試金石







天界・アカデミアの図書室に1冊の書物がある。手書き・手製本の粗末な本であり、借り出す者もいない。その書物を納めた本人と大天使たちしか、おそらくは知らないような書物である。しかし、その書物は有る意味大変貴重なものでもあるのである。大天使たちしか借りたことがない。それは、その書の本当の価値を大天使しかしらないということでもあった。

その書物の題名は天使たちの興味をさして引くものではなかったけれど、それを最後まで読み進めれば少なからず驚いたに違いない。なぜなら、その論文には天界におけるあらゆる植物の食べ方、味、効能が書かれていたからだ。そして、それは天界の最奥部の庭園にのみ存在し、食べることを禁じられた果実についても言及されていたのである。

その書物はとあるアカデミア生の卒業論文であった。



その論文は、規定通り、アカデミアを統括するガブリエルの元に提出されたものであった。

「天界における食用になる植物とその効用及び味について」

目新しさのない内容になると思われたその論文・・・というよりは事典に近いものであったが・・を読み進めていたガブリエルは、しばらくの後、ラファエルの執務室へと向かっていたのであった。

ラファエルにその論文を手渡した後、ガブリエルは困ったようにこう尋ねた。

「どう思います?」

手渡されたラファエルは、黙ったままガブリエルの指し示す部分を読み進めていたが、やがて顔をあげてガブリエルを見つめた。表情の乏しいラファエルが何を思っているのかは計ることができないが、困惑している様子ではあった。

「彼は、これを自分で試したということでしょうか?」

「そのようですね・・味についてまで言及しているということは、自分が食べたということでしょう」

そういうとガブリエルは溜息をついた。

しばらくの沈黙の後、ラファエルは鷹揚に述べた。

「これほど緻密にまとめられた資料は今の天界でもなかなか見つからないでしょう。
 とても貴重なものですね・・私にいただきたいところですが・・」

途端にガブリエルが少し眉根を寄せてラファエルに詰め寄る。

「・・あなたが冗談を言うとは思いませんでしたわよ?
 これは〜・・」

「冗談のつもりはなかったのですが・・
 本当に貴重な資料ですよ、これは。
  未だかつて天界の最奥部の庭園に忍び込んだアカデミア天使はいないでしょうし、
  ましてやそこの果実を食べた天使は、すべての天使の中でも数えるほどしかいないでしょうからねえ」

ラファエルはそう言うと、手にした論文をもう一度興味深げに眺めた。

「・・その食べた天使が問題なんですわ。今まで、あの果実を口にした天使は・・」

「そろって地底に堕しましたからね」

こともなげにそう言うとラファエルは手にした論文をガブリエルに返した。

「それは貴重な資料ですからアカデミアの図書館にでも入れるべきですよ。
 本人にそう打診してみては?」

「ラファエル!」
表情も変えずにラファエルは、ガブリエルを見返し、わかったというように片手を挙げてみせた。

「前途ある大切なアカデミア天使を心配するのはわかりますが。
 あの実を食べた天使が堕するか否かは、その天使の資質にもよると思いますよ?」

「けれど・・」

「試してみればいいだろう」

突然ガブリエルの背後からそう声がした。驚いたガブリエルが振り返ると天使軍団の長、ミカエルが立っていた。

「ミカエル・・」

実を言えば、ミカエルには知られたくないと思っていたからこそラファエルの元へやってきたガブリエルは、少し気まずそうな顔をした。ミカエルがかのアカデミア生に少なからず珍しく興味を持っていることはガブリエルも感じている。それがなぜ、ミカエルにそのアカデミア生のことを知らせたくないと思う気持ちに結びつくのか、ガブリエルにもいまひとつわからなかったが。

ラファエル以上に表情の読めないこの大天使は、ガブリエルの手から問題の論文を取上げるとさして興味もなさげにぱらぱらとページをめくってみせた。

「試すとは、どういう意味ですか」

薦められたわけでもないのに、ミカエルは当たり前のようにラファエルの執務室のソファに腰を降ろし、いまだ立ったままのガブリエルを見上げた。

「問題の起こっている地上界があったはずだな」

こともなげにミカエルが答える。

「インフォスのことですか? あれは・・」

「アカデミア天使を向かわせる予定だったはずだが」

「あれは、もう既に違う天使を向かわせています」

「平行する地上界に同様の影響を受けているところがあったはずだ」

「けれど、インフォスが正しい方向へ向かえば、特にその地上界に介入しなくとも大丈夫な筈です」

「だからこそ、試すには最適だと思うのだが」

ガブリエルに向かって論文を差し出したミカエルが事もなげにそう言った。

「愚かな天使は地上に惹かれ、己の欲望に負けて地底に堕する。
 彼もまたそのような愚かな者であれば、地上に降りる間に闇に染まっていくだろう」

「試してそうであったときに、どうすると言うのです?」

「堕天使は罰するのみ」

抑揚のないミカエルの言葉にガブリエルは極力感情を押さえ、その手から論文を取った。

そして、何も言わぬままに、ミカエルを一瞥するとそのまま部屋を出て行ってしまった。

ミカエルはそれにも何ら表情を変えず、また、残ったラファエルに何か言うわけでもなく、ソファに腰掛けたままでいた。ラファエルもまた、ガブリエルが出ていってしまうと、机の上の自分の執務書類に目を通し、ミカエルがいることすら気にしないかの様子だった。しかし。

