炎を上げて燃える車。近づこうとすれば、火の熱さが行く手を阻む。さっきまで当たり前のように存在した世界はなくなっていた。燃え上がる炎の中で腕を伸ばしてくる母の姿。何を言っているのか、その声はシーヴァスにはとどかない。美しく優しかった母が炎の中で姿を変えていく。目を逸らしたいのに逸らすことができない。耳を塞ぎたいのに塞ぐことができない。耳に嫌な声が聞こえる。細く長くまるでセイレーンの嘆きの声のように耳の奥底に響く叫び声。それが自分の口から漏れ聞こえるのだと気付いたとき、シーヴァスは目を覚ました。 ベッドの上に起きあがって、シーヴァスは両手で顔を覆った。口の中が乾いて妙な味が残っている。そのくせ背中から身体全体にかけて嫌な汗が滲んでいた。天使の守護を貰って以来、けして見ることのなかった悪夢。再びの悪夢の引き金が何であるのか、シーヴァスには良くわかっていた。 『お前の存在が、両親を殺したんだ』 人ならざると思わせる、炎のように紅い髪をした男。その男の言葉がシーヴァスの頭から離れない。男の言葉は、ある意味シーヴァスがずっと怖れていた真実を表していた。何故自分だけが助かったのか、何故両親はあのような死を迎えねばならなかったのか、今際の際に母は一体、シーヴァスに何を伝えたかったのか。ずっと知りたくて、そして知ることを怖れていたこと。だが、今のシーヴァスにはわかっていた。自分は、過去の出来事を超えねばならないということを。そして、怖れながらもそれを超えることができるとも感じていたのだ。……天使が傍にいる限り。 だから、天使が訪れたとき、何を言うよりも先にそのことを告げた。 「タンブール周辺で起こっている放火事件だが……あれは君の範疇の事件だな?」 尋ねるようでいて決めつけた台詞。天使はシーヴァスの言葉に少し驚いた様子を見せながらも否定することなく、頷いた。その表情は硬く、また哀しげでもあり、世を護る天使がこの荒れた世界に心を痛めていることが見て取れた。だが、そんな天使の様子から目を逸らすとシーヴァスは強い調子で言葉を続けた。 「その事件は、私に任せてほしい。誰がそれを起こしているかも知っている。 次に会った時には私がしとめる。他の勇者に頼むことはしないでくれ」 天使には、自分やレイヴ以外に見知らぬ勇者がいるらしいと感じてはいたが、この事件の解決を誰にも譲るつもりはなかった。リーガルを見つけたときのレイヴも同じ気持ちだっただろう、と今更にふと想像する。それに自分をあのように挑発してきた相手だ、おそらくこちらが望まなくとも向こうからシーヴァスを狙ってくるだろう。シーヴァスからのその申し出に、天使が驚くかとシーヴァスは思っていたのだが彼女は驚いた様子は見せなかった。むしろ、どこかシーヴァスを気遣うような心配げな表情をしていて、それが少しシーヴァスの不安を煽った。自分は、過去を乗り越えられるのか、と。しかし、そんな思いを振り払うようにシーヴァスは笑ってみせると 「なに、心配しなくとも大丈夫だ、私に任せておきたまえ。 それとも、勇者としての私はそんなに君に信用されていないのか?」 と言った。その言葉に慌てたように天使が首を横に振る。わざと意地悪い言葉を言ってみせたシーヴァスは、その様子に可笑しげに笑った。その様子を見て、うっすらと白い頬を上気させた天使が、少し膨れっ面に見えたのは気のせいだったかもしれない。だが、自分の言葉に表情を変える彼女の様子が、シーヴァスの心を浮き立たせ、不安を紛らわせる。 ……そうだ、君がいてくれるなら、悪夢も見ない、過去も乗り越えてみせる。 再会は遠くない日に訪れるだろうとシーヴァスにはわかっていたが、その訪れは突然だった。 