氷 雨

「先生!!」
手がちぎれそうだった。それでも青葉は手を離そうとしなかった。ぎりぎりと重力が青葉の肩を腕をさいなむ。
「緋勇さん、もういいの、手を離しなさい」
マリアはそう青葉に向かって言った。
「イヤです! イヤです!!」
青葉は苦しい息の下でそう答えた。もう声を出すことさえも辛いほどだったけれど、それでも手を離したくなかった。憧れの女性だった。優しくて、いつか自分もこんな大人の女性になりたいとそう思っていた。たとえ、自分に近づいたのが彼女の目的のためであったとしても、教師としての彼女の生徒に対する思いやりはけして表面的なものだけではなかった。
「もう、いいの。あなたまで、落ちてしまうわ。もう、手を離しなさい」
「先生・・・・!」
涙が滲んだ。涙でぼやけてマリアの顔がもうはっきり見えなかった。しっかり掴んでいたはずの手が滲む汗でずるずると滑る。誰か、助けて。誰か、手を貸して! 青葉は必死に祈った。もっと力を。腕を持ち上げて。マリア先生を助けあげるの。もっと、力を!
必死に滑る手に力をこめて、軋む骨を騙して震える腕を持ち上げようと青葉はした。けれど。
「・・・・ありがとう、さようなら、緋勇さん・・・」
瞬間、青葉の手の中からマリアの手がすり抜けていった。
「先生!!!!」
手を伸ばしても届くはずもなく。青葉は呆然とした面持ちで、その場に力なくしゃがみこんでしまった。
最後に彼女は優しく微笑んだような気がした。


