ヘブロンに戻った陸軍中佐レイヴ・ヴィンセルラスは、軍会議にかけられたがしばらくの謹慎を受けるに留まった。彼は、自らの足取りについて詳しくは話そうとしなかった。死者の軍団はエスパルダで村を焼き、町を破壊したが、その後姿をくらました。それはレイヴの失踪した時期に重なることもあり、事情を知るものの間には薄暗い疑惑を残すことになった。 しかし、レイヴはそんな周囲の雑音は気にせず、軍務を離れるのをよい機会とばかりに大人しく裁定に従い、家に閉じこもった。彼は心に思うところがあったのである。 「どうだ、一人で陰気くさい顔で部屋にこもっているよりはだいぶんマシだろう」 シーヴァスはレイヴとともに屋敷の門をくぐりながらそう言った。太陽はもはや地平近くに姿を隠し、黄昏色に染まった景色がどこかぼんやりとした影をあたりに投げかけている。シーヴァスの屋敷の白い門も、例外ではなく、夕日の薄暗いオレンジ色に染まっていた。手入れの行き届いた草花が白い階段を飾っていて、美しい。だが、人の気配のしない広い屋敷は、外から見てもどこか寂し気だった。 突然のシーヴァスの訪問を受けたレイヴが、言葉をはさむ間もなくシーヴァスに車に乗り込まされたのはほんの1時間もたたない前のことである。手荒い訪問といえたが、自分がいなかった間、この素直でない友人がどれほどか心配をしていたと、今となってはわかるだけにおとなしく従ったのである。 「おまえこそ、こんなだだっぴろい屋敷に一人暮らしでは、手も行き届くまい いまに荒んだ屋敷になるのではないか?」 有り難いと思う心とは裏腹に、シーヴァスの言葉に憎まれ口とも言える言葉を返す。少なくとも、こういう言葉を交わす方が、やはり、自分とシーヴァスらしいのだと思える。 「掃除や家事は家政婦がしてくれるしな、食事はおまえと同じ、外で食べるばかりだ。 汚れたり荒れたりするわけがないだろう。 まあ、この屋敷にいくつ部屋があるかも知らないが、さして困っていることもないな。 どうだ、今日はとまっていけ、好きな部屋を使えばいいぞ」 少しはしゃいだようなシーヴァスに、レイヴは苦笑しながらシーヴァスの後に続く。 「少し待て」 シーヴァスはそう言うと、玄関先にレイヴを待たせたまま、庭へ回った。レイヴは不思議に思うとシーヴァスの後をついていく。広い庭。先代のフォルクガング家当主の好みなのか、薔薇が主体のその庭はこれも庭師の手が入っているのだろう、美しく整えられていた。広い家も、広い庭も、シーヴァスのものだが、本当にシーヴァスの目に映ることがあるのだろうか。ふとそんなことを考えてしまったレイヴである。居間のテラスへ続く細い小道の脇に、小さな天使の像がおいてあった。祈るように手を合わせ、天を仰ぐたおやかな天使の像。 レイヴはそれを見てふ、と笑う。以前のシーヴァスなら考えられない置物だ。レイヴが声をかけようとしたとき、シーヴァスはその天使の像の下に手を差し込み中から何かを取り出した。 そして振り向いてレイヴがいることを知ると、苦笑を漏らした。 「なんだ、ついてきていたのか。鍵の保管所なんだ。ばらすなよ?」 「お前らしからぬ場所だな?」 レイヴがそう言うとシーヴァスは肩を竦めた。 「最近は信心深いのさ、天使様のおかげでな。」 レイヴはその答えに愉快そうに笑い、屋敷の中へと入っていった。 「お前が助けに来るとは思っていなかった。 ・・・いや、天使さえももはや俺を見捨てるかと、そう思っていた」 レイヴはシーヴァスが注ぐワインを杯に受けながらそう言った。 「・・・彼女がそんなことをするように思えるのか? たとえ何があろうとも彼女はお前を見捨てようとはしなかっただろうさ。」 レイヴの脳裏には、リーガルにつれ行かれる自分を泣きそうな顔で見送る天使の顔が思い浮かんだ。 「そうだな」 レイヴはそう言うとグラスに口をつけた。 「天使はそうだが・・・シーヴァス、お前は意外だったぞ」 レイヴは珍しく人の悪い笑みを浮かべてシーヴァスを眺めた。シーヴァスはそれをしれっと交わして 「彼女が泣きそうになって頼むからだ。 私は、お前のことなど、どうでもよかったんだがな」 と答える。それでも、シーヴァスが今夜レイヴを呼んだのは、軍からはなれたレイヴが、心配でということもあるとレイヴにはわかっていた。