「シーヴァス・・、これ、どう思いますか?」 ルーチェがくるりとシーヴァスの前で回ってみせた。軽いレースの裾がふわりと風に舞う。薄い桜色のドレスが、彼女のほっそりとした姿によく映えた。 「ああ、きれいだよ」 そう、シーヴァスは答える。もっとも、彼女だったらどんなドレスを着てもきれいだろうなどと考えているので、さっきから同じ様な返事ばかりになっているのは否めない。 「・・・シーヴァス、飽きてますね?」 ルーチェが苦笑しながらそう言う。そうは言っても、ドレスを取り寄せたのはシーヴァスだし、必要なものとはいうものの、何着も買うのはどうかと思うからそれなら一着だけと決めて、一番似合うのをシーヴァスが選んでくれると約束したのだから、なんとなく彼の気のなさげな返事は彼女には不満だ。 もっとも、彼女にしてみても、どのドレスがいいと選ぶのは難しい。軽くて動きやすい服が好きな彼女にとってはこういう夜会向きの豪奢な服はあまり好みな方ではない。できるかぎりシンプルなものを選ぶようにしているので、夜会の彼女ときたら、いつも他の貴婦人たちとは違う趣を醸し出していた。今日選んでいるのも、ヘブロンの社交界の常識からいえば、夜会に着るにはいささか簡素なドレスといえた。 「じゃあ、早く決めてしまいましょう。・・・・これにしていいですか?」 ルーチェは、今着ている桜色のドレスをシーヴァスに向かって見せた。軽く裾を持ち上げて、夜会風に膝をまげてお辞儀してみる。小さな花のようだな、とシーヴァスは考えて微笑む。 「どうですか? 色は気に入ってるんですけど・・」 もう一度、くるりとルーチェが回ってみせる。シーヴァスはそんな彼女に近づいて、肩を持ってゆっくりと身体の向きを変えさせた。 「・・・? 何かありました?」 シーヴァスに背中を向けて立つようになったルーチェが首だけ振り向いてシーヴァスに問う。流行のデザインを取り入れたドレスは、背中が大きく開いていて、ルーチェの白い肌と肩胛骨が見えていた。背骨のラインを指でなぞってシーヴァスが 「背中が開きすぎてる気がするな」 と言う。くすぐったさにルーチェが身体を捩る。 「そうですか? じゃあ、違うのを選びます。」 「私以外の誰かに君の背中を見せたくないから、できるだけ背中が開いてないものがいいな」 冗談とも本気ともつかないシーヴァスの言葉に、ルーチェが苦笑する。 「はいはい、じゃあ、そんなのを選びますね」 おや、本気にしてないな、とシーヴァスも苦笑する。ルーチェは言われた通り、なるべく露出の少ないドレスを探していた。 彼女の背中を見せたくない。 それは、シーヴァスにしてみれば、かなり本気なことなのだった。ほっそりとした肩となめらかな背筋のライン、華奢なその背中に彼女がかつて何を背負っていたかを彼は知っている。真っ白で大きな翼。今もありありと思い浮かべることができる。今はもう、ないけれど。奪ってしまったのは、自分なのだけれど。 「シーヴァス、じゃあ、これにします。」 さきほどのドレスとよく似た色合いの、衿の高いドレスをもってルーチェがシーヴァスに示した。異国風の衿元のそのドレスはたぶん、ルーチェにとても似合うだろう。 「ああ、いいんじゃないか? 次の夜会はそれにしたまえ」 そう言うシーヴァスに、ルーチェはにこっと笑いかける。気のない返事をしているように見えて、これでシーヴァスはなかなかに細かなところまで気がつく。夜会のときとなれば、慣れないルーチェのかわりに、そのドレスなら首飾りはこれ、手袋はこれ、髪飾りは・・・といろいろ世話を焼いてくれるのだ。だから、新しいドレスで夜会に赴くのは実はルーチェは嫌いではない。 ドレスを片づけるルーチェの背中を見つめながら、シーヴァスは、自分が彼女から奪ったものについてぼんやりと考えていた。 