中に戻してやる。オレンジ色のチェックのパジャマは景時のグリーンのチェックのパジャマとお揃いで。休みの週末だけ泊まりにやってくる望美は、それでも景時のこの世界の家の中で、彼女自身がいなくてもその存在を十分に感じさせてくれるようになっていた。たとえば、そう、今彼女が着ているパジャマは普段はクローゼットの一番上の引き出しに入っていて、その段は望美のためのものになっている。たとえばそう、あと1時間ほど後に二人で飲むであろうコーヒーを入れるマグカップも客用ではなくて望美のためのものが食器棚に入っているし、洗面所で並んで歯を磨くときも望美と景時の歯ブラシがちゃんと並んで立っている。いわば望美は景時の家へくるのに身一つでやってきても何も困らない。景時と同じく、この家だって望美がいて初めて満たされた空間になるのだ。

 戦のないこの世界が、実は言うほどに平和で何の問題もない世界というわけではないということも、景時にはわかってきていた。それでも少なくとも大切なものを守るために、ここでは誰かを手にかける必要はない。それだけは間違いなく幸せなことだといえる。大切なものを守るために手を血に染めた。北の大地を戦火に包んだ。その罪が消えたとも、贖ったとも思わないけれど、それだからこそこの世界でも最後まで、手にした大切なもの……望美を守りぬこうと思うのだ。今度は誰の血も流すことなく。
 少しの間ベッドを離れて、朝食のためにコーヒーメーカーにスイッチを入れてくるべきかどうかとしばらく迷った後、コーヒーよりも望美を選んで景時は自分ももう一度目を閉じた。







 温かいものに包まれて安心して眠っていた望美はそれが一瞬遠のいたような気がして無意識に手でそれを探した。すぐにその手は探していたものに当たり、優しく戻され安心する。ああ、そう、もう大丈夫なのだ、と思いなおす。そしてしばらくして、自然に望美の意識は眠りから醒めた。
 目をあけて一番に飛び込んできたのは、グリーンのチェックのパジャマとその間から覗く今はもう宝玉のなくなった鎖骨。触れたいと無意識に思ってしまうのだが、まだ眠っている景時を起こしてしまいそうで我慢した。その代わり少し頭をずらして、更に彼に寄り添った。
 間近く感じられるこの温もりが何より愛しくて嬉しい。

