ラダール湖は、水量が豊かで水産資源も豊富な、近隣の村にとってはまさに恵みの湖であった。そのラダール湖に異変が訪れたのは最近のこと。 魚を捕りに船を出した漁師が帰ってこなかったり、あるいは、もっといつもなら獲れるはずの魚の量が激減したり。あるいは、夜ともなると湖から怪しくも妖艶な唄が聞こえてきて、旅人がその声に誘われ溺れたり。恵みの湖のはずのラダール湖は、いまや、魔物の湖となってしまっていた。 天使イーリスとヴォーラス騎士団長レイヴは、そのラダール湖の魔物を倒すために、やってきたのだった。 「おお〜、まっこと綺麗な湖じゃねえ〜。 広々としちょって、ええがよ〜。」 海だの野原だの広々としたところが好きなイーリスは、わくわくした調子でそう言った。レイヴはといえば、あいかわらず難しい顔をして湖を眺めていた。お互いに、『なんだってこんなに緊張感がないんだ』とか『なんしてこねいに難しい顔しちょるかねえ』とか思ってたりするのだけれど、そこはそれ、口に出さないのがオトナのお約束だったりする。 水は綺麗で景色もいいが、とにかく、今のラダール湖は魔物の棲む湖。村人たちは、ヴォーラスの騎士団長の訪れに大きな期待を寄せていたのであった。もちろん、村人たちには天使の姿は見えやしないので、騎士道を重んじ、心優しい騎士団長が自らやってきてくれたとそう思っている。 村人たちの出迎えにもむっつりと黙ったまますぐに湖へ向かった姿も、村人たちからは「さすがに偉い騎士さまは、貫禄が違いますなあ」などと言われているのだが、本人は知らない。イーリスの方はというと、愛想のないこの団長を勝手に照れ屋さんだと決めつけている始末であったりするのだった。 「さすがに団長ともなると、奥ゆかしいっちゃねえ〜。 男は黙って仕事するっちゅうわけじゃあ。ええねえ、男らしいがよ〜」 もちろん、そんなつもりはさらさらないレイヴのことであるから、イーリスの言葉も黙殺している。そんなわけで、レイヴはとっとと魔物退治を片づけて帰りたいことこの上なく、後ろ向きなやる気満々で湖にやってきたのである。 湖岸を歩いていくと湿地帯にさしかかり、足下が地面にのめりこむようになってきた。体重とは別に重い鎧を身につけているレイヴは、いささか身体が沈んでしまう。イーリスの方はお気楽に空を飛んでいるので、まったく頓着しない様子であった。 レイヴは、低く舌打ちしながら先を急いだ。足下が安定しないこのままでは、魔物が襲ってきたときに不利な状況におかれることは間違いない。しかも、天使が同行しているとはいうものの、何の役にも立ちそうもないというのが、レイヴの判断であった。そうして、その判断は正しいように思われた。先だってのシーヴァスの話をレイヴは聞いていたのである。さして普段つきあいがあるというわけではないが、レイヴとしては、シーヴァスにこの天使に売られたようなものなので、いささか思うところもある。多少の文句も言ってやらねばと思っていたところ、たまたま出会ったのではあるが、シーヴァスはといえば、レイヴが天使の事を口にしたとたん、弾丸のごとき速さで灼けた鉄よりも熱い毒舌をまき散らしたのであった。おかげでレイヴはシーヴァスに一言も文句をいうことができなかったのである。そういうわけなので、最初から天使には何一つ期待はしていないのであるが、多少の魔法は使えるらしい、ということも聞いてはいたのでとりあえずは、足手まといにだけはなってくれるな、自分の身だけは自分で守ってくれ、と祈るような気持ちだった。 一方のイーリスは、結構やる気が十分なのだった。先だってのシーヴァスとの事件解決にすっかり気をよくしてしまい、これはもう向かうところ敵なし!と上機嫌なのである。魔法だって使えるし(アカデミアでは何度か落第点をとったけれども、結局これも習うより慣れろ、ということで、実戦で使ってみればなんとかなるのだとか思ってたりする)勇者との信頼関係だってばっちりだし(と思ってるのはもちろん、自分だけなのだが)今回の仕事も楽勝だとか思っているのだ。で、イーリスの頭の中は、湖に向かう前に村人たちがレイヴに言った一言でいっぱいだったりする。つまり。 『貧しい村ですから、お礼として金貨などをさしあげることはできませんが 今では貴重なものとなってしまった湖の新鮮な魚でつくった 村の自慢料理でもてなしの準備をしておりますれば ぜひ、魔物を退治して無事に村までお戻りくださいませ』 早いところ魔物を倒して、村人たちに喜んでもらって、おいしい魚が食べてみたいなあ、などと思っていたりするのだった。