その日もシーヴァスはタンブールの教会を訪れていた。あの男を待つためか、両親の絵を見るためか、あるいは自分の内に見失った神の姿を探すためか、それは自分でも定かではなかったが、かつてあれほどに頑なに拒み続けた教会が、今は静かで居心地の良い空間となっていたのは間違いがなかった。この場所ではシーヴァスは、フォルクガング家の財産を継いだ若き財界人である必要はなかったし、幼いころの思い出もシーヴァスを苦しめるものではなくなっていたからだ。シスターはそんなシーヴァスを常に温かく迎えてくれたが、彼の思索を妨げることはなかった。シーヴァスは静かに教会で自分自身と向き合うことができた。 かつて幼いシーヴァスが両親と共に暮らしていた頃から、タンブール地区は豊かな町ではなかった。今も慎ましく暮らす労働者階級の人々が多く暮らす町でもある。金に困ることなく欲しい『物』であれば自由に手にいれることができ、自由な暮らしをしているシーヴァスではあるが、自分がこの町の人々と比べて『豊かな』暮らしをしているわけではないことは、身に染みてわかっていた。時としてこの町での暮らしの方が、今の自分よりも豊かであったようにさえ思えるのだ。彼は、このタンブールの町が好きなのだ。この町での思い出が好きなのだった。だから自分自身の理由とは別にして、この町を壊そうとしている男を純粋に許せないという気持ちがシーヴァスの中に芽生えていた。この町は彼にとって大切な町なのだ。 自分のためだけでなく、天使のためでもなく、生きる人々のために勇者として何かをしたいと思ったのは、初めてだった。そしてそれが不思議と心地よかった。漠然とではあるけれど、勇者としてではなく、シーヴァスが受け継いだフォルクガングの力でこの町のためにできることがあるのではないかとも考え始めていた。今までは意味もなく疎ましく重荷でしかなかったその家名と財産が、違う意味を持つことも有りうるのではないかと思い始めていたのだ。貧しさが人々を生き難くしていることは確かで、そんな中、人々の心の支えとなっているこの教会すら老朽化しても建て直すことができない。だが、自分ならそれをすることができる。もっともただそれを与えるのみならシーヴァスの自己満足でしかないことで、自分がいったい何をできるのか考えることはこれからの課題なのだと感じていた。こうした心境の変化でさえも、勇者として様々な事柄を見てきたことによるものだといえた。今まで見ないようにしてきたことを、見て、受け入れて、シーヴァスも変わってきたのだ。 やがてシーヴァスはシスターエレンに挨拶をすると、教会を出た。雑多な建物が建ち並び、薄汚れた窓から洗濯物がひらめいている町の空を見上げる。この町を、この世界を守る。そう思う自分が不思議で、笑みを漏らすとシーヴァスは教会を後にして歩き始めた。この町へ来るときは目立つことを避ける意味もあって、車を使っていない。懐かしい町並みを歩くことも嫌いではない。最初の頃は無性に追い立てられるような気分になったこともあるが、今は郷愁に似た思いを感じる方が多い。大きな通りに出たところで車を拾うのが常だ。その日もそのつもりで通りを歩いていたのだが、教会を離れ、大通りへ出る前のブロックを曲がったところで、背後に爆発音を聴いた。低く響くその音にシーヴァスは振り返る。黒い煙が空に向かって上がっていた。直感的に『あいつだ』と思ったシーヴァスは駆け出した。天使が今は自分の傍にいないことも忘れていた。今来た道を駆け戻りながら、段々と不安が増してくる。青い空を黒い煙が隠していく。焼けこげた匂いが鼻につく。この匂いを、この光景を自分は見たことがある。 人々の怒号と遠いサイレンの音が耳に遠く響く。