僕の美しい人だから







地上に降りることが大好きで、まだ翼がそんなに大きくない頃から天界を抜け出しては、地上へ遊びにいっていた。よく、ガブリエル様にばれては、怒られたけれどそんなこと少しも気に掛けたりしないのが彼だった。
地上は、何もかもが珍しくて刺激的で、おもしろくて楽しかった。人々の暮らしぶりも、どれほど長く眺めていても飽きることがなかった。その地上界の言葉を覚えて使ってみたりもした。けれど、おかげでその話し方が癖になって、天界に帰ると口を利くだけでどこへ遊びに行っていたかばれてしまうのだ。
もっとも、今ではあらゆる地上界の方言(?)が混じってしまって、彼の話す言葉の大元がいったいどこの言葉なのだかさえわからなくなってしまっていたけれど。アルスアカデミアに入ってからも、彼の地上界への抜けだしはやまなかった。というかむしろ多くなったといってもいいだろう。アカデミアで学ぶ地上のことを、彼は実際に自分の目で確かめなくては、納得しなかった。行動派の変わり種な天使と思われても、彼は自分のやり方を変えるつもりなどなかったし、こんなに楽しいことを辞めるつもりもなかったのだ。
もちろん、大天使やアカデミアの教官はそれを許すわけもなかったから、見つかればそれなりの叱責も受けたし、懲罰もあった。アカデミアの寮にある反省室は、そんなものを必要とする天使がいるのかと長い間思われていたが、彼のおかげでやっと作った甲斐があったという有様だった。
それでも、まだ、彼のこの行為は旺盛な好奇心と探求欲の表れとして大目に見られていると言えた。実際、彼ときたら、将来の大物なのかあるいは単なる変わり種の落ちこぼれなのか、周囲が判断に困っていたのが現状といえた。もちろん、将来の大物だからといって、規則を破っていいというわけもなかったから、彼は反省室が自室のようになってしまっていた。それでも少しもへこたれないのが、彼の彼たる所以で、アカデミアの高学年になるころには、教官ももう彼が地上へ行くのをあきらめているようなところがあった。
彼としては、いまだ翼が発達途中で大きくないため、気流にのまれて天界へ帰れなくなるかもしれないというリスクがあるにせよ、ほかの天使(見習い)たちが地上に対する興味をさして持たず、机上の知識で満足していることこそが不思議で仕方なかったのだが。