 こちらの世界に来てしばらくした後、景時が本を読んでいるのを見つけた。何を読んでいるのかと尋ねたら、「平家物語」と「義経記」だと答えた。他にもいろいろその時代を描いた小説なんかも読み散らしていたらしい。こちらの世界に来た彼が、たとえ異世界の出来事だとはいえ近い歴史を持つこの世界の同じ名前の人物たちのことを気にしないはずはなかった。この世界での義経と景時、そして弁慶、頼朝、敦盛……その運命を知った彼に、なにを言えばいいのか望美はわからなかった。
『……あっはは、なーんか、オレって結構、悪役だね』
景時よりも思いつめたような表情になった望美に向かって、景時は笑ってそう言った。
『ち、違うの、あのね、それだって本当のことが書いてあるんじゃなくて、ちょっと作ってあったりして
 鎌倉武士を体現したのが梶原景時だ、っていうような話だってあるし、
 私もね、戻ってきてからいろいろ調べたりしたの。
 こっちの世界の梶原さんも、真面目で自分のすることをちゃんとやった人だったって言われてるし……
 …………それにね、それに、その人は景時さんとは別の人だよ、同じ名前だけど、全然別の人。
 こっちの世界の義経は私たちの知ってる九郎さんじゃないし、弁慶さんもそう。
 こっちの世界では、悲しい結末だけど、九郎さんたちはそうじゃないでしょう?
 敦盛さんだってそうだったでしょう? 皆ちゃんと生き延びて平和に暮らせるようになったじゃないですか』
一生懸命にそう言っているうちに、なんだか泣きそうになった。こちらの世界の歴史のことまで背負わなくたっていいんだからとそう伝えたくて。ごめんね、と呟いて景時はそんな望美に手を伸ばして優しく抱きしめてくれた。
『そうだね、こちらの世界のオレと同じ名前をした誰かはオレとは違う人間だ。
 そう、わかってるつもりではあるんだけど。
 …………彼は、自分の守りたいものを守れた、のかな。それともそれは叶わなかったのかな』
景時の言う【彼】が誰のことかは聞かなくてもわかったし、顔を上げて見なくても景時がきっと遠い目をしているのもわかった。自分と良く似ていたかもしれない人と自分の良く知る人と似ていたかもしれない人の運命の先を知るというのはどんな気持ちなのだろう。望美には想像もできない。
『……でも、景時さんは守ったんだもの。
 もしかしたらこっちの世界みたいに悲しい結末になるはずだったことを守ったんだよ?
 それじゃ、だめ?』
『ううん、違う。そうじゃなくて、ね。君がいなかったら、オレたちもこうなっていたのかなって思って。
 オレは結局頼朝様に逆らえず、九郎と袂を分かち彼を追い詰めたかもしれないなって思ってさ。
 オレに君が居てくれて良かったってそう思うよ。悲しい結末を変えたのはきっとオレじゃなくて、君だよ』
いつも優しいその声音に、望美は顔を上げて景時の目を見上げる。
『……私は、きっと景時さんは私がいなかったとしても九郎さんたちを助けるために
 最善を尽くしただろうってわかるけれど
 でも、景時さんが私がいたから頑張れたと思うって言うなら、私はあの世界に行けて良かった。
 景時さんの力になれたのなら良かったです』
自分を信じることができない彼の代わりに、望美は彼の全てを信じている。その優しさも、弱さと表裏の強さも。今も時折、景時は遠い目をする。過去を思っているのか、それとも自分の去った後の京のことを思うのかそれは望美にもわからない。こちらの世界の歴史の話を交わした後、一度だけ景時は頼朝について語った。
『……オレね、望美ちゃん、オレは頼朝様のやり方は賛成できなかったし辛かったけど
 頼朝様が成そうとなさっていたことは、間違いではないと思っていたんだ。
 東国武士の世をつくること、そして鎌倉を中心に西国から北まで全てを平定すること、それが戦のない世を作ると思ってた。
 でも、そうやって作り上げた世もこちらの世界のように進んで行くなら、
 頼朝様の作った源氏の世も儚く終わるってことだよね。武士の世の中さえ終わってしまう。
 あんなに多くの人の血を流して作り上げようとしたものは何だったんだろうって思ってしまうよ』
『それは、そのとき必要だったもので、無駄なことなんかじゃないと思うんです。
 なんだって一足飛びに進歩することなんてできない。
 そのときの精一杯の積み重ねがきっと歴史になるんだもの。
 それに、京の歴史はこっちの歴史とは違います。だって、九郎さんも弁慶さんもいるんですもの。
 こっちとは違う歴史を積み重ねていってくれます。白龍にもお願いしておきましたから』
ときどき、あっちへ様子を見に帰れるといいんですけどね、と望美は殊更軽く言った。白龍にそれもお願いしておけば良かったですね、と。そう言うことで景時の深い思いも軽くなればいいと思って。景時もその言葉に笑ってくれた。
『なんだか、不思議な気分だな。オレはあちらの世界で自分に出来ることは全てやった、守りたいものを守った、
 思い残すことはないと思ってはいるんだけどね』
『そんなの、私だって気になりますよ。当たり前です。朔は元気かな、とか。
 九郎さんや弁慶さんは元気かな、とか。敦盛さんや先生も元気かなとか。
 でも、皆のこと信じているから、皆平和に楽しく一生懸命生きてるだろうなって思ってます』
信じること、自分を、自分のしてきたことを、そして仲間を信じること。そうやってたくさんのことを乗り越えてきた。だから今このときも同じように。
『だから、私も一生懸命、今、生きようって』


