手習い





「景時さん、私にも書を教えてください」
束の間の平穏な京邸でのひととき、望美は景時の部屋を訪ねた。この世界に来て話すことは特に不自由を感じなかったが、一番苦労しているのは文字だ。同じ日本語だとはわかっているけれど、そのうねうねとした文字をどうにも読めない。何故、景時にせよ九郎にせよ、弁慶にしたって敦盛にしても何不自由なく読み書きできるのか不思議だ。英語の筆記体とはワケが違う。
「どうしたの、望美ちゃん」
自室で書物を読んでいた景時は突然の訪問者に少し驚いたように言った。
「お邪魔でしたか?」
朔からもらってきた手習い用の紙束と、借りてきた筆を手に望美は何かを決意したかのように、きゅっと口元を引き締めた表情でその場に立っていた。
「いや、大丈夫だよ。どうしたの、随分と思い詰めた顔しちゃってるけど、望美ちゃんこそ大丈夫?」
取りあえず、中に入ったら? と言うように景時は円座を指した。望美は部屋に入ると景時の前に座り込み、ずいと顔を近づけて言う。
「景時さん、毎日、なるたけ習字を続けてるっておっしゃってましたよね?
 私にもお付き合いさせてください。もうね、文字が読めないと地図も読めないし、手紙も読めないし、
 お店に行っても値段も読めなきゃ、品物も読めないんですよ。大変なんです」
それはそれは盛大に溜息とともに言われて、景時は、そうなの? とちょっと驚いたように応えた。
「でも、買い物なら朔が一緒だろうから読んでもらえばいいし、手紙だって地図だってそうでしょ」
そりゃそうですけどね、と望美は肩を落とす。その様子に景時は、自分が書を続けている理由として『心を落ち着けるため』と望美に話していたことを思い出した。日々、怨霊や平家との戦いが続く中、元々、こんな戦のない世からきたという望美のことだ、自分もそうやって心を落ち着けようと考えているのかもしれない。
「うん、でも、何かを始めたり覚えたりするのは悪いことじゃないからね。
 オレで良ければ協力するよ。まあ、あんまり根を詰めずに気分転換のつもりでするといいよ」
思い直したように、協力的な台詞を口にする景時に望美はぱあっと表情を明るくすると、
「本当ですか? 良かった〜! やっぱり景時さんにお願いして良かった!」
と笑いながら言う。その顔を見て、景時は(ああ、この顔にはホントに弱いんだよなあ)としみじみ感じてしまうのだった。妹の朔と同年代の少女だから、もう一人妹が増えたようなもの、だと最初は思っていたのだけれど、『兄』のように余裕ある態度で見守っていようと思う自分と裏腹に、望美はそんな思惑を軽々飛び越えて景時を圧倒した。むしろ、景時の方が励まされたり、気付かされたりすることが多いような気がする。気がつくと望美の笑顔を楽しみに……その笑顔を見たいが為におどけてみたり、頑張ってみたりする自分がいた。
「じゃあ、手習いの見本をね、オレが作ってあげるから、それを見て練習するといいよ」
景時は望美の持ってきた紙を何枚か受け取ると、そこにいろはの仮名文字を丁寧に少し大きめに書いていく。
「は〜。やっぱり毎日続けているだけあって、景時さん、達筆ですねえ」
やたらと感心する望美に
「そんなことないよ。オレなんて上手のうちに入らないって。望美ちゃんは見慣れないから、そう思えるだけだよ。
 これを上手のうちに入れちゃダメだよ〜。本当はお手本だってもっと上手な人に頼んだ方がいいんだからね。
 それに、女性の手の見本の方がいいんだから」
と口早に景時はまくしたてる。心静かに落ち着いて文字を綴る……という常の日課とはほど遠い雰囲気だった。しかし、煩わしいと思うはずもなく、浮き立つ景時の心までが文字に現れているようで、少しばかり景時はそんな文字の違いを望美に見抜かれはしないだろうかと心配になってしまった。しかし、さすがに読み書き自体がまったくわからない様子の望美には、そうした文字の微妙な変化はわからないらしく、相変わらず感心した様子でじっと景時の手元を覗き込んでいるだけだ。少し残念なようなほっとしたような気分で景時は仮名文字を書き上げる。
「やっぱり、景時さんは達筆ですよ。だってほら、景時さん、毎日続けているんだから、書が好きなんでしょう?
 好きこそものの上手なれ、って言うじゃないですか」
それは褒め言葉なのだけれど、少し微妙でもあるようなと思いつつも景時も照れているだけで、けして望美が感心してくれるのが嫌なわけではない。
「頑張って見本見て練習しますね」
乾ききらない仮名見本を広げて持ちながら望美が言う。あまりに嬉しそうなので、景時も微笑ましくなって
「今度、市でもっといい紙があったら望美ちゃんに買ってくるね。
 何色の紙がいいかなあ。銀色なんてちょっといい感じだよ。なんなら、一緒に見にいってもいいね」
と言ってみる。
「え、でも、まだまだ下手っぴなんだし、そんな上等な紙、私にはもったいないですよ」
肩を竦めて首をぶんぶんと横に振る望美に、景時は笑いながら
「練習にはちょっともったいないかもしれないけど、じゃあ、その紙に文を書けるようにって
 目標にしたらいいんじゃないかなあ?」
と望美が出来そうなことを言ってみる。すると、なるほど、というような顔で望美は
「じゃあ、文が書けるくらいに上達したら、景時さんに文を書きますね!」
と笑いながら頷いた。
「ええっ? オレに?」
「そうですよ。だって、景時さんが教えてくださるんですから。こんなに書けるようになりましたって
 景時さんに文を出します」
ああ、そうだ、別にそんな恋文っていうわけじゃないものね、と内心少々落胆気味になりつつも、景時は嬉しいよ〜、と望美に言った。