しかし、そんな彼もさすがに危機一髪な目に遭遇することになる。
それは、天界からいつもより離れた地上界へ降りたあとのことだ。このころにはすっかり地上への抜け出しも慣れっこになっていた彼は、遠出をしてみたのだった。このところ、地上界のいくつかの世界は、戦や伝染病が多く、人々の暮らしぶりも乱れていた。その原因は彼のような幼い天使には理解しかねたけれど、それでも、何かが起こりつつあるということは何となく感じられた。 天界の大天使たちも、難しい顔をしていることが多かったし、天使の軍団を率いるミカエル様が表に姿を表さなくなったのも、何か理由があってのことだと思われた。そんなわけで彼は自分なりにその原因を探ってみようと思い立ったのだった。そうして天界からなるべく遠くの地上の様子を見に降りていったのである。
地上は、病んでいた。そして、その病み方には悪意が感じられた。息苦しさを感じるような、重々しい空気。そして、よどんだ時の流れ。彼は、どうしてこんなことになったのか、どうしてこんなになるまで天界がこの地上を放っておいたのか怒りさえ覚えた。彼が天空高くからその地上を眺めていたとき、その異変は起こった。暗く雲の立ちこめたような地上界が音を立てて崩れようとしていた。よどんだ時と歪んだ悪意が、一つの地上界を滅ぼそうとしているのだ。彼は、自分が今、一つの地上界の終焉に立ち会っているということに、呆然としていた。病んでいても、その世界には人が生き、木々が最後の望みをかけて新芽を芽生えさせようとし、生き物が暮らしていた。それが、渦巻くような暗雲へすべて飲み込まれようとしている。その渦の奥深くから、勝ち誇ったような笑い声を聞いたような気がした。
彼は、いったいこれはどういうことなのか、それを知りたくて天界へと戻ろうとした。だが、地上の渦巻く気流はやがて天空へも達し、彼の翼は思うように働こうとしなかった。彼はなんとか、その気流を脱しようと懸命にもがいた。背後の渦の中から響く哄笑が、腹立たしくまた、恐ろしくもあった。それは今まで感じたこともない悪意の固まりだったから。
翼は傷つき、身体もきしみ、彼はそのまま自分は天界へ戻れないのではないかと思った。やっと気流を離脱し、なんとか飛べるようになったとき、こわいもの見たさもあって彼は地上界のあったあたりを振り向いた。しかし、そこにはもはや何も見えはしなかった。
虚無の恐怖といえるものを感じたのはそのときが初めてだっただろう。
だが、彼は恐怖よりもさらに勝る好奇心を持ち合わせていたので、あれは何なのか、何が今起こっているのかをますます知りたくなっていた。あれを大天使様たちが知らないはずがないのだ。何が何でも天界に戻って事の真相を聞き出さねば彼の気がすまない。
「ぬおぉぉ〜!!!」
彼は疲れて傷ついた身体に気合いを入れて天界へ続く空を飛び続けた。もっとも気合いとは裏腹にその飛び方といえば、かなりへろへろでふらふらと今にも落ちてしまいそうな有様ではあったが。
それでも気力をふりしぼって何とか天界に帰り着いたのは、それからずいぶんと時間がたってからのことだった。
天界の入り口近くにある草原に彼は降り立つというよりも倒れ込む。きしきしと身体が痛むほかに、どうやらとてつもなく空腹だった。こんなときに腹が減るというのもまったくもって彼らしいといえたが。
「・・・こじゃんと疲れたがよ〜・・・
 さすがのわしも死ぬるかと思うた・・・・」
しかしながら、倒れ込んでしまったここはまだ天界の入り口。しかも人がくることは少ない。さらに空腹で彼はそれ以上動けそうもない。ここでもしかしたらこのまま餓死してしまうかもしれない・・・などという不吉な考えが脳裏をよぎる。何か、少しでもいいから何か食べ物があれば・・・・。
「いかんちゃ・・・・目がかすんでくるが・・・
 た・・・食べ物・・・・」
彼は少し顔をもたげて立ち上がろうとしたが、力足りず、再びがっくりと地面に身体を投げ出した。空腹感が増すと同時に、かの地上界で聞いたあの哄笑の相手に対する腹立たしさがふつふつと湧いてくる。先だって感じた恐怖は今はもうなかった。2、3発殴ってやらなくては気が済まない、というような怒りがわいてくる。そのわりに腹の底に力が入らなくてなんだか情けないのだが、得体の知れないものへの恐怖が空腹に負けるあたりが、彼らしいとも言えた。 そんなわけで、彼があまりの空腹にこの草原の天界の草花を食べたらおいしいのだろうか、とか、やっぱり花園を荒らしたとして怒られたりするんだろうか、とか考えていたとき、その声が聞こえてきたのだった。
柔らかで遠くかすかにきこえる歌声。誰かいるんだな、と彼は思った。だんだんこちらに近づいてくる。何の歌だろう、地上で吟遊詩人があんな歌を歌っていたかもしれない。春になると花が咲く、その美しさを歌ったような当たり前だけれど美しい歌。彼はひととき、空腹を忘れてその声に聞き入った。
『誰か知らんけんど、ええ声じゃ〜・・・』
なんだか、その声にあわせて腹の虫まで鳴きだしそうな・・・と彼は考えて、それはちょっとロマンチックではないな、と考え直す。彼はしばし目を閉じてその声に聞きいっていたのだが、ずいぶんと近づいてきた声が、ある時とぎれてしまった。どうしたんだろう、と思って彼が目をあけると、その声の主であろう少女の姿をした天使が彼を見ていた。
「あ〜・・・・怪しいもんじゃないけんど・・・」
と背中の翼を見れば彼が天使であることなど一目瞭然、怪しい者もなにもないというのに、とんちんかんな事を彼は言った。なんとなく、その少女をおびえさせてしまったような気がしたからだ。彼の姿ときたら、翼もボロボロだったから。
おずおずと、その天使は彼のそばへ近寄ってくると、彼の傷ついた翼にそっと触れた。かすかにではあるが、癒しの力が流れ込んでくるのがわかる。
「すまんのう、あんまし、無理せんでええがよ。
 見たとこ、まんだアカデミアの学生じゃろ、そねいに癒しの魔法やら使えんはずじゃけ」
それでも、いくらか彼の傷は楽になったように思えた。
「大丈夫、ですか?」
その天使は彼にそう尋ねる。地上界で見た可憐な花のようだと彼はその天使を見て思った。瞳の色がその花に似ている。
「ああ、ちっとばかし遠出しすぎてなあ。
 世話かけた。あんまし人の来んところじゃけ、このまま動けんかったら、死ぬるかと思うたが・・・助かったでよ」
彼はその天使を見上げて言う。傷はいくらか癒えたものの、空腹ばかりはいたしかたない。が、彼女に何か食べ物をくれ、というのが照れくさい気がした。言うとなんだが、こんなところでボロボロになって倒れているのもカッコ悪いというのに、さらに空腹で動けないときては救いようがないではないか。
しかしながら、彼の身体は己の要求にしごく素直なのだった。すなわち、ずいぶんと大きな声で腹の虫が鳴いたのである。
しばらく、驚いたような顔でその天使は彼の顔をまじまじと見つめていたが、やがてくるりときびすを返して走り去ってしまった。
「あああ〜・・・」
がっくし、と彼は再び地面に倒れ込む。やっぱりこの辺の草でも食べて帰ろう・・・たぶん、おいしい。たぶん、ばれない。ちょっとだけ腹の足しになればいいんだから。彼はそう思って目の前の花をむんず、とつかむ。と、そのとき、目の前に、差し出されたものがあった。
それは、天界の樹になる果実だった。アカデミアの裏庭にもたしかあったが、これは黙って採ると怒られるものではなかっただろうか。
「大丈夫です、私があとでガブリエル様に言っておきますから」
彼の視線から読みとったのであろう、その天使が彼にそう言う。それを聞いて彼はその果実を受け取り、口に入れた。天界の果実は一つで大きな回復と充足をもたらしてくれる。彼はそれを食べ終わるころにはすっかり元気になっていた。
その様子を見ていた少女の天使は、彼がすっかり元気になった様子をみて安心したのか、にっこりと笑うと帰っていった。
その後ろ姿をしばらくぼーっと眺めていた彼は、その姿が見えなくなってから、はっと気づいて声を上げた。
「な、名前!! 名前きくの忘れたがよ〜!
 男子たるもの、一宿一飯の恩を返さんわけにはいかんが!」
しかし、もう後の祭りなのだった。ただ、おそらく彼女はアカデミアの生徒なのだろうことはわかった。が反省室行きが多くてなかなか教室に現れない彼にとっては彼女が同期なのか何なのかまではわからない。
彼の中で地上界の得体の知らないものは、ちょっと忘れられそうになっていた。