通りを逃げていく人々と反対へ駆けていくシーヴァスが、やがて目にしたのは、炎を上げて燃え上がる教会の姿だった。 「!! エレン! シスターエレン!!」 先ほど別れの挨拶を交わしたばかりのシスターの名前を叫ぶ。燃え上がる教会へ駆け寄ろうとした時、弱々しい声が帰ってきた。 「シーヴァス……シーヴァス!」 人々の輪の中に煤に汚れ弱り切ったエレンの姿があった。 「シスターエレン! ご無事でしたか……」 ほっとしたシーヴァスが駆け寄る。土と埃、煤に汚れた手を取るとシスターはにこり、と微笑んだ。 「あなたのいるときでなくて良かったですよ、シーヴァス」 「シスター……しかし、教会が……」 悲痛な表情で燃えさかる教会をシーヴァスは振り仰ぐ。古い建物だった教会は、おそらく瞬く間に炎に包まれてしまったのだろう。今はもはや手をつける術もないほどに燃え上がっている。狭い庭に周りを囲まれ、石畳の広場の中に建つ故に、炎が燃え移る建物が近くにはないのがまだしも救いだったが、教会自体が焼け落ちるのは時間の問題のように思えた。 「……いいのです、シーヴァス。形のあるものはいずれ失われていくものです。 教会も建物が大切なのではありません。立派な建物がなくとも、そこに祈りを捧げる人がいれば そこが神と人を結ぶ場所となるのですから。私は大丈夫ですよ」 シスターはそう言うとシーヴァスの手をしっかりと握った。しかし、その後で申し訳なさそうに言葉を続ける。 「あなたのご両親の大切な絵を持ち出すことができませんでした。 ごめんなさいね、シーヴァス」 シーヴァスはシスターの言葉にただ頷くとその手を握り返した。 「……形あるものはいずれ失われていくものです、シスター…… あの絵がなくとも、私の両親の思い出は私の中にずっと残っています……だから、大丈夫です」 その言葉に、シスターエレンが微笑んだ。 それからシーヴァスは立ち上がると、燃える教会を見上げ、それから駆け出した。きっと、あの男はどこかでこの燃える教会を眺めている。見えるところにいる。教会のある通りから細い小路に入る。石造りの建物の壁が両側から迫ってくるその小路の突き当たりは少し広い空き地となっていた。振り向いてみれば未だ燃え上がる教会の紅い炎が小さく見える。このあたりに隠れているのではないかと思っていたシーヴァスだったが、空き地に人の姿はなかった。それでも注意深くあたりを見回すシーヴァスに、頭上から嘲るような声がかかった。 「勇者よ、また命拾いしたようだな」 はっと振り仰ぐと建物に外付けされた非常階段からあの男が身を乗り出していた。燃える髪、狂気の瞳。 「残念だ、お前を仕留め損なって。よほど悪運が強いと見えるな、勇者。 だが、お前の大切なものがお前の代わりに炎の中に燃え落ちていく気分はどうだ?」 ひどく愉快そうに男は声を挙げて笑いながらそう言う。不愉快そうにシーヴァスはその男を見上げると、 「ごたくはたくさんだ、お前の言うことなど私が耳を貸すとでも思っているのか。 何度もしくじっていると言うのなら、降りてきてその手で私と勝負してみたらどうだ」 と言い放った。その答えに男はなおさら愉快そうに顔を歪めて笑い声を挙げる。 「いいだろう、勇者よ。俺の名は炎王アドラメレク。 お前のその口から、恐怖と苦痛の呻き声が漏れるのが楽しみだ。 今度こそ、俺の生み出す魔界の業火に焼かれるがいい」 そう言うと男はシーヴァスが天使の剣を手に身構える間もなく、階段から身を躍らせた。瞬間、シーヴァスの耳元で風がうなり声をあげる。その突風から身を守るようにシーヴァスは両腕を上げた。やがて突風が過ぎ去った後、天使の剣を手にシーヴァスは辺りを見回す。