「もう、試しているのではないのですか?」

目線は机上の書類に向けたまま、ラファエルがそう言った。

「どうかな」

返すミカエルもまるでラファエルを見もせず、そう答える。

「あの果実のある庭園は、門に守られ、鍵がかかっていた・・と私は記憶していますが。」

「実際、あの果実を口にした者は地底に堕するものが多い。だが、そればかりとは限らない。
 私もお前も、また口にしたことがある。ガブリエルも」

「あれは大天使になる際に配られるものですからね」

「甘くて苦くて酸味がある、とは十分味わったに違いない。ひとりで一つとはたいしたものだな」

見ていなかったようで、論文の中を見ていたらしくミカエルは言う。そんなミカエルの言葉も聞こえないかのように、相変わらず書類を見つめたままラファエルは言葉を続けた。

「ガブリエルが彼を心配する気持ちはわかります。
 彼は自然の気が集って生まれた天使ですから、親を持たない。
 アカデミアを統括するガブリエルが親のように心配する気持ちもわからないでもありませんから」

あいかわらずミカエルは無表情にそのラファエルの言葉を聞いていた。

「けれど、私にはミカエル、あなたの彼に対する関心がわからない。
 変わったところがあるけれど、彼はそんな特別な天使には思えませんが・・」

「彼は地底に堕することはない」

「・・そうでしょうね」

ラファエルはそこでやっと顔を上げてミカエルを見た。

手にしていたペンを置き、ラファエルは眼鏡を外した。

「あの果実は、口にした者の心を試すものでもあります。心の奥底にある欲望を表面化し、具現化するもの。
 心に翳りある者が一口食べれば己の欲望を知り、二口食べればそれを為す力を与えると言われる。
 しかし、彼は・・」

そこでラファエルは少し言葉を切り、少し息を吐いた。

「彼が一口食べて知った己の欲望とは、
いいところ、せめて腹いっぱい食べたいという程度でしたでしょうし、
二口食べて思ったことといえば、美味しくてよかったというくらいのものでしょうね」

「そう、あの果実がもたらす望みを具現化する力など彼にはあまり意味がない。
 彼にとっては、一口で空腹を満たし、二口も食べれば衰えた体力さえも回復する果実でしかない。
 もっとも、ある意味、あの果実は彼の表面に現れなかった望みを叶えたともいえる」

「それは?」

「力強い翼、しなやかな体躯。地上を往くのに必要なものすべて」

「あなたが彼に与えたかったのはそれですか。 試したかっただけではないのですね」

そうラファエルに言われて、初めてミカエルは口の端に苦笑を浮かべた。それも一瞬のことですぐに消えてしまったが。それを見逃さなかったラファエルが、少し考えてから言った。

「あの論文は、しかし、一見の価値がありますし・・あの観察眼と実地に基づいた知識は捨てがたいものがあります。
 彼のような人材を私の下に欲しいものだ、と言ったらどうします?」

ミカエルはソファから立ち上がると、ラファエルを見返して薄く笑った。

「お前には無理だ。・・というよりは、彼には無理だ、と言うべきか。
 窮屈な天界勤務は向かないだろう。
 私は彼を自分の配下に置きたいわけではない。それは誤解しないでもらいたいが」

先ほどの言葉は本気ではなかったのだろう、ミカエルの、お前には無理だという言葉にさして反応も示さずにラファエルは言葉を重ねた。

「では、何を求めているのです?」

「・・さあ? ただ、何かあるのではないかと思っているのかもしれんな。
 特別に見えないということが特別なのだと。
 何かを・・変えるのではないか、と」

「それで、彼を試しに地上へ送り出すんですか。
 彼は地上に惹かれていますよ。
アカデミアにいる間に、何度も抜け出して地上へ行っていたのは
 あなたもご存知でしょう。戻ってこなければどうします?」

「お前は彼の心配をしているのか、私の心配をしているのか」

少しおかしそうな声音でミカエルがそう問うと、ラファエルはちょっと顔を顰めて口をつぐんだ。

「心配はない。彼は地上や人間に惹かれているかもしれないが、自分の生きる場所を知っている。
 自分が地上に降りて、その世界で生きることに満足できる者ではないと知っている。
 地上に惹かれながらも、そこに留まることのできない自分も知っている男だよ」

「そういうあなたが楽しそうだというのは、私の錯覚であればいいのですが」

「錯覚だろうとも、ラファエル。 錯覚だろうとも」

言うとミカエルは、きびすを返して出口へと向かった。




地上界インフォスの混乱をおさめるため、一人の天使が地上へ送られたのはそれからしばらくの後。そして、時を同じくしてもう一人の天使がガブリエルに呼び出された。

「あなたに、もう一つのインフォスを守ってもらいたいのです」

そう告げられたのは、アカデミアでも異端と言われたある天使。

そして、インフォスの混乱が収められたころ、アカデミアの図書館に、粗末な手書きで手製本の書物が寄贈された。

今もその書物は書棚の端にひっそりとあるが、目に留められることもなく、寄贈した本人と一部の大天使たちしかその存在を知らないであろう。それは、とあるアカデミア天使の卒業論文でもあるのだった。

END





なんか妙な話になってしまってますが(^^;)
元々は、イーリスの卒業論文はいったい何か、というネタだったんですがー
さて、イーリスは珍しい出自の天使で家族や両親というものを持っておりませんで。
アカデミアの寮に幼いころは入れられていて集団生活しておったわけですが
ですから、いわゆる保護者にもっとも近いのはガブリエル(爆)
だから、ガブリエルにはちょっと強く出られると頭があがらないところもあったり。
ミカエルはよくわかりませんが、なんかイーリスに興味があるらしい。
でも、何を考えているのかは謎。(^^;) 
けど、イーリスはなんとなくそれを感じ取っているのか、ちょっと苦手に思っていたり。
ラファエルは、なんでミカエルがイーリスに興味あるのかが興味ある(笑・回りくどい)
とはいえ、だから何かあったりするのかと言われると別に何もないんですけどね(^^;)





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