神の国は遠く、もはや天使の声さえも我々の元には届かない。 ヘブロン最大の都市・ヴォーラスの郊外。緑濃い木々が草原に影を落とし、丘の斜面は芝生が整えられ、そしてその斜面にはいくつもの十字架が立ち並ぶ。ここは、ヘブロンの軍人墓地である。 先の国境紛争において死んだ多くの兵士たちの亡骸がこの墓地に眠る。今日はその墓地に多くの人々が集っていた。年に一度の慰霊祭が執り行われるのである。 国境紛争の英雄と言われるレイヴ・ヴィンセルラス陸軍中佐もまたその中にいた。彼はそのとき、前線の部隊に配属されていたが、彼の命がけの作戦が多くの兵を危地から救い勝敗を決したと言われている。しかし、彼はその際に部隊の隊長であり親友でもあった人物を亡くしていた。彼は毎年慰霊祭に出席をしていたが、それはかの親友への弔意を示すものほかならなかった。 久しぶりに出会う友人どうしの会話があちこちで始まる中、レイヴは手持ち無沙汰に立ちつくしている。が、その彼の視線が、ある人物をとらえた。それはこんなところに現れるのが珍しい・・・というよりは似つかわしくない人物だったのだが。その人物の方も、レイヴを見つけたらしく、視線が合うと笑って右手を挙げてみせた。そうして、彼の元へと歩いてくる。 「久しぶりだな、レイヴ。 慰霊祭に毎年参加とは、あいかわらずご苦労なことだ」 そう言った人物は、軍人には似つかわしくなく流れる金髪を長くのばし、高級そうなスーツを着こなしていた。 「そういうお前こそ、慰霊祭に来るとはどうした風の吹き回しだ? シーヴァス。 お前の会社がつぶれたとは聞いていなかったが」 シーヴァス・フォルクガングは若干23才にしてヘブロンでも有数の企業グループを束ねる会長職についている人物だった。彼の家は経済界の名門で、直系のただ一人の後継者であったシーヴァスは先代の会長であり祖父でもあった人物からすべての財産と地位を受け継いだのである。それ以前、国境紛争のころ、シーヴァスは軍隊に自ら望んで志願し前線の空軍に配置されていた。レイヴは陸軍であったから、戦地でともになることはなかったが、代々優れた軍人を輩出してきた軍部の名門、ヴィンセルラス家と、経済界の名門フォルクガング家は昔からつきあいがあったのであった。 年齢も近いこともあって、少年時代はともに遊んだ仲でもあり、今は各々全く異なる世界で活躍をしていてそうそうに顔を会わす機会もなかったが、会えば遠慮のない言葉が出る仲でもあった。 「お互い、あれ以来ずいぶんと変わったもんだな。 お前ときたらすっかり真面目でお堅い軍人さんだし 俺は不真面目でやる気のない財閥会長ときたもんだ」 やや自嘲気味に笑いながらそう言うシーヴァスをレイヴは黙って見返す。『あれ』以来。 それは国境紛争の終わり以来、ということだ。レイヴは親友を亡くし、シーヴァスは紛争の終焉と同時くらいに祖父が亡くなり軍隊を辞めて会社を継いだ。それまでのレイヴは、快活とまではいかないまでも、それでも普通の若者だった。軍人としての誇りを持ってはいるが、友人と時に羽目を外しあるいは若者らしい目標を掲げるところもあったりした。だが、今の彼は将来を嘱望されるエリート軍人であり、部下にとってはお堅くて厳しい上官である。彼の笑顔を見た人間など、ここ何年といないであろう。 人生はほんの少しのことで大きく狂ってしまうものだ。自分にしろ、シーヴァスにしろ。レイヴはシーヴァスの肩を軽く叩いた。 「で、実際のところ、何があったんだ? 何もないのに、お前がこんなところに来るはずがないからな」 シーヴァスは空軍のパイロットの一人だったが、軍の中で誰とでも談笑するが、誰ともつるまない人間だった。軍を辞めて以来、彼が慰霊祭に顔を出したことなど一度としてない。今日が初めてのことだった。 シーヴァスは、そんなレイヴの問いにしばらく考えていたようだったが、やがて口を開いてこう言った。 「レイヴ、お前、天使の存在というものを信じるか?」 レイヴは、改めてまじまじとシーヴァスの顔を見た。 「・・・何だって?」 聞き違いかと、改めて聞き直す。だが、シーヴァスは大きくうなずいた。 「そうだ、天使だ。 神の御使い、慈悲深き天使だよ」 レイヴはシーヴァスは熱でもあるのだろうかとしばし考えこんだが、彼らしく真面目に答えてやった。 「俺は神も天使も信じんな。この目で見えないものなど信じることなどできんし、もしこの世に天使がいるというなら、世の中はもう少しマシになっていただろうさ」 多くの兵たちが死ぬようなこともなかっただろう。