だが、そこにアドラメレクの姿はなかった。何処へ姿を隠したのかとシーヴァスは慌てて周囲を見回す。そして、不意に気付いた。 ここは、先ほどまでシーヴァスが立っていた小路の奥の空き地ではない。石畳の道、見回せば広い空間、建物の姿はなく、見上げれば空もなくただ無限の空間が頭上に広がっているだけだ。 (しまった……) アドラメレクはその姿を、このおそらくは幻の空間の中に隠してしまったに違いない。 「卑怯な……!」 奥歯を噛みしめそう吐き捨てたシーヴァスの耳に、まるで地の底から響くような声が聞こえた。 「勇者よ、まだ思い出さないのか、ここが何処か、忘れてしまったのか」 声の主を捜してシーヴァスは辺りを見回す。だが、何も見えない。ただ石畳の道が続いているのが見えるだけだ。何を思い出せというのか、とシーヴァスは考えそして一歩を踏み出す。姿を現さないというのなら、こちらから仕掛けてみるまでだ、と思ったからだ。だが、そんなシーヴァスの目にやがて炎が見えた。近づこうとしたシーヴァスは、しかしそれが何なのかを理解して立ちすくむ。だが、そうして立ち止まった途端にその炎はシーヴァスの間近まで突然に迫り来た。 ここが何処か、それを理解したシーヴァスは呼吸が苦しくなったのを感じた。嫌な汗が身体を伝う。これは幻だ、アドラメレクが作り出した幻なのだと何度も心の内で言い聞かせるが、目の前のその炎から目を逸らすことができない。それは、ある意味シーヴァスには見慣れた光景でもあった。何度も何度も繰り返し悪夢で見た光景。 黒煙を上げて燃え上がる一台の車。その窓から手をシーヴァスに向かって手を伸ばしている母の姿……やがてその姿さえも炎に呑まれ『母だった物体』へと変わっていくのだ。自分はそれをどうすることもできずにただ立ちすくみ眺めている。そう、何度も何度も繰り返し夢に見た光景そのままに燃えさかる車が今、シーヴァスの目の前にあった。今もなお燃えさかる車の中から母がシーヴァスに向かって救いを求めるように手を伸ばしていた。 「シーヴァス……! シーヴァス、助けて、シーヴァス……」 夢の中では聞こえることのなかった母の声がはっきりとシーヴァスの耳に届く。その声にシーヴァスは車に向かって一歩を踏み出した。途端に母の姿は炎に包まれ叫び声を挙げた母が苦悶の表情のまま焼けてゆく。その様を見せつけられシーヴァスは胃液がせり上がってくるのを感じた。 呆然と燃えさかる車を見つめるシーヴァスの目の前で、炎の中の黒く焼けこげた母が再び元の姿に戻ってゆく。それに気付いたシーヴァスは母に向かってまた一歩進んだ。炎の中で甦った母は、再び、シーヴァスに向かって呼びかけてくる。 「シーヴァス……! シーヴァス、助けて、シーヴァス……熱いわ、シーヴァス、たすけて……!」 「母上……!!」 シーヴァスは必死でまた足を踏み出した。その瞬間、また業火が母を包み悲鳴と苦悶の表情そのままに母の姿が焼け落ちていく。 「止めろ! 止めてくれ!」 それは誰に向けた言葉なのか、シーヴァスはただそう叫んだ。もう止めてくれ、母に苦痛を与えないでくれ。繰り返す悪夢がシーヴァスを苦しめる。耳の奥でアドラメレクの哄笑が響いた気がした。息苦しく手にした天使の剣さえ滑り落ちそうなほどに手汗を感じながら、それでもシーヴァスは母に向かって近づこうとした。自分はあの幼い力のない頃とは違う、今は天使の勇者なのだ、母を救い出すこともできるはずだ、と。それができればきっと悪夢から開放されるはずだと。炎の中で焼けた母が甦る。苦悶の表情のままにシーヴァスに手を伸ばし救いを求める。 