傍らで眠る彼女は、安心しきった寝息をたてている。抱きしめれば折れそうに細い身体を腕の中におさめて、その髪にそっと口づける。 「ん・・・」 小さく、ルーチェが身じろぎをした。彼女が天使から人になって、彼の元に来てくれたこと。それは、彼にとって大きな歓びだった。自分の思いが彼女に通じたこと、彼女が自分の思いに応えてくれたこと。天使が人となるとはどういうことかと、そのときの自分はあまり深く考えていなかったような気がする。あまりに嬉しくて、あまりに幸せで、彼女の選んだ道がどんなものだったのか、考えていなかったような気がするのだ。 頼る者もなく、知識も浅いインフォスで、ルーチェはそれでも気丈に自分の足で立ち、シーヴァスを支えようとしていた。いつも、微笑みをたたえた顔で、シーヴァスのすることをじっと見守っていてくれた。貴族としての自分が目指す、理想の社会。自分が成すべきこと、成したいと思うこと。彼女の目が、それを見守ってくれているのが、何よりもシーヴァスの良心のよりどころだった。もし、自分の進む道が間違っていたら、きっと彼女がそれを教えてくれるだろう。彼女の真っ直ぐな瞳が、彼の進むべき道を遠くまで見渡してくれるだろう。彼女の迷いない瞳を正面から受け止めることができるように。それが自分の在るべき姿だとそう思っている。 ルーチェ、私は君が選んでくれたことに値するだけのことを成すことができるだろうか? 天使の勇者として、恥じることのない行いをしているだろうか? 自らを律し、客観的にものを見る視線を教えてくれたのも、彼女だった。 彼女が人となってからも、どこか彼女をずっと心の支えにしてきた。 だが。 果たして、自分は彼女のことを支えてやれただろうか。彼女の心を支えてやっただろうか。 愛おしいこの存在を。自分のものにしたいと願ったこの愛おしい彼女を。 眠るルーチェの顔をじっと見つめる。何の不安もなさそうに、静かに眠るその顔。 胸が痛んだ。 「・・・君を幸せにする。きっと、幸せにする。」 そう、囁く。「シーヴァス、私はもう、十分に幸せですよ」そう、ルーチェは言うだろう。だが、君は今手にしている幸せのために、違う幸せを捨ててきたんだ。私は何一つ失うことなく、君を手にいれた。私は自分は何も失うことなく、君にだけ、過去を捨てさせた。 シーヴァスの心に、棘のように残るその思い。忘れてはならないと思う、その痛み。 その棘は、彼女を初めて抱いたその日に、彼の胸に刺さった。 汗ばんだ肌をほんのりと桜色に上気させて、ルーチェがぐったりと横たわっている。呼吸がまだ乱れていて、息にあわせて胸が上下していた。閉じられた目から頬を伝う涙の跡。痛みに耐えてシーツを握りしめていた指は、まだ固く握りしめられたままで。そっとその手をとって指を開かせた。指先に口づけても、力無く彼女の腕は落ちていく。無理もない、初めてのことだったのだから。それでも、痛いとは一言も漏らさなかった。そっと、頬にかかった髪を耳へかけてやると、うっすらと瞳が開いた。 「・・・シーヴァス?・・・」 かすれたような囁き声で、彼女が名前を呼ぶ。それに答えて瞼に口づけると、安心したように、また彼女は瞳を閉じた。やっと、呼吸も落ち着いてきたようで、一際大きく息をつくと、彼女は寝返りをうった。まるで、子供が膝を抱えるかのように、身体を丸めてシーヴァスに背を向ける。その様子をふっと笑って見つめていたシーヴァスだったが、それに気づいて眉を顰めた。 「? ・・・なんだ?」 白い彼女の背中も、淡く桜色に上気していた。そして、肩胛骨の辺りに、一際赤く色が浮き上がっている部分があった。まるで、何かの傷跡のように。