もちろん、姿を見せていない自分がメインで食べることなどできないだろうけれど、レイヴがわけてくれるだろうなんて思っていたりする。 そんなお気楽天使などほとんど無視したような格好で、レイヴは黙々と湖岸の湿地帯を歩いていた。レイヴ自身は認めないかもしれないが、彼も勇者として仕方なしにこの仕事を引き受けたわけではない。本来の彼は優しい男であるから、村人が困っているとなれば頼まれればイヤとは言えない所もあるのだ。だから、とっとと魔物を退治して帰ろう、と思ってはいるが、面倒だとか煩いだとかそんな気持ちはない。そこは、やはり、骨の髄から騎士な男でもあった。イーリスはそういうところは見抜いていたりするので、やっぱり、団長は男気があるねえ、などと変な感心の仕方をしていたりする。 あいかわらず、まったくかみ合っていない二人がそんな調子で進んでいくと、湿地帯の葭の背がだんだんと高くなってきた。レイヴの姿がときどき空を飛んでいるイーリスからも葭の影で見えなくなったりする。 「ああ、いかんちゃ、はぐれちゃいかんちゃねえ」 とつぶやきつつ、少し高度を落とそうとしたとき、葦原ががさがさと揺れた。あ、あそこに団長がおるがよ〜、と思ったイーリスは、そちらに向かおうとするが、そのとたんに、レイヴが違う茂みから頭を出した。 あいや、ほいじゃあ、あれは・・・・ と思ったイーリスの目には、揺れる葦原からぬめぬめとした鱗が見えた。 「団長〜! おるがよ、おんしの右手少し先じゃ〜」 イーリスの声に、レイヴは剣を抜いて身構えた。足下が悪い上に、視界まで悪くなっていたが、イーリスの声に助けられる。レイヴは、剣を持ったまま、イーリスの指す方向の葦原へと駆けていく。剣に薙がれて葦が散った。 「でえい!」 気合いの声とともに、一閃を魔物に浴びせる。不意をつくつもりが反撃された魔物は、怒りの声をあげてレイヴに向かってこようとする。 「天使! 近くに広い場所はないか!」 顔をあげることはなく、空から見物しているであろうイーリスに声をかける。 「団長の左手奥に少しばか広いところがあるっちゃよ〜!」 レイヴはそれを聞くと走り出す。その後を魔物が追ってくる。鎧なうえに、足下が悪くどうしても早く走れない。しまったな、と舌打ちをするレイヴを、不意に青い光が包んだ。 「!?」 レイヴが驚くと同時に、身体が軽くなる。レイヴは一気に走る速度を上げると、イーリスが示した空き地へ葦原から駆け出した。怒り狂った魔物は、誘い出されているとも気づかず、レイヴの後に続く。 「団長〜! 魔法をかけたがよ〜! 一気にいくがよ〜!」 上空のイーリスが声をかけてくる。どうやら、さっきの青い光は、イーリスの魔法だったらしい。やっと天使らしいところを見せてもらったということか、とレイヴは剣を構えなおした。魔物はレイヴめがけて飛びかかってくるが、それを軽々とかわすと背後に回り込んで斬りつける。身体が軽いということは、こんなに便利なことかと、いささかレイヴは感心していた。鎧は防御力をあげるが、そのぶん動きを鈍らせる。シーヴァスあたりに言わせると、「そんな重くて見栄えの悪いものを好んで身につける神経がしれない」ということになるらしい。もちろん、日頃の鍛錬があればこそ、苦にもならないのではあるが、魔法によってではあれ実際に身体が軽い状態での戦いを経験してみると、確かに鎧は重いといえる、ということになる。とりあえず、天使というのも便利な存在だ、とレイヴはイーリスを少し見直した。 だが、しかし、である。その僅かに築かれたレイヴの天使への信頼も長続きはしなかった。 幾度か魔物の攻撃を避け、自ら攻撃をしかけていると、徐々に魔法の効力が失われつつあるのが感じられた。自分の動きに魔物がついてきている。そろそろ決着をつけたいところだが、意外に生命力が強いようだ。 「!!」 かなりの深手を負っているにも関わらず勢いの衰えない魔物の爪が容赦なくレイヴを襲う。とっさに身体をかわそうとしたレイヴだったが、よけきれずに攻撃を受けてしまう。傷を負うことはなかったが、身体ごとふっとばされた。地面に叩きつけられ、全身が痛む。 口の中を切ったらしく、鉄錆の味がする。その場に血を吐き捨てるとレイヴは痛む身体を引きずって立ち上がった。魔法の効力は完全に消えたらしく、先ほどまでの身の軽さはもはや感じられなかった。再び魔物の爪がレイヴを襲ってくるが、レイヴは今度はそれを正面から気合いで受け止め、剣で薙ぎはらった。 