青葉は泣いていた。泣きながら歩いていた。わんわんと声をあげて泣きながら歩いていた。すれ違う人は皆、青葉を好奇心丸出しな顔で見ていったけれど、そんなことも気が付かなかった。
大好きだった。大好きな人だった。なのに、助けられなかった。悲しいとか悔しいとかそういう気持ちよりも、何かを喪くしてしまった胸の痛みが拭えなかった。まるでぽっかりと開いてしまった穴を埋めるのに涙が必要であるかのように、青葉は泣きつづけていた。
どこをどう歩いていたのかはわからない。気が付いたら、その場所にいた。自分の家に向かう方が近いし慣れてる。あたりまえのことだが。でも、気がついたらそこにいた。
その扉の前で青葉はまだ泣いていた。
彼は知っている。青葉がいることをわかっている。扉を開けてくれるかどうかもわからないけれど、彼の顔を見たかった。えぐえぐとしゃくりあげながら、青葉は扉の前に立ち尽くしていた。少なくともここまで来れたということは、彼がここへ青葉が来ることを許してくれたということなのだから。
わんわんと泣き続ける青葉の前で扉がゆっくりと開いた。
そこに、彼が立っていた。
いつもと変わらない表情で、じっと青葉を見ていた。
彼の顔を見たとたん、青葉は余計にひどく泣き出した。彼のいつもと変わらない顔をみたとたん、うえうえと涙が溢れた。とても好きな人に見せれるような顔じゃないのだが、そんなこともうどうでもよかった。どうせ、彼だってそんなこと気にするタイプじゃないし。
「・・・あなたが今、するべきことは、ここでそんなふうに泣くことじゃないでしょう?」
彼は泣いている青葉に向かってそう言った。ハンカチを貸すとか、涙を拭うとかなぐさめるとか、全然なくて、ただ静かにそう言った。
そういう人だとわかっていた。でも、顔を見たかった。少しくらいなら優しくしてくれるかもしれないと、そう思っていたかもしれない。でも、彼は青葉にそれだけを言うと扉を閉めてしまった。
閉まってしまった扉の前で、青葉は泣いていた。もう、その扉が開くことはないとわかっているのに、その扉の前で泣いていた。冷たい人だと思うより、もしかしてこのまま彼に嫌われてしまったかとそのことがまた哀しかった。わかっている。彼の言うことはわかっている。でも、顔を見たかったのだ。寂しくて哀しくて辛くて、彼の顔が見たかった。
こんな弱虫な自分を彼がどう思うか、わかっていたのに。
でも、会って話をしてほしいと思ってしまったから。
だが、しばらくの後、そこにあったはずの扉も消えてしまって、青葉は彼が、自分を「外」に出したのだとわかった。その頬を涙以外のものが濡らしだした。ぱらぱらと振り出した雨は、やがて勢いを増していったが、青葉はそこを動かなかった。雨の音が青葉の泣き声を消して、雨が涙を隠していったけれど青葉はそこで立ち尽くして泣いていた。
ひどく、寂しくて、ひどく空しくて、そのまま雨に溶けてしまいたいと思った。空は暗く人の姿もなく、ただこの世界に青葉ひとり取り残されたようで、でも、今の青葉にはそれがふさわしいような気がして。目が溶けてしまいそうなほど泣いているのにまだ泣き止むことができずにいた。
髪が濡れて頬に張り付き、水を吸って重くなった服が肌に張り付き身体を冷やしていった。指先がかじかみ、靴の中にまで入った雨のせいで足も冷たくなっていった。濡れた手でまだ流れる涙をぬぐって、青葉はとぼとぼと歩き出した。
しばらく歩いて、しかし青葉はしゃがみこんでしまった。
ひざを抱えてしゃくりあげる。
いなくなってしまった人が悲しくて。自分が情けなくて。
こんなところで泣いている場合じゃない。
それは、わかっていた。でも、それでも。
うえうえと泣いている青葉の上に雨が降る。
そのとき。
雨はまだ降り続いていたが、青葉の上だけ雨が止んだ。
それに気づいた青葉が頭上を見上げると、傘が差し出されていた。振り向くと彼が傘を青葉に差し出して立っていた。その顔はいつになく不機嫌そうで。だが、それは青葉に対してというよりも、そんな青葉を放っておけない自分に対してのもののようだった。
青葉は泣きながらゆっくりと立ち上がった。
「・・・家まで送ります、帰りなさい」
ぐすぐすと鼻をすすりあげて青葉はごしごしと目をこすった。一度は青葉を拒絶した彼が、また出てきてくれたこと。それが少し嬉しくて、でも彼に悪くて、やっぱりまだ哀しくて。泣きすぎてしゃくりあげて彼の言葉に答えることさえできない。一旦は涙を拭い去ったというのに、またまたえぐえぐと泣き出してしまう。
御門は何も言わず歩き出す。青葉はそんな御門の服の裾をしっかりと握った。それだけが、寂しさの中で確かに捕まえたものであるかのように。
しばらく黙ったまま歩いていた御門は、やがて静かに口を開いた。
「あなたは、今までもずっと戦いの中に身を置いてきたはずです。
 死は常に近くにあったはずです。
 今更、それほどに泣くことがありますか?」
うえうえと青葉はその言葉に余計にひどく泣き出す。
「私も、あなたでさえもけして不死なる存在ではない。
 生まれた瞬間から私たちは死にむかって歩いているのです。
 生きるということは、死に近づいていくということなのですよ」
ぎゅっと御門の服の裾を握る青葉の手に力がこもる。
「私もこの戦いの中で、命を落とすことがあるかもしれません。
 あなたでさえも、けして生命を永らえる保証があるわけではありません。
 けれど。
 私が明日、命を失うことになろうと。あなたが私の前から消えることがあろうと。
 それを越えて、果たさねばならない使命が
 あなたにも、私にもあるはずです」
それはとても淡々とした語りだった。なぐさめるでもなく諭すでもなく。ただ、淡々と。
御門はしかし、そこで立ち止まった。青葉も足をとめて御門の顔を見上げる。
「・・・私でさえも、どんなに親しい人間の死に対しても無感動でいられるわけではありません。
 ただ、感情を抑える術を知っているだけのことです。
 そして、するべきことを知っているだけのことです。
 あなたは、どうなのですか? 」
そう言う御門の目が少しいつもより優しく見えて青葉はふえ・・と涙がまた滲んできた。
御門は再び歩きだし、青葉もしっかりと彼の服を握ったまま歩き出す。雨は少し小降りになってきて傘をたたく音が優しくなった。
「泣くことが悪いとはいいません。
 ですが、力足りず悔しいのであれば、それを補う術を探すべきです。
 悲嘆にくれるだけでは、なにも始まりませんよ。」
えぐえぐとすすりあげながら、青葉は何度も頷いた。
マリア先生が好きだった。あのとき、自分にもっと力があれば、落ちていく彼女を助けあげることができたかもしれなかった。
その口惜しさが。その悲しみが。その痛みが。きっと忘れられない。
青葉の部屋の玄関まで御門は送ってくれた。そのころにはやっと青葉も落ち着いてきていた。
「自分が何をすべきか、わかりましたか?」
御門は部屋にあがった青葉に向かってそう問い掛けた。青葉は泣きすぎて掠れてしまった声で答える。
「・・・も、もっと、強くなるから・・・」
御門はそれを聞いて、その日初めて少しだけ頬を緩めた。それから
「そうですね、けれど今からすぐにあなたがしなくてはいけないことは
 まず、浴室へ行って浴槽に熱い湯を張り、身体を温めてからゆっくりと眠ることですよ」
御門らしくない冗談にも聞こえるような言葉に、青葉が少しだけ笑った。
「では、帰ります」
御門はそう言うと玄関のノブに手をかけた。その服の裾を青葉の手が掴む。
「あ・・・!」
無意識の動作だったらしい青葉が自分でも驚いて手を離す。御門は黙ったまま青葉を振り向き、そうしてしばらく二人とも黙ったままだった。赤面した青葉はうつむいてしまったが、濡れたままですっかり身体が冷え切っていて、つい我慢できずにくしゃみをしてしまった。
それが合図のように、御門は苦笑を漏らしてノブから手を離した。
「・・・まだ、そばにいてほしいのですか?」
青葉はその言葉に驚いて顔をあげ、御門の顔を見る。ますます顔が赤くなるのを感じながらもゆっくりと頷くと、御門は
「・・・まあいいでしょう、あなたが眠るまでくらいならそばにいますよ」
と言った。とまったはずの涙がちょっとまたこみあげてきて、青葉は少し困ったような顔をして、それでも、えへへ、と笑ってみせた。


強くなるから。
見ていてね。
もう、誰も自分の力不足で傷つけるような真似はしない。
強くなるから、心も、身体も。
だから、見ていてね。





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