あの、バルバ島での1件以来、確かにレイヴの中で何かが変わった。自分があの戦争が終わって以来、何も見ていなかったことを知った。リーガルの真実も、シーヴァスのことも。 「まあ、借りは借りだからな・・・ お前に何か会った場合には、俺が助けてやることにする」 「あいにくだが、そういう予定はないんでな、 いずれ、別な形で高く返してもらうことにするさ。 こう見えても、私も実業家なんでね、自分の損になることはしない」 意味ありげに笑うシーヴァスに向かってレイヴは冗談じゃない、とばかりに手を振る。 「軍とのパイプは期待するなよ。 俺はじきに軍を辞めるつもりだからな」 さらり、とレイヴはそう言った。あまりにさりげなく言ったものだから、シーヴァスはつい、そのまま聞き流してしまうところだった。だが、その言葉の意味を理解したとたん、一瞬驚いたような顔をしてレイヴの横顔を見つめたが、短く「そうか」と答えるとさらにレイヴのグラスにワインを注いだのだった。 シーヴァスは、しばらくぶりに聖堂に足を運んだ。レイヴの1件があって以来、立寄る時間がなかったのだ。温かい午後の日射しが、心地よい。この町は・・・シーヴァスにどこか懐かしい思いを抱かせる。両親が生きていたころの想い出を知る町だからかもしれない。どこか懐かしく、そして胸が痛むそんな思いにかられる場所だ。かつては、それゆえにここに足を向けることを嫌っていた。今は心の痛い想い出も含めてここを懐かしいと思う。教会を中心とした、どこか清浄な空気を感じさせてくれるこの町を。だが、その一画に足を踏み入れたシーヴァスは、町の雰囲気が以前と少し変わっているのに気づいた。どこか荒れた感じがするのだ。 重い扉を開け、聖堂の中に入るとそんな外の荒れた様子も嘘のように澄んだ空気がシーヴァスを包んだ。いつものように、母の絵へと足を進める。 その絵をシーヴァスはじっと見つめた。 絵の中の母は穏やかで美しい。夢の中でシーヴァスに向かって腕を伸ばし、何かを叫ぶ姿と重なるものがない。どちらが本当の母の姿なのか。天使の守りのおかげで、今はもう悪夢を見ることはない。だが、それでいて自分はずっと知りたいと想っていたということに気づいている。あのとき、母は何を自分に向かって叫んでいたのだろうか、ということを。今の自分になら、その答えを聞く勇気があるだろうか。それが、呪詛の言葉だったとしても聞く勇気があるだろうか。 絵を見つめながらそんな物思いにふけるシーヴァスの元へ、シスターがやってきた。 「シーヴァス・・・久しぶりですね、来てくれたのですね」 「シスター・・・。お邪魔しています」 「いいえ、来てくれて嬉しいですよ。絵を熱心に見ていましたね」 シスターはにっこりと笑うとシーヴァスの母の絵を眺めた。 「穏やかで美しい、天使の優しさとも母の慈愛にも満ちたすばらしい絵です。 あなたの、この絵を見つめる目が優しくなったことを嬉しく想っているのですよ」 「・・・私の、目が?」 「ええ。あなたがこの教会へ来てくれるようになってから・・・それからでも あなたはずいぶんと、いい顔をするようになったと想いますよ」 思いがけないシスターの言葉に、シーヴァスはどう答えていいかわからず、思わず顔を伏せた。 「・・・それは、きっと・・・・彼女のおかげです」 「まあ・・・シーヴァス、誰か素敵な方ができたのですね、よかったこと。 いつか、私にも紹介してくださいね」 「・・・・ええ。いつか」 そう答えつつも、シーヴァスはシスターに彼女を引き合わせることなどないだろうとそう想っていた。なぜなら彼女は人ならぬ身。この思いを伝えることさえ、所詮は許されるはずもない存在なのだから。 シーヴァスの手は知らず、天使のくれた守護の印に触れていた。 そのとき。 教会の中にまで大きな音響と振動が伝わってきた。 シーヴァスは、慌ててシスターを支えながら周りを見回す。だが、外の見える窓のない聖堂からは何もわからなかった。 「なんだ、何かあったのか?」 「ああ・・・また、なのですね・・・。 このところ、この辺りも荒んできてねえ・・・放火が日をおかずに起こされるんだよ。 