ルーチェがそれに気づいたのは、彼と夜を共にするようになって、しばらくたって後のことだった。 いつも、彼に翻弄されるばかりで余裕がなくて、彼の背中にしがみついていてもそれに気づくことはなかった。しかし、やっと、行為の後も意識を保つことができるようになってきて、自分の手が彼の背中をなぞるように辿っていったとき、そこに違和感を覚えた。 「・・・・?」 まだ身体に残る気怠い熱がルーチェの思考を妨げる。 「大丈夫か?」 シーヴァスが彼女にゆっくりと口づけながらそう問いかける。うっとりとその口づけを受けながら、ルーチェが頷く。 「・・・はい・・・」 ルーチェは、彼に抱かれる行為そのものよりも、その後、こうやって二人でゆっくりと触れあっていることが好きだった。激しく波に翻弄されることよりも、穏やかな彼の優しい腕に包まれていたいと思うのだ。だから、今、彼にやさしく口づけられてその腕のなかにいることが、とても幸せだった。 波打つシーツにシーヴァスの金の髪が流れている。窓から差し込む月の光に、ほのかに輝くように浮かび上がるその様は、美しかった。彼がルーチェを抱き寄せて口づけるたびに、その髪がルーチェの身体の上をも滑っていく。さらさらと自分の身体の上を流れていく彼の髪の感触が彼女は好きだった。 「・・・はぁ・・・」 ぐったりと身体を横たえた彼女が深く息をつくのを見て、シーヴァスは苦笑した。 「すまないな、どうしても君に触れるとセーブが利かない。つい、激しくなってしまうようだ」 「あ、いえ・・・大丈夫・・・イヤじゃないです、私・・・」 ルーチェは赤くなりながらもそう答えた。シーヴァスは、彼女の瞼に唇を落とすと、 「何か、飲むか?」 と言って寝台から身体を起こした。薄いシーツを羽織って寝台を降りる。シーヴァスの身体は、一見すると華奢に見えるが、その実、ムダのない筋肉がついた均整のとれた体躯をしていた。長い指も剣を持って敵を屠ることよりも、たとえば楽器をつまびいたり、剣をペンに持ち替えたりするほうがいくらか似合うように優しげであった。彼女を翻弄する猛々しい激しさなど、微塵も感じられないほどに。けれども、その優雅な姿も、内に秘めた激しさも、その奥に隠された優しさもルーチェは好きだった。シーヴァスが、サイドテーブルに用意されたレモン水をグラスに注ぐ様を見つめながら、そんなことを考えている。その視線に気づいたのか、シーヴァスはこちらを振り向くと薄く笑った。そうして、グラスを手に持って戻ってくると、ベッドに腰掛けて彼女の顔を見下ろす。 「・・・飲めるか? それとも、飲ませてほしい?」 答えを待たずに、シーヴァスは口にレモン水を含むと彼女に口づけた。喉に流し込まれる冷たい水が、彼女の意識を少しずつはっきりさせていく。身体の中に残った熱を冷ましていくかのように。 「・・シーヴァス・・」 少しかすれたような声でルーチェはシーヴァスの名を呼んだ。シーヴァスがどうした?と彼女の顔をのぞき込む。 「シーヴァス・・・背中、見せてください・・・」 唐突なその願いに、シーヴァスが不思議そうな顔をして動きを止める。ルーチェは、しかし真剣で、彼にもう一度言った。 「背中、見せてください」 なんだ、おかしなことを・・・とシーヴァスは苦笑しながらも、ベッドに腰掛けたまま背中を彼女に向けた。ルーチェはゆっくりと起きあがると、流れる金の髪をそっとかきわけて、彼の背中に手を滑らせた。ゆっくりと、何かを探すかのように。そうして、それに触れると月明かりを頼りに彼の背中を見つめる。 「・・・やっぱり・・・・シーヴァス、これは・・?」 彼女の指がそこをなぞると、さすがにシーヴァスも彼女が何を指しているのかわかったのだろう、振り向いて苦笑した。 「大丈夫だ、もう痛むことなどないんだし」 それは、傷跡だった。剣で切られた傷の跡。ルーチェは、彼女の勇者の一人であったレイヴの身体にも同じ様な傷が残っていたことを知っている。彼は、その傷とともに、深い心の傷をも負っていた。だから、ルーチェはシーヴァスのその傷にもなにか深い事情があるのではないかと、心配になったのだった。彼女が天使だったころに、戦いにおいて勇者たちが受けた傷は、すべて癒してきたつもりである。 