次の援護はないのか。 レイヴは、上空で暢気にしているのであろう天使を思った。その時、当のの天使の声がレイヴに届いた。 「団長〜。さっきの魔法は結構、大業じゃったさけなあ、わしの力もうないんじゃ〜。 すまんけんど、もうひとがんばり、自力で頼むが〜」 レイヴは思わず脱力しそうになった。いくら戦いに不慣れな天使といえども。作戦、とか力の配分、とかいうことを知らないのか? たった一度しか魔力を使う余裕がないのなら、あの場面ではなくもっと違う使い方があっただろうに。むらむらと苛立ちがわき上がってくるが、何より一番不快なのは、こんな天使を一瞬でも頼りにしてしまった自分だ。もう金輪際、この天使のことなど頼りにするものか。 こんな魔物風情、あの戦いの折りの追いつめられた状況に比べれば倒すことなどたやすい。自分一人の力でどうとでもなる。レイヴの怒りに満ちた剣が、今まで以上の勢いをもって魔物に向かって閃く。その鋭く激しい一閃は、魔物の喉を切り裂いた。地の底から響くような声をあげて魔物の身体が地に沈んでいった。 「おお〜、わしの檄がきいたかいね〜。 勇者がいつも以上の力を出せるように気を配るんも、天使の務めじゃからして〜 う〜〜む、まっこと、わしゃあようできた天使じゃねえ♪」 すっかり自分の手柄のように喜んでいるイーリスだったが、レイヴはもちろん、そんな言葉を聞くことなどなかった。剣についた魔物の血をぬぐい、鞘に収める。湖の水を口に含んで、口の中の血をすすぐと、いまだに中空で悦にいっているイーリスをおいて、レイヴは村に向かって歩き出した。とっとと帰ろう。彼は、しっかりと胸に決意していたのだ。 しかしながら。無口で無愛想で何考えているかわからなくていっつも眉が寄ってて怖い顔のヴォーラス騎士団団長は、基本的にはいい人なのだった。今でこそ、屈折しちゃってどんより暗い空気をまとっている事が多いものの、本来は笑顔のさわやかな青年だったのだ。今だって、女嫌いに人間嫌いとなんだかんだと他人を敬遠してはいるものの、困っている人を無視したり他人事に無関心でいられるほどに、冷たくもなりきれない人なのである。ある意味、それがレイヴ団長の不幸なのかもしれなかったが。 で、何でそれが不幸かというと。 村に戻ると、それはもう村人たちは喜んでレイヴを迎えてくれた。これで、湖も元に戻るだろう、魚も戻ってくるだろう。村人たちの生活もよくなるだろう。さすがに、偉い騎士さまは違う、と口々に賞賛しあう。もちろん、レイヴはそんなことにはまったく興味がなかった。魔物は倒したから、とそれだけ告げると、とっとと帰ろうとしたのである。しかし。村人たちは、レイヴのために、心づくしの宴席をもうけていた。湖で獲れた鱒の香草パイ包み焼き。魚のトマト煮込み。鰻の稚魚のオムレツ。塩釜焼き。淡水貝のスープ。漁獲量が少なくなってなかなか最近では作れなくなったというような料理を並べてレイヴを待っていたのである。 「どうぞ、心ばかりのもてなしですが、受けてくださいませ」 村長が頭を下げるのに、レイヴはあいかわらず難しい顔をしたまま言った。 「いや、俺は・・・・」 しかし、続いて「この足で帰るので礼にはおよばん、宴席へ出ることは遠慮する」と言おうとしたとき、彼の後ろでごっっっっくん!という音がした。というか、その音はレイヴにしか聞こえなかったのだが。振り向くまでもなく、レイヴにはそれが何の音かわかっていた。 振り向くことはなかったが、背後からものすごいプレッシャーを感じてレイヴは口ごもる。いやもう、さっきの湖の魔物もなんのその。天使がそんなことでいいのか、第一、役立たずなくせに、とレイヴは背後からくるプレッシャーに対抗していた。しかし、ちくちくと自分の背中に突き刺さる天使の視線が痛かった。天使のくせに、とか空腹だったらとっとと天界へ帰れとか思っているのだが、いわば今のレイヴは前門の狼、後門の虎状態、食事をして帰れ、とじわじわ精神的に責め立てられているようなものだった。で、それらすべてを振り切って、冷たくあしらいヴォーラスに帰ることができるほどに、レイヴは冷たくなりきれないでいたのである。これが、レイヴの不幸なのであった。 自分の望みというわけではないので、さして食欲があるわけでもなく、村人たちと一緒にテーブルを囲んだレイヴだったが、彼はその席についた時点でもう激しく後悔していた。村人には見えていない。見えていないが、天使はもてなしの食事が並んだテーブルの上をぐるぐる巡回していた。