その数日の後、景時の元へ望美が手に何かを持って現れた。
「やあ、望美ちゃん、どうしたの」
「じゃーん! 練習してみました! ちょっとはマシになったと思うんですけど! 読めます?」
望美が景気の良い口調の割にはおずおずと景時の前に広げて見せたのは、文字の書いた紙だった。
子どもが書いたようなたどたどしく、見本を一生懸命真似た、というような文字が連なっている。
『かじわらのかげとき さま  かすが のぞみより』
と、全て仮名文字で書いてあるのはなんとか読めた。
「まだね! まだ、景時さんにもらった上等な紙にかっこよく書けるようなものじゃないから!
 ちょっと、これは、練習というかね、どうですか? 読めます?」
いつもいつも剣技や戦場では、ひるむ様子もなく前に進む望美の常になく自信なさげな様子についつい微笑んでしまう。
「うん、読めるよ。オレ宛なんだなー、名前書いてあるなーってわかる」
「ほんとですか? 良かったー! じゃあ、今度はちゃんと文を書けるようにしますね」
「あはは、楽しみにしてるよ〜。
 和歌なんかつけちゃったりして、あと、花なんか挿しちゃったりすると雅やかな文になるよ」
「そうなんですね〜! でも、私、和歌なんて詠めないですよ」
とてもそんな高度な技は無理、と目を丸くする望美に景時は
「誰かの歌を借りてきてもいいんだよ。それに、まあ無理に和歌をつけなくたっていいしね」
と笑って言う。
「借りてくるのだって大変です。知ってなくちゃ無理だもの。
 私なんて、お正月の百人一首の中の2枚くらいしか知らないですよ、和歌なんて。
 景時さん、そんなすぐに歌が出てきて手紙にさらさら〜っと書けちゃったりするんですか?」
妙に期待に満ちた目をして望美が景時を覗き込む。軍奉行で武士といえども、景時はどちらかといえば身体を動かすよりも机上で書物を読んだり考えたりする方が好きな性質ではあったし、教養として和歌は身につけている。が、今の望美の期待に満ちた目に応えられるほどの技量が自分にあるかと言うと、そこまでの自信はない。
「いや、ええと」
ぽりぽりと頭を掻く景時に、望美は自分がまた何か迷惑なことを言ったのだろうか、というような顔になって少し大人しくバツの悪そうな顔になった。それを見て、逆に今度は景時が慌てる。元はといえば自分が文に歌なんかつけるといい、なんて言いだしたから、こんな話になったわけで。
「ええと、そうだ、オレが望美ちゃんに文を送るとしたら、こんな……」
と、思い出した和歌をしたためてみる。それを見て望美は、やっぱりそんなすぐに歌を思い出せるなんてすごい、と言いながらも微妙な表情で呟いた。
「……読めない……です」
がっくりと肩を落として言うと望美は
「なんて意味のどういう和歌ですか?」
と景時に尋ねる。したためてみたものの、いざ、意味を問われるとそれを説明するのに照れ臭くなってしまった景時は「いや、伊勢物語の中のね、こういう和歌があって、なんていうかなあ……」としどろもどろに誤魔化そうとするが、望美は目をきらきら輝かせてその先を待っている。
「じ、自分で読めるようじゃないと、勉強にならないよね。 じゃあ、いつか読めるように頑張ろうね」
かなり強引に誤魔化すように、そう景時は言ってしたためた紙を反故にしようとすると、望美の手がそれを横から攫っていく。
「わかりました! じゃあ、自分で読めるように頑張るから、これ下さいね」
大切そうに読めない文字をじっと眺めている。
「ええっ、あの、いや、そんな大したものじゃないんだから、読む練習用にはまた違うのを……」
「これでいいです」
言下に言われて景時は続ける言葉を失う。景時の書いた和歌の紙を大切そうに持ったまま、また頑張ろうっと、と呟いて部屋を出ていこうとした望美は、最後にちょっと振り向いて景時に言った。
「これ、誰かに読んでもらっちゃダメですか?」
「だめ! 絶対だめ! そ、それじゃ勉強にならないから!!」
もの凄い勢いでそう言う景時を訝しそうに見つめながらも、じゃあ、自分で頑張ります、景時さんって案外厳しい先生だなあ、などと言いながら望美は去っていった。いや、本当は厳しさなんじゃなくてね、と景時はしまったなあと頭を掻く。どうか、望美が読めるようになる前に、今の紙をなくしてしまいますように、と景時は顔を紅くしてかなり真剣に願ったのだった。


