本人にその自覚はなかったが、ルーチェは、今やヘブロンの社交界の時の人なのだった。あのシーヴァス・フォルクガングの心を射止め、かつ、その出自が謎めいている美しい乙女は、ヒマを持て余している詮索好きの紳士淑女にとって、好奇心をそそる対象だったのだ。もちろん、好意的な見解もあれば、そうでない人々もいるし、どちらの割合が多いかと問われれば、好意的とは言いかねる人々の方が多い・・・と言わねばならなかっただろう。物珍しいものを見る眼差しで彼らはルーチェを眺め回し、さすがにシーヴァスに・・・というよりは、フォルクガング家に遠慮して不躾なことを尋ねることは少なかったものの、ルーチェがとまどうことも多々あった。 彼女自身は、いまだ慣れないインフォスでの暮らしに早くなじみたいという思いもあり、また、インフォスのことをもっと知りたいという好奇心もあって、シーヴァスと共に夜会や舞踏会にも出向いた。おおむね、彼女はそれらを楽しみ過ごしたが、時にはやはり、いわれのない悪意にさらされることもあった。そう、例えば、今日のように。 緋色の絨毯が敷かれたその一角は、多くの貴婦人方でにぎわっていた。色鮮やかなドレスと身につけた宝石で美しさを競うかのように、艶やかに着飾った貴婦人たちが囲んでいるのは、清楚な装いの若い乙女だった。装飾をできる限り排除したようなシンプルなドレスは、シルエットの美しさを際だたせており、身につけた宝石もごくさりげないものだったが、彼女の美しさをひきたてるにちょうどいいくらいの大きさといえた。着飾った貴婦人たちと対極にあるかのような姿のその乙女こそ、ルーチェだった。 先ほどから彼女はこの場所で貴婦人たちの質問攻めにあっていたのだ。いわく、ご出身は、シーヴァスさまとの出会いは、ご両親は、などなど。ルーチェはそれらの質問にひとつひとつ、ていねいに答えていたが、彼女とシーヴァスの出会いからの日々をそのままに説明することは難しく、口ごもることもあった。 「ヨーストへ来るまでは、どこで暮らしていらっしゃったの?」 「あの、ペテルというところで・・・」 「まあ、聞いたことのない所ですわ、どこの国にありますの、その街は」 「ええ、その・・・」 「まあ、どうなさったの、ご自分の生まれた国でしょう?」 「クスクス、そんなに言っては可哀想ですわ、言えないことだっておありでしょうから」 もちろん、その言葉はルーチェをかばっての言葉ではないのだが、疑うことを知らない彼女は 「あの、ありがとうございます」 などと言ってしまって、失笑を買ってしまうのだった。 「あの、私、何かおかしいことを言いました?」 「クスクス、いいえ、別に。」 ルーチェは、どうしていいか困ってしまっていた。もちろん彼女は自分が人間のましてやこうした特殊な世界においては無知であることを承知していたので、自らの知らないことは人に教えを乞うことを旨としていたが、この場所においては彼女の問いに答えてくれる人はいそうもなかった。 シーヴァスの姿を探して彼女の視線は宙を泳ぐ。彼が紳士たちと談笑している姿が目に入るとルーチェは思わず席を立ち、彼の元へと走りよった。 「! ルーチェ?」 突然、背中にしがみつかれて、シーヴァスは驚いて振り向く。何度か一緒に夜会に出席し、それまではシーヴァスがずっと側についていたものの、今夜に限ってシーヴァスは他の紳士に連れていかれてしまったのだった。もちろん、そこには、いつもシーヴァスにガードされているルーチェから話を聞いてみたいという目論みもあったことだろう。 白いドレスのルーチェがシーヴァスの背中にしがみついている様子はまるで白い鳥が彼の側に寄り添っているようだった。シーヴァスは身体の向きをかえると彼女の背中に腕をまわし、抱き寄せた。 「どうかしたか?」 心配そうに言うシーヴァスだが、ルーチェはうつむいたまま黙っている。シーヴァスは苦笑すると、彼女の肩を抱いたままそれまで一緒にいた紳士に挨拶をした。 「どうも、彼女の気分が優れないようです。 今晩は失礼させていただきましょう」 夜会からの予定より早い帰りに、執事は少々心配げな様子で二人を迎えた。 馬車の中もずっと黙ったままのルーチェを気遣い、シーヴァスも何も言おうとはしなかったが、おおよその所は彼には予想はついていたのだった。部屋に戻るとシーヴァスは彼女をソファに座らせ、その隣に腰を下ろした。 「すみません、シーヴァス、せっかくの夜会を私のせいで・・・」 やっと口を開いたと思うとそんなことを口にするルーチェに、シーヴァスは少し怒ったような顔をしてみせた。 「あやまる前に、理由を聞かせてくれたまえ、いったい何を言われたんだ?」 「いえ、何もそんなひどいことを言われたわけではないんです。 ただ、私、いろいろと聞かれることにうまく答えられなくて いたたまれなくて・・・・」 シーヴァスはため息をついた。 「君には少し教えておくことがあるな。 いいか、不快なことを聞かれたり、失礼なことを言われたときには 言い返してやりたまえ。」 「でも・・・・私・・・」 「ストップ」 シーヴァスはルーチェの唇を指で押さえた。 「いいか、君は自分のことを良く知らなさすぎる。 君は、どこの貴婦人とも遜色ない美しさと気品と賢さを持ち合わせている。 