本当に・・・恐ろしいことだけれどねえ・・・」 その言葉に、シーヴァスは教会の外の町の荒んだ雰囲気が思い浮かんだ。そして、町を炎に包もうとしている者が誰であるのかという疑問と。 「シスター、今日はもう失礼いたします。 この辺りもお話ではかなり荒れた様子、くれぐれもお気をつけください」 そう言うとシーヴァスは駈けるように聖堂を出た。外に出ると、一筋の煙が立ち昇っているのが見えた。けたたましいサイレンとともに消防車が走りゆく。シーヴァスはその後を追うように走り出した。 もうもうと煙る中、古い建物が燃えていた。窓から助けを求める人の姿が見える。どうやらアパートらしく、建物の上部に住まう人々は逃げることができなかったようだ。さきほどの衝撃から思えば、火は突然に爆発のように燃え広がったに違いない。シーヴァスは辺りを見回した。 これは、人の仕業なのか? それとも、人ならざる者の仕業なのか? そのシーヴァスの目に、不審な男が映った。盛り上がった筋肉。大きな体躯。燃えるような赤い髪。だが、それが人ならざると想われたのはその目だ。何も映さぬ瞳。虚無と憎しみの瞳。燃える炎も逃げ遅れた人をも、なんとも想わぬように表情もなくじっと見つめているその瞳だった。 シーヴァスの視線に気づいたのか、その男が振り向いた。そして。 シーヴァスと視線が合うとにやり、と笑った。 その笑みは、まるで空虚なもので、さしものシーヴァスも背筋に冷たいものが走った。 その男はそのまま、その場を走り去るのを、シーヴァスは追いかけた。 「待て!」 人ごみを掻き分け、シーヴァスは男を追う。男はまるで人ごみなど意に介さぬようにするすると駈けていく。シーヴァスは低く舌打ちをした。 火事に群がる人ごみを抜け、裏通りを駆け抜け、気がつくといつも訪れている教会の裏手に出た。 男はそこで、シーヴァスを待っていた。シーヴァスが追いついてくると、くるりと振り向き、その顔を見て笑った。 「くっくっく・・・見覚えがあるぞ、貴様」 低く、まるで地の底から響いてくるかのような声。シーヴァスの手が震える。今まで、どのような敵を相手にしてもこのようなことはなかった。だが、今、シーヴァスの背中には冷たい汗が流れ、手が震えている。恐怖ではなく、おぼろげな不安のような薄暗い影が心を侵していくようだ。 「・・・よもや、あのとき殺し損ねた小僧にまためぐり合うとはな・・・」 男の声に、シーヴァスは確かに聞き覚えたがあった。どこかで聞いた。どこか。記憶の深い遠いところで。思い出そうとすると頭が痛む。思い出してはいけないことのように。 「・・・お前が今、生きているのは、両親の命を犠牲にしたからだ、覚えているだろう? お前さえ生まれていなければ、誰も死ぬ必要などなかったというのになあ。」 「・・・どういうことだ・・・」 じっとりと滲む汗をぬぐおうともせず、シーヴァスはからからに乾いた口で男に向かって尋ねる。聞いてしまっていいのだろうかと、一瞬心が揺れる。 「・・・はっはっは・・・覚えていないのか? 貴様の両親の乗った車が炎に包まれた様を。美しい炎だっただろう。 あれはな、貴様を殺すためだったのよ。 貴様さえ殺せれば、あとはどうなろうとどうでもよかったのよ。 だが、貴様は俺の手を逃れた。悪運の強い奴だなあ。 さすが、勇者などに生まれついた人間だ」 「・・・私の・・・?」 「貴様が勇者などに選ばれることさえなければ お前の母親も父親も今も生きてきたのになあ・・・ だが、俺は満足しているよ。 貴様の母親が燃え尽きる様は、美しかったからなあ」 「・・・貴様・!!」 シーヴァスの声が怒りに震える。だが、それさえも男は楽しげに笑い声をあげた。 「覚えておけ、お前が、お前の存在が、両親を殺したんだ」 そう言いおくと男は飛び上がった。人ならざる跳躍力。 「待て・・・!」 シーヴァスは追いすがろうとするが、もはや男の笑い声しか残されてはいなかった。 「・・・・私が・・両親を殺した・・・?」 シーヴァスは呆然としたかのようにその場に立ち尽くしていた。自分の心の奥にずっと隠されていた傷跡のような記憶。それは、すべて自分が原因だったというのか。 それは、シーヴァスの心に蒔かれた不安の種だった。 to be continued |