そう心の中でレイヴは付け加える。シーヴァスはその答えを聞いて苦笑した。 「そうだな、そうだ。私もそう思っていた。 だがな、レイヴ。天使はいるんだ。私はこの目で天使を見た。 そして、この手で天使に触れた。だから、かな。 神の御元に眠る人々に祈りを捧げることにも意味があるような気がしたんだ。・・・そう、柄にもなく、な」 「・・・幻でも見たんじゃないのか? いろいろお前の噂を聞くがずいぶんと派手に遊んでいるようだからな、疲れているんじゃないのか?」 「ご挨拶だな、レイヴ。 私も、最初はそう思わないでもなかったが。たびたび現れるようになるとな。だが、不思議なことに、私にしか見えないのだ、彼女の姿は。 だから、彼女のことはお前にしか話していない。 言っておくが、医者へ行け、などと言うなよ。そういうつまらない反応を期待しているわけではないのだからな」 その日、シーヴァスはヘブロン第2の都市ヨーストにある、グループ全体を統括する本社ビルの会長室にいた。立ち並ぶビルの中でも一際大きく、高いそのビルの最上階にある部屋で、彼は仕事に励んでいた・・・わけではなく、秘書を口説いていた。 「今夜、君の部屋でどうかな、夕食を一緒にとるというのは」 「会長はどなたにでも、そうおっしゃいますからね。 今夜もどなたかとお約束が他にあるのではありませんこと?」 「秘書の君が知らない予定が私にあるはずがないだろう?」 「私は、会長のプライベートまでは存知あげませんもの」 やんわりと言葉では拒絶を示しながら、秘書の視線は明らかにシーヴァスを誘っていた。彼の愛人になれば、自分の生活が今とどれほど変わるかということを、彼女ははかりにかけているのだ。シーヴァスにもそれはわかった。というよりは、彼女のような考えを持たない女性を彼はこれまで知ることがなかった。だから、秘書のこの反応も、彼にとっては予想通りのことだったのだ。もちろん、シーヴァスは彼女の期待にこたえるつもりなどない。が、遊べるものは遊んでおく、それだけのことだ。 シーヴァスが、最後の一押しとばかりに、彼女に甘い囁きを続けようとしたその時、窓の外を映していた彼のデスクの上の銀のペーパーウェイトに、信じられないものが見えた。シーヴァスは、驚いて、窓を振り向く。 ここは、ビルの50階だぞ? シーヴァスは、改めて窓の外のその光景をみて、自分の目を疑う。 「会長?」 いぶかしげに秘書が彼に問いかける。シーヴァスは、一度秘書の顔を見て、促すように窓の外をもう一度みやり、言った。 「・・・窓の外に、魔物が見えた」 見えた、というより、今もはっきりと彼の目にはそれが見えているのだが。秘書はシーヴァスの視線を追って窓の外を見たが、首を振ってため息をついた。 「何が見えたんですか? 何もいないじゃないですか。 やはり、会長はお疲れなんですわ。今日は夜遊びなどせずにゆっくりお休みになってください。」 「・・・そうか、そうだな。わかった、では下がってくれ」 シーヴァスは、至極素直に、そして畳みかけるようにそういうと秘書を部屋から外に出した。彼女には、これは見えていないのだ。自分にしか、その姿は見えていないのだ。部屋に一人になると、シーヴァスは椅子から立ち上がり、窓辺に近寄った。そして、窓の外に浮かぶそれへ、声をかける。 「・・・魔物か?」 真白な翼を持ち、淡い栗色の髪とすみれ色の瞳を持つ女性の姿をしたそれは、シーヴァスの言葉に、少し首をかしげた。それから、にっこりと笑うと窓をゆっくりと通り抜けて部屋の中に入り込んだ。 そうして、シーヴァスに向けて丁寧に頭を下げる。白い翼が夢のように美しく見えた。ふわふわと空に浮かんでいた娘はやがてゆっくりと部屋の床に足を降ろした。 「君は、いったい、何だ? 何か私に用でもあるのか?」 シーヴァスの言葉に娘は少し困ったような顔をする。一生懸命手を動かし、口をぱくぱくさせているが、その声は少しもシーヴァスには聞こえなかった。 「? 話せないのか?」 シーヴァスがそう言うと、彼女は動きを止め、悲しそうな顔をした。ひどく落胆したような感じに見えた。 大きな目を見開き、シーヴァスの顔をじっと見つめてもう一度何かを伝えようと口を動かす。だが、やはりシーヴァスには彼女の声は聞こえなかった。 「言っておくが、私は手話の知識はない。何かを伝えたければそれなりの方法をとってもらわねば何もわからんな」 彼女はしばらく考えていたようだったが、部屋の壁にしつらえてある本棚へ向かう。