指をくわえて、今にもかぶりつきそうな様子だ。いっそ、レイヴにもその姿が見えていなければ良かったのだが、レイヴには見えるのだ。気になって仕方がない。むっつりと椅子に座り、空を見つめる騎士様の様子に、村人たちは「さすが偉い騎士様は、貫禄が違う。村人からのもてなしにも居住まいを崩されないのだなあ」などとひそひそ話をしていたりする。ある意味、幸せな誤解を言えようか。 やがて、宴の始まりの挨拶とばかりに、村長が立ちレイヴにむかって挨拶を始める。歓びをつたえんばかりに、レイヴを褒めそやし、いささか誇張された表現も入り交じっていた。しかし、レイヴはその言葉を聞いてはいなかった。 「団長〜、うまそうやがね〜♪ わしの食べるぶんも団長の皿にとってくれんかいね〜☆ あの、鱒のパイ皮包み焼きなんちゃ、食べてみたいがよ〜」 天使が彼にまとわりついていたからだ。レイヴは厳しく眉根を寄せると、低く一言 「黙れ」 と言った。その声に、村長の挨拶がとぎれる。どよどよ、と村人の間からどよめきが起こった。 「おお〜、さすがに騎士さまは、偉いのう、自分のことを褒めそやされて 増長することなく、無用に誉めるなと戒められるのだなあ・・・」 ため息とも賞賛ともつかぬ囁きがかわされる。レイヴはというと、ますます帰りたくなってしまってため息をついてしまった。とたんに、場を繕うように村長が挨拶をそそくさと終え、酒宴が始まる。さすがにレイヴは酒は堅く固辞したが、村人たちはそれぞれに酒を酌み交わしていた。レイヴへの感謝ということもあろうが、やはり、魔物が失せたということが単純に嬉しいに違いない。それは悪いことではない、とふとレイヴはほほえましく感じた。が、天使がとうとう我慢しきれなくなったのか、見えてないのをいいことに、テーブルの上の皿に手を伸ばそうとしているのが見えたので、レイヴは低く 「やめろ」 とつぶやく。その声に、こっそりレイヴのグラスに酒をつごうとしていた村人がびくっ、とその手をとめた。 なんと、まったく違う方向を見ていらっしゃったのに、どうしてわかったんだ。 酒を飲んでいただこうと思ったが、やはり無理強いはよろしくない、あきらめるとしようか。 それにしても、さすがに偉い騎士さまは違うものだなあ・・・・ 嘆息をついてそう感心する村人に、レイヴはその実、気づいてもいなかった。さすがに、天使を見ていられなかったレイヴは、しぶしぶ自分の皿に料理をとりわけ、村人たちの注意が自分から一瞬それたときを見計らって天使に食べるように促した。おかげで、レイヴはといえば自分は何一つ口に入れることなどできなかったのだ。 「もぐもぐもぐ・・・・・団長〜、こりゃウマイがよ〜。 なんして、おんしゃあ、食べんがよ〜。おんしも喰うがよ〜」 お前が食べてるからだろうが、とずきずきと頭痛がしてくるのに耐えながらレイヴはむっつり黙っていた。 魔物と闘うよりもぐったり疲れ切ったレイヴが村を去った後、村人たちは、無口な騎士団長の無敵の食欲について語りぐさにしたという。 奥ゆかしく、何もおっしゃらなかったが、よほど空腹でいらっしゃったと見えて さきほどお皿にお取りしたと思って居たのに、少し目を放すともう皿がからっぽになっていらっしゃった。 まったくもって健啖家でいらっしゃる。 そんなわけで、それ以降レイヴが村人たちからのもてなしを受けることは一回としてなかった。その中には、さらわれた花嫁を探し当てて救助したがゆえに、数多くの美人たちがこぞってレイヴをもてなそうとしたものもあったのだが、レイヴはそんな美女たちに目もくれずにさっさとヴォーラスに帰っていったのであった。 おかげで、騎士レイヴの名声は少しだけあがり、と同時にあまり名誉とは言えない噂も広まったのであった。いわく。 「騎士レイヴは、女性のもてなしはけして受けないそうだ」 「騎士レイヴは女性が嫌いらしい。」 「騎士レイヴは男性からのもてなしを好むらしい」 そののち、レイヴは誰からのもてなしも受けなくなったので、そんな噂も消えてしまったがレイヴがますます他人を受け付けなくなったのだけは確かだった。 「なんちゃあ、団長、おなごにもやさしゅうせんといかんがよ〜。 照れ屋さんなんじゃから、もう〜〜〜」 無責任な天使が頭上でがっはっは、と笑っている。早く、この世界を破壊しようとしている堕天使とやらを倒そう。そうして、とっととこの忌々しい天使との付き合いを解消するのだ。レイヴの決意はまた一段と堅くなったのであった。 (続く) |