「本当に、もう痛まないんですか? 学生のころにでもついた傷なんですか?」 心配そうに傷跡をなでるルーチェの手に、シーヴァスは苦笑する。 「いや、違う。・・・それは、堕天使との戦いのときにつけた傷だ」 「ええっ! そんな・・・すみません・・・私、あなたの傷を癒せなかったのですね・・・」 とたんに、泣きそうな顔になるルーチェに、シーヴァスは向き直ると彼女の身体を抱きしめた。 「違う、君のせいじゃないんだ。私が、わざと、自分の身体に、傷を残した」 「なぜ・・・!」 彼の言葉に、ルーチェが、がばと身体を起こす。怒ったような、心配したような彼女の顔に、シーヴァスは笑ってそっと手で触れる。 「君を、忘れないためだ」 意外なその答えにルーチェが言葉に詰まる。 「あれは・・・そうだ、アポルオンとの戦いの折りだったかな。 君が援護してくれて・・・。ところが、アポルオンの奴は、私に攻撃をしかけるとともに、 君にまで危害を加えようとしていた」 「はい・・・シーヴァスが、そのとき、かばってくださいましたよね・・・」 そう言って、ルーチェは、あっと低く声をあげる。 「あの後、君には大丈夫だ、かすっただけだし、傷などたいしたことはないと言ったけれど。 そのときの傷がこれなんだ。」 「どうして・・・・・・・」 ルーチェの言葉がなくなる。瞳が潤みそうになるのを、彼女は懸命にこらえた。 「・・・君を、忘れないためだった」 はっとしてルーチェはシーヴァスの顔を見上げる。けれど、シーヴァスは、もう、そんなことはどうでもいいんだとでも言うように、穏やかに優しい表情をしていた。 「あのころ、君に自分の想いを告げたところで、君が地上に残ってくれるかどうかが、私には不安だった。 君が天界へ帰ってしまうようになったら、君のことさえ忘れてしまうのではないかと それが、不安だった。 だから、もし、自らの身体に消えない傷を刻んでしまえば きっと君のことを忘れることもないだろうと、そう思った。 傷を見るたびに、傷が痛むたびに、きっと君のことを思い出すだろう、と」 それは、まだ、シーヴァスが彼女に地上に残ってくれという願いを口に出す前のこと。彼はそうやって、一人、自分の想いに懊悩していたのだろうか。ルーチェは、その言葉を聞いて彼の顔を見ていられず、俯いてしまう。それから、彼の胸を拳を握りしめて叩いた。 「・・・バカです、シーヴァス、あなたってば・・。 そんなことのために、傷を残すなんて、本当にバカ・・・。 傷を残す必要なんて、なかったのに・・・」 弱々しく彼の胸を叩く彼女の手を受け止めて、シーヴァスは、「そうだな」と笑った。それで、ルーチェには彼がもう、そんな迷いも痛みもすべて越えてしまっているのだとわかって、少し安心できた。 「・・・もう一度、見せてください・・・その傷」 シーヴァスは苦笑しながら彼女にもう一度背中を向ける。剣が走った後が赤くなって少し盛り上がっている。指先でその傷をなぞったあと、ルーチェはそっとその傷に唇を寄せた。彼が傷を残したいと願ったその想いが切なかった。きっと、この傷を見るたびに、思い出すだろう。彼が、自分のために戦ってくれたこと、言ってくれた言葉、捧げてくれた想い。 「本当に、もう、痛まないんですね?」 心配そうに繰り返すルーチェに、シーヴァスは笑って彼女を抱きしめると、そのままシーツの海に沈ませる。 「大丈夫だ、君がいてくれるから。傷の痛みよりも辛いのは心の痛みだった。 君がすべてを癒してくれたから、もう私にはどこも痛いところはない。身体も、心も」 そうして、彼女に深く口づける。ルーチェはゆっくり彼の背中に腕を回す。彼に抱かれて彼の背中を指でなぞるたびに、思うだろう。彼が自らを傷つけても忘れないと願ってくれたこと。 「・・・シーヴァス・・・」 この想いを成就させることは、けしてたやすいことではなかった。幸せな今を築くために、自分も彼も多くのことを越えねばならなかった。それを忘れまいと、そう思った。 繰り返される口づけに、身体の奥に灯る熱を感じながら、ルーチェはただ、シーヴァスの背中を強く抱きしめていた。 END |