そして、一冊の本を手にとるとページを開けた。 それは、いつだったかもらった聖書だった。こんなところにいまだにあったのか、とシーヴァスは考える。その娘の開けたページには、天界の御使い、天使の姿があった。 シーヴァスがその絵を見て改めて娘の顔を見つめると、彼女はにこり、と笑ってうなずいた。 「・・・つまり、君は自分が天使だといいたいのだな?」 娘は笑顔のまま、何度もうなずく。シーヴァスは天を仰いだ。天使! この世がまだ神に見放されていなかったとは、知らなかった。 「では、その天使がいったい何の用なのだ? 私に」 自称天使はもう一度手にした書のページを繰り、一枚の絵を指し示す。それは、神の言葉を聞き、戦う勇者の絵だった。 「・・・・私にこの男と同じことをしろ、と言うのか?」 天使は、今度はおそるおそる、といった感じでシーヴァスの顔色をうかがいながらうなづいた。シーヴァスはため息をつく。 「話すことのできない君が私に神の言葉を伝えるとでも? 第一、どうして私がそんなことをしなくてはならないんだ?」 彼の冷たい言葉に、天使は俯く。だが、顔をあげてシーヴァスの瞳を見据え、彼の手をとって握りしめた。柔らかい手の感触にシーヴァスは驚く。そして、触れた手から彼女の思いが伝わる気がした。懸命に彼を頼る思いがわかった。 きらきらと輝く天使の瞳が、シーヴァスを見つめていた。シーヴァスは、しばらくその瞳を見つめていたが、やがてもう一度ため息をついて言った。 「・・・まあ、いいだろう。所詮、私も人生に退屈していたところだ。 だが、気が向かなければいつでもやめる。それでよければ、君の望みを聞き入れよう」 天使はその言葉を聞くとぱっと顔を輝かせた。そして、また口を動かす。どうやら、礼を言っているらしい。 「で。私はいったいどうすればいいんだ?」 そういうシーヴァスに、天使は不思議なものを手渡した。一見すると剣の束のようだったが、肝心の剣はついていない。こしらえは美しいが刃のない剣など何の足しにもならないだろう。だが、天使はそれをシーヴァスに手渡すと、書にある神の勇者の剣を指さした。 「・・・これが天界から賜る武器というわけか。 ものの役に立ちそうもないがね」 シーヴァスがそういうと、天使はにこっと笑って首を横に振った。そんなことはない、と言いたいらしい。とりあえず、シーヴァスはそれを受け取り、上着のポケットへ入れた。見た目の感じからはとうてい考えられないほどに、それは軽かった。 天使はそれを見届けると、もう一度シーヴァスの手をとり、握りしめた。そうして微笑むと、来たときと同じようにふわり、と中空に浮き窓を通り抜けて帰っていった。 部屋の中に一人になってみると、まるですべてが夢であったかのようだった。しかし、ポケットに残された不思議な剣の束がシーヴァスに、現実だと教える。去っていった天使の笑顔を思いながら、悪くはないかもしれない、とシーヴァスは考えていた。 シーヴァスは、レイヴに天使から預かった剣の束を見せた。 「・・・お前にしては、変わった趣味だな。」 レイヴは何の感慨もなさげにそういうとシーヴァスにそれを返した。 シーヴァスは、その反応につまらなさそうに鼻を鳴らしたが、やがて、ニヤリ、と笑った。 「・・フ、まあ、いい。 確かにその目で見なくては信じられないことだろうからな。」 レイヴはしかし、シーヴァスが天使について話すのに常になくはしゃいだ様子が見てとれていぶかしく思ってはいた。いつもどこか皮肉っぽく醒めた様子のシーヴァスがこんなに熱っぽく楽しげに語ることなど、何年となかったと思う。 天使の話が事実ではなくとも、それに相応するような何かがあるのかもしれない。 人生など、ほんのささいなきっかけで大きく変わるものだ。 レイヴは口を開いて何か言おうとしたが、そのとき、慰霊祭の始まりを告げる音楽が始まった。二人は広場へと集まり始めた人々と同じにそちらへと歩き始める。シーヴァスが、一瞬足をとめて、丘の向こうの大きな木を振り返った。その視線は木と空が交わる頂を見ている。そして、不思議な笑みを口元に浮かべると再び歩きだした。レイヴはその様子にシーヴァスが見ていたあたりに視線を送る。 「?!」 一瞬、レイヴの目にも白い翼が見えたような気がした。驚いてもう一度目をこらして見るが、もはやそこには何も見えず、青い空と風に揺れる緑の梢があるだけだった。 to be continued |