「シーヴァス、助けて……熱いわ、シーヴァス……もう何度この炎で焼かれたかしら……何度私は死ねばいいの? シーヴァス、教えて、シーヴァス……助けて……!」 「母上……! 今……今、助けます……!」 そうシーヴァスが叫ぶと母は嬉しげに笑った。その笑顔の禍々しさにシーヴァスは気付かなかった。裂けた口がつり上がり、母は嬉しげにシーヴァスに向かって吠えた。 「シーヴァス……助けてくれるのね、シーヴァス。では死んで! 私の代わりにこの炎に焼かれて…… シーヴァス、お前が勇者に生まれつかなければ、私もお前の父親もこんな風に死なずに済んだのよ 死すべき運命はお前だったのに……だからシーヴァス、私たちを助けるというのなら お前が死んでおくれ、シーヴァス……」 母の口から漏れる呪詛の言葉をシーヴァスは呆然と聞いていた。ああ、やはり母は自分を呪いながら死んだのだ、と足元が崩れていく気がした。焼けただれていく母は途切れることなくシーヴァスに向けて呪詛の言葉を吐き続ける。 「シーヴァスゥ……お前が焼かれれば良かったのに……お前が死ぬべきだったのに……」 何度も何度も再生と焼死を繰り返す母がシーヴァスに向かって手を伸ばす。その手は業火に包まれる死への誘いだったのだ。 ……死すべきだったのは、私だった……私のせいで両親は死んだのだ…… ……そして、今もなお繰り返し苦しみを味わっているのだ…… 「私が、死ねば母上は許してくれますか……楽になれますか……」 そう呟くとシーヴァスは燃える車に向かって歩き出した。そして炎に包まれた母に手を差し伸べる。 「シーヴァスゥ……代わりに死んで、シーヴァス……お前も地獄の業火を味わって……」 その手が触れ合おうとしたとき、突然にシーヴァスと母の間に立ちふさがる者がいた。 「いけません…!! シーヴァス!」 何処かで聴いたような、けれど誰の声かわからない、優しい声。はっとしてシーヴァスは歩みを止める。炎を遮るように立つ姿は、光の翼に包まれた天使だった。 「シーヴァス、幻に負けないで……本当のお母様の声を聴いて……! あなたを想う声を聴いてください。シーヴァス……!」 そう聞こえた瞬間、炎が天使さえも包もうとする。苦しげな表情をしながらも、それでも天使はシーヴァスに向かって言った。 「シーヴァス……お願いです、幻に負けないで……!」 紅い炎と天使の放つ白い光が混じり合い、まるで爆発を起こしたかのようにシーヴァスの視界を遮る。眩しさに一瞬目を閉じたシーヴァスは、強く念じた。惑わされることなく母の本当の声を感じるのだ、と。そして目を開けると燃え上がる炎の中、手を伸ばす母が見えた。禍々しい笑みも浮かべず、シーヴァスへの呪詛も吐かず、その瞳には哀しみとそれからシーヴァスへの愛があった。 「シーヴァス、お前は逃げて……生きて、シーヴァス。私たちの子…… シーヴァス、逃げて……行きなさい、生きなさい……!!」 「……母上……」 それが母の真実の言葉だったのだ。自分は炎に包まれながらも、その場に立ちつくすシーヴァスに逃げろと言った。生きよ、と。命を賭けて守ってくれたのだ。涙が知らずシーヴァスの頬に流れた。同時にアドラメレクへの抑えがたい怒りが湧き上がる。車を包む炎をシーヴァスは手にした天使の剣で断ち切った。 「うあぁぁぁぁーー!」 風が唸りをあげて炎を分断する。瞬間、燃える車も石畳も消え、シーヴァスは元の空き地に立っていた。車があったであろう辺りに、天使が倒れているのが見えた。 「!!」 息も止まるかというほどの衝撃がシーヴァスを襲う。周りも見えないほどの勢いで駆け寄ろうとしたシーヴァスをうなり声をあげて襲い来るものがあった。間一髪でそれを避けたシーヴァスが身構える。 「もう少しだったものを……!」 