インフォスでの知識は確かにまだ少ないかもしれないが、 そんなものは問題ではない。これからの経験ですぐに身につくだろう。」 それから困ったような顔をしている彼女に向かって苦笑すると、立ち上がり、執事が用意しておいた冷えたワインをグラスに注いだ。 「君も飲むか?」 シーヴァスは、グラスをルーチェに差し出すが、彼女は首を横にふった。天界では飲酒は戒律によって禁じられていたし、彼女は地上に降りてからも酒を口にすることはなかった。シーヴァスはグラスを手にしたまま、再びルーチェの傍らに腰を落ろした。グラスの中の赤い色の液体をまず目で愛でながら、彼はルーチェに向かって言葉を続ける。 「君の優しさは美徳だが、自分を軽んじる相手に優しさをふるまう必要などない。 だいいち・・・・」 シーヴァスはそう言うと、空いている手で彼女を引き寄せる。 「君は、私にだけやさしければそれでいいと思うがね」 「そんなこと・・・」 「君はもう天使ではないのだから、天使のようにすべての人に優しい必要などない 君に必要なのは、いまだ君の中にある天界の戒律を忘れることだ。 たとえば、こんなふうに」 シーヴァスは、そういうと手にしたグラスの中のワインを口に含むとルーチェに口づけた。 「!!」 驚いて身を引こうとするルーチェの肩をしっかりと抱きとめ、唇を割ってワインを流し込む。ゆっくりと深く唇を重ね、彼女の喉がワインを嚥下したのを確かめてからやっと唇を離した。 「・・・・はぁ・・」 苦しそうに息をつくルーチェは、 「シーヴァス・・・! ひどいです」 とやっと言うと彼の胸に手をついて身体を押し離そうとした。しかし、シーヴァスはもちろん彼女を離すつもりなどなく、そればかりかもう一度ワインを口に含むと彼女に口づけた。流し込まれるワインと深い口づけにルーチェの意識は弾けてしまいそうになる。鼓動が早くなり、頭に血が上る。否応無しに飲みこまされるワインの味など、飲み慣れない彼女には何もわかるはずもなく、ただ、シーヴァスの口づけが甘くワイン以上に彼女を酔わせているような気さえした。 「ルーチェ・・・?」 「シーヴァスは、やっぱり、意地悪です・・・」 やっと解放されたルーチェはそう言うとシーヴァスの胸に頭を預けた。初めて飲んだワインのせいか、身体が熱い。 「他の人間にもそう言ってやりたまえ」 シーヴァスは笑いながらそう言った。 ルーチェにもなんとなくはわかっていたのだった。天使だった自分をいまだに捨て切れないところがどこかに残っている。インフォスの人間となった今は天界の戒律はもはや彼女を縛るものではない。それでも、その殻を破ることができない自分がいる。 「・・・ごめんなさい、シーヴァス」 インフォスで一人で立つことができなければ、シーヴァスを支えることなどできるはずもないだろう。 「・・・もうひとつ言うなら、簡単にあやまらないこと、だ」 シーヴァスはそう言うと、自分に身体を預けているルーチェの顔を上げさせ、ゆっくりと優しく口づけた。彼女を求めるシーヴァスに、ルーチェがおずおずと応えはじめる。シーヴァスの手がルーチェの身体を滑り、長い口づけの後、彼は彼女を抱き上げた。 「・・・・シーヴァス・・?」 少し掠れた声でルーチェが問いかける。シーヴァスは軽い口づけで彼女を黙らせると、そのまま彼女を寝室へと運んだ。そっとベッドに彼女を横たえると、もう一度口づける。 やがてシーヴァスの唇は彼女の首筋をつたい、手がゆっくりと彼女のドレスの下に差し込まれる。 「・・!」 ルーチェの手がシーヴァスに強くしがみつく。安心させるように、シーヴァスは彼女の頬に口づける。そうして、もう一度彼女の首筋をなぞると、そっとドレスをずらして露にした肩口に徴を残した。 「シーヴァス・・」 ルーチェが、思わずシーヴァスの名前を口にする。初めてのことに恥ずかしさもあいまって上気した頬をしたルーチェは、瞳を閉じてシーヴァスの与える刺激に耐えるかのようだった。シーヴァスは、一旦彼女から身体を離すと、身につけた上着を脱いで傍らの椅子にかける。彼女が天界から彼の元に降り立って以来、夜をともにしたことはない。天界の戒律とやらに従って生きて来た彼女がそれを簡単に捨てることができないであろうことはわかっていた。だから、無理強いはしないと、そう心に決めていた。けれど、もちろん、いつだって本当は彼女をその腕に抱きたいとそう思っていたのだ。 「・・・・ルーチェ・・?」 シーヴァスはベッドで横たわったままの彼女の元へ戻り、口づけようとしてそれに気づき、しばらく考え込むと苦笑した。 それから彼女の隣に倒れ込むように横になると天井を見上げてため息をつく。 罪のない顔をして、ルーチェは寝息をたてていた。 「・・・・ワインか・・・!」 痛恨の響きをこめてシーヴァスは呻く。 「・・・・ん・・」 ルーチェが寝返りをうつ。その顔を覗き込むようにシーヴァスは顔を近づけ、そっと唇にキスを落とした。 「全く・・・! 君ときたら。 天使の寝顔とは良くいったものだな。 ・・・・私が理性ある人間で良かったと思いたまえ」 ひな鳥のように、彼の胸の中で安心しきった寝息をたてるルーチェに、シーヴァスは少し恨みがましそうにそう言う。夜明けまでは、まだ長い時間がありそうだった。 END |