 今こうして隣り合う温もりを大切に、日々を重ねていこう。当たり前に見える幸せが、本当は当たり前のものではないことを胸に刻んでおこうと願う。今も時折、京の仲間のことを景時と話す。あのときのような感傷的にではなく、ただ遠いところにいる友人を気遣うように、そして思い出を取り出すように。彼らは彼らで今も勝ち得た平穏の日々を生きているだろう。そう信じることができるから。彼らなら、そういう日々を重ねていくことの大切さを知っていると思うから。
「……私たちも、大切に一生懸命、生きましょうね」
このひとと生きるために勝ち得た平穏だから。そうなったかもしれない運命を乗り越えて今を作っているのだから。
 溢れる愛しさに抗えずに、望美は手を伸ばして眠る景時に触れる。するりと鎖骨をなぞる指先を、景時の腕が捕らえた。







「景時さんったら、また、テーブルの上に本出しっぱなしなんだから」
居間のテーブルの上に積み上げられた本を重ねて片づけながら望美がそう言う。トレイに朝食を乗せて運んできた景時はそれに気付いて
「わー、ごめん、望美ちゃん!」
と申し訳なさそうに声を挙げた。案外にのめり込むと一途なタイプだとわかった景時が、こちらの世界の知識を吸収するのに今夢中なのが読書で。おかげで部屋のあちこちに、図書館で借りたり、買ってきたりした本が落ちていたり置かれていたりするのは日常のことだった。そして、週末やってきた望美が順番に拾って片づけていくのも。本を片づけながら望美はその背表紙を眺める。『源平盛衰記』『吾妻鏡』『御成敗式目現代語訳』『太平記』……望美にしてみれば題だけは(最近になってやっと)調べて覚えたものの、中身については皆目わからないものばかりだ。思わず眉間に縦皺が寄ってしまったのを見たのだろう、景時が慌ててトレイをテーブルに置くと駆け寄ってきて本を望美の手から取り上げた。そのまま、少し硬い顔になって望美の手から取った本を本棚に並べる。
「……古文や歴史は景時さんに教えてもらったら成績が上がりそうですね」
「…………ちゃんと、別のものだってわかってるから、大丈夫だからね」
望美の言葉とは裏腹に景時は真面目な声でそう言った。そして望美に向き直るともう一度、繰り返す。
「もう、ちゃんとわかっているから大丈夫だよ。
 ここに書かれていることは、オレの知っている京や鎌倉や平泉とは違う出来事だってちゃんとわかってるから。
 ただ、読んでみたらやっぱり面白いんだよね。だから、ついつい読みふけっちゃってさ」
少し決まり悪そうな顔になっている景時に、今片づけた本を一冊、望美は取り出してページをめくる。
「……これって、室町幕府ができるころの話ですよね。私もちょっとは勉強したんですから。
 このあと、えーと、戦国時代があって、江戸時代があって……。
 景時さん、まだまだ読む本いっぱいありますよ。そのうち、この部屋、本だらけになるかも」
ほっとしたような顔になって景時も笑いながら言う。
「うん、オレ、あれこれ知りたいことが多くてさあ。図鑑も欲しいんだよね、いろいろ載ってるの。
 それに、世界のこととか、宇宙? のこととか、なーんかいろいろ面白そうだし」
「……本もいいですけど、私のことも忘れないでくださいね?」
そう言いながら、望美は手にした本をまた本棚に戻した。その手に景時の手が重なる。そっと耳元に吐息が近づいて。
「……そんなの。オレが一番興味有って、知りたくて仕方ないのは
 いつだって、望美ちゃんのことだよ」
そのまま緩く抱きしめられて、唇が項に降りてくるのに一瞬、うっとりとした望美だが、その鼻をくすぐるコーヒーの香りに引き戻される。
「景時さん! 朝ご飯、冷めちゃう!」
するりと腕の中から軽やかに抜け出ていった望美に景時はちょっとだけ苦笑を漏らした。腕の中に居てさえも、捕まえたと思っても、彼女は何処までも自由で軽やかで、自分はそれを追い続けるのだろう、などとふと感じながら。

今を精一杯生きて積み重ねること、それが歴史になっていくから。二人、この世界で、新しい歴史を紡いでいこう。


END




十六夜記ED後の二人のイメージで。
景時や弁慶、九郎、敦盛、ヒノエもかな、現代に来たら
こちらの世界の歴史を知るわけで。どう思うんだろうなーなんて。




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