舌打ちをしたアドラメレクがシーヴァスの前に立ちはだかっていた。その胸に真新しい傷が横一直線についていて紅い血が流れていた。先ほど炎を断ち切ったときについたものであろう。 「……お前だけは許さん……アドラメレク!」 言うなりシーヴァスは振りかぶってアドラメレクに斬りかかる。それを除けるように仰け反ったアドラメレクはシーヴァスへ向けて腕を振り払った。アドラメレクの腕から炎がシーヴァスへ向けて伸びてくるが、それをシーヴァスは剣でなぎ払った。 「無駄だ! お前の幻も炎も、もう私には効かない!」 アドラメレクの腕に傷が増える。忌々しげに顔を歪めたアドラメレクはその場で拳を握りしめ力を溜めるように身体を震わせた。その人間離れした筋肉がめりめりと音をたてて盛り上がり、口が裂け牙が伸びる。咆哮を挙げてアドラメレクは先ほどよりも強い力で拳をシーヴァスに向けて放つ。なんとかその一撃を避けたシーヴァスだが鋭い拳は空気を切り裂き、シーヴァスの服を引きちぎって行った。 間を取るようにシーヴァスが身構えたまま様子を伺うと、アドラメレクは裂けた口を開け奇妙なうなり声と共に辺りの空気を吸い込んでゆく。びりびりと空気が震えるようなその声にシーヴァスは改めて剣を握り治すと、次の攻撃に備えて体勢を低くした。アドラメレクの声が止むと共に一瞬その動きが止まる。その次の瞬間、アドラメレクの口から大量の炎がシーヴァスに向けて吐き出された。まるで敵に向けて放たれた龍の用にうねりながら一直線に向かってくる炎の柱をシーヴァスは剣を一閃させて断ち切ると 「無駄だと言ったはずだ……!」 まだ押し寄せてくる炎の下をくぐるように身体を低くしてアドラメレクへ一気に駆け寄った。そして下から突き上げるように剣を突き立てる。ぐっと抉るように剣の柄を握り直すとアドラメレクが叫び声をあげた。その腕がシーヴァスをなぎ倒すように振り払う。剣を握ったまま、シーヴァスは地面を転がった。爪に傷つけられた頬の血を拭い、打ち付けられた衝撃で痛む身体を咳き込みながら起こす。アドラメレクはシーヴァスが刺した腹を押さえて尚叫び声を挙げていた。その抑えた指の間からどくどくとどす黒い血が流れていく。それは血であって血ではない。腐ったヘドロのような匂いがそれからは発せられていた。 シーヴァスは立ち上がると再び剣をアドラメレクに向けて突き立てる。今度は間違いなく心臓に。そのシーヴァスをなぎ払うアドラメレクの腕にもはや力はなく、それより早くシーヴァスは身体を離し倒れ行くアドラメレクを見つめた。 「勇者め……勇者め……いい気になるなよ……いずれお前などイウヴァート様の前に引き裂かれるのだ 堕天使が世界を握れば俺はまた復活できる。何度でも甦ることができるのだからな…… 覚えていろ、勇者め……」 そう言いながらアドラメレクの身体がずるずると崩れていく。やがてそれは黒い泥の固まりのようなものになってただ嫌な匂いをいつまでも発していた。 それがもはやアドラメレクではなくなったことを確認してから、シーヴァスは剣を仕舞うと倒れた天使へと駆け寄った。 「しっかりしろ……!」 白い翼が、細い腕が、傷ついていた。幻の炎に包まれながらもシーヴァスを護ってくれたのは彼女だったのだ。炎に焼かれ、身体のあちこちに火傷を負っているのがわかった。シーヴァスは上着を脱ぐを天使にそっと羽織らせ、その身体を抱き上げた。 「しっかりするんだ、私が傷ついたときには癒してくれるというのに 自分のことは後回しなのか? 天使は傷を負ったりするものではないのではないのか?」 叱咤するようにそう言葉をかけながら、シーヴァスは駆け出した。 to be continued |