そう考えて、シーヴァスはどきりとした。 そっと、彼女の背中のその部分をなぞる。特に傷があるわけではない。だが、彼にはわかった。それは、傷跡なのだ。彼女が、翼を失った傷跡。そう、彼女が天使だったころ、ここには、真っ白な翼があった。それを、彼女は「人として生きるために、天界に置いてきた」とそう言った。翼を置いてくる、それがどんな儀式なのか、どうすることで可能となるのか、それはシーヴァスには想像もつかない。ただ、彼女は何でもないことだったかのように、笑ってそう言った。「もう、必要のないものだから、置いてきたんです」 その言葉を聞いたとき、シーヴァスはただ「そうか」と言った。彼女があまりにも、淡々と何でもなさそうに言うから、彼女が自分と同じ場所に降りてきたことがうれしくて、その言葉の裏を思いやることができなかった。初めて、彼女の翼の跡を目にして、シーヴァスは胸が痛んだ。彼女はどれほどの想いと決意で自分に応えてくれたのだろう。翼を失う痛みは、どれほどのものだったのだろう。自分が、彼女から奪ったものは、いったいどれほどのものなのだろう。白い背中にくっきりと浮き上がった痛々しいその痕跡は、シーヴァスの胸を締め付けた。 痛くなかっただろうか、辛くなかっただろうか。 今更にそんなことを尋ねても無駄なことだとはわかっているけれど、今更になってやっと気づいたのだから仕方がない。自分はなんと多くのものを彼女から奪ったことか。 ふいに、彼女への愛しさとともに、熱いものがこみあげた。それは、不覚にも彼女をのぞき込んでいたために、彼女の頬を濡らした。 「・・・・?・・・ん・・・?」 ルーチェがうっすらと目をあける。そして、彼女を見つめていたシーヴァスを見返す。シーヴァスの表情を見て、ルーチェはゆっくりと彼に向かって手を伸ばした。 「・・・シーヴァス・・・泣いてるんですか? ・・・どうして・・・? 辛い夢でも見ましたか?」 彼の頬を撫でる優しい指。シーヴァスはその指を取って、口づけた。 「・・・何でもない、ルーチェ。何でもないんだ、安心して眠りたまえ」 シーヴァスは、囁くように言う。それを聞くと、ルーチェは、にっこりと微笑んで、彼の胸の中に潜り込むように身体の向きを変え、また微睡みの中に落ちていった。安心しきったような、穏やかな寝顔。 「ルーチェ、君は、幸せか? 私は、君を幸せにしてやれているか? もう・・・翼の跡は痛まないか?」 彼女の答えはわかっている。「幸せですよ、シーヴァス。私は幸せです。翼をなくすことも、痛くなんかなかったんですよ」だから、彼女には問いかけない。ただ、自分の心に問いかける。 私は、彼女を幸せにしてやれるか? 彼女が捨ててきたものに見あうだけのものを見つけてやれるか? 彼女から自分が奪ったものを、わかっているか? 彼女が自分に与えてくれたものを、覚えているか? その翼の痕は、普段は見えないのだった。ただ、彼女の肌が熱をもって上気したとき、その背中に浮かび上がってくる。おそらく、ルーチェも自分の背中に翼の痕跡が残っていることを知らないだろう。シーヴァスしか、知らないだろう。シーヴァスはそれを、誰にも、ルーチェにも教えるつもりはなかった。彼女の背中を誰かに見せることをあまり望まないのもそのせいだった。 かつての天使を腕に抱くとき、まるでそれは彼の行為が罪の証であるかのように彼女の肌に浮かび上がる。しかし、彼を抱きしめる優しい腕がその罪を赦してくれる。 「シーヴァス・・」 甘い囁くような声が、彼女を抱くときにどうしても感じてしまう彼の中の罪悪感を溶かしてくれる。 彼女の背中に残された紅い翼の痕跡。 それは、シーヴァスだけが知っている秘密だ。シーヴァスだけの心に刺さった甘くて痛い棘なのだった。 END |