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「でもね、読めるようになったんだけど、意味は良くわからなかったんですよ」
後々になって、望美は傍らの景時に向かって言った。
「えっ、そうなの? なんだ、それならあのとき、あんなムキになったりしなくてよかったよ。
 あの後、オレ、結構凹んだんだよ〜。ヘマしたなあって」
「ええ。でもね、意味がわからなかったから、先生に聞いちゃった」
「ええっ、そ、そうなの……。リズ先生に、訊いたの……ああ、そう」
ははは、と続く望美の言葉に力無く景時が笑った。やっぱり、もっとムキになって、奪還しておくべきだったか。
自らの心の内を託したようなものをリズ先生のような人に知られてしまうとは、己の至らなさを痛感するようで非常に恥ずかしい思いがする。だからといって、じゃあ弁慶だったら、とか、譲だったら、とか、九郎だったら、とか言われると、それだって絶対嫌なのであるが。しかし、そんな複雑な男心? も知らぬげに、望美は違うことに関心があるようだった。
「それでね、景時さん?」
「え、ああ、うん、何かなあ?」
リズ先生に今度どんな顔して会おう、いやでも、とっくの昔のことだから今更気にするのも絶対変だよね、とくよくよ考える景時は呼びかけられて、望美を向き直る。その手をきゅっと握ると望美はそっと景時の手を自らの頬に押し当てた。望美の掌の温もりと頬の柔らかさが景時の手に伝わってくる。
「え、なに、望美ちゃん??」
驚いた景時に望美はにっこり笑いながら言う。
「私は、ちゃんとこうやって、触れることができるでしょ?
 月の上の人みたいに、手が届かないなんてこと、ないんだから。
 景時さんの、傍にいるから……ううん、景時さんの傍に、いさせてくださいね」
その言葉に、景時の中から目の前の望美以外の事柄はすぐにふっとんでしまった。リズ先生に何を知られたって? そんなの全然大した問題じゃない。こんな風に言ってくれる人が、今、目の前に、こうして、手に触れてくれているのに。
「もちろんだよ、オレの方から傍に居て欲しいってお願いするよ」
そう言う景時は、空いた方の手を伸ばして望美の肩を抱くとそっとその身体を引き寄せたのだった。


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目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける

END





遙か3より、景時×望美です。
景時に書を貰って、その後で敦盛からの書が読めないという神子に
毎日、書を書いてるという景時に習えばいいじゃん、とか思ってしまいました。
ま、でも、男手と女手は違うんですよね、確か。となると、朔に習うといいのか?


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