しばらくして、彼はその天使がアカデミアの学生で彼と違って優等生であることを知る。学年は彼より下ではあったが、卒業は彼と同じだ。それは彼女が優秀だからではなくて、彼が単位をそろえるのに時間がかかったからにすぎないが。
あの日、あの歌声を聞いたときから、かの天使は彼の永遠のあこがれの人になっていた。卒業後、彼女はどんな天界内勤についたのだろうかと思っていたが、地上界の守護を任されたと噂で聞いた。それに興味を覚えた彼は、彼女の守護するというインフォスをのぞきにいったことがある。
インフォスは、かつて彼が滅びに立ち会った地上界とよく似た状況にあった。
この世界を彼女が救うのか。彼はしごく感動した。
『あねいにかよわげでありながら、この地上を守るっちゃ・・・
 えらい人じゃねえ・・・』
彼は大変に感動を覚え、そして自分がかつて遭遇した地上界を滅ぼしたものについて思い出す。あれと彼女は戦うことになるのだろうか。あれはいったい何なのだろう。どさくさにまぎれて(本当は忘れていたんだが)うやむやになっていた地上を脅かしているものについて彼はあらためてガブリエル様にきいてみる気になっていた。自分にだって何かできることがあるやもしれないではないか?
しかしながら、こっそりインフォスへ降りた彼が天界に戻ってきてみると、彼の行動はすっかりばれていたらしく、ガブリエル様からの伝言が伝えられたのである。
いわく。
すぐにガブリエル様の元へ出頭すること。
あっちゃ〜、と思わないでもなかったが、これまた逆に考えればこっちから会いにいこうと思っていたところでもありラッキーだと言える。彼は満面の笑みを浮かべて意気揚々とガブリエル様の元へと向かったのであった。

後に大物になるかもしれない天使イーリスの初仕事の始まりでもあった。





ううむ、いよいよ始ってしまった男天使の物語です。
知る人ぞ知る、天使イーリスは、もともと創作用に作ったキャラではないのですが
なんか最近愛着があってこんなことになりました
ちなみに基本的にお笑いで、らぶらぶはありません(^_^;;)
期待されていた方ごめんなさい (^_^;)





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