天使の訪れに何か法則があるのかと尋ねられたら、シーヴァスは、そんなものはない、と答えただろう。時間も場所もかまわず、何かの拍子に天使は突然現れた。いわく、つまらなく長い退屈な会議中に。あるいは、くつろいだ時間である食事中に。または、これから羽を伸ばしにいく前に。しかし、もっとも迷惑なのは、これから寝ようとする時間に現れられることだ。さすがに、そればかりはシーヴァスも不機嫌にならざるを得なかったが、それは天使にも通じたらしく、やがて夜間の訪問は減っていった。 言葉の話せない天使は、シーヴァスの元に現れても何を語り、伝えるわけでもなく、ただ、シーヴァスの側にいて、彼がしていることをじっと見ていた。シーヴァスも、天使が来たからといって、彼女に構うわけでもなく、彼女がいないかのように振る舞った。しかし、時にたとえば、彼が広い割に生活感のない自宅に一人でいるときなど、彼女が現れるとシーヴァスは、とりとめもないことを彼女に話したりした。とりたてて意味のある話ではなかったけれど、天使は少し首をかしげながら彼の顔を熱心に見つめてその話を聞き入っていた。 そんなことが続くうちに、シーヴァスには天使の姿を見るよりも早く、彼女の訪れがわかるようになっていた。 (人間は、まったく非日常な出来事にさえかくも簡単に慣れてしまうものなのか) シーヴァスは、内心苦笑しながら、そう思った。広い自宅は、彼の留守中の昼間に家事をこなしてゆく家政婦以外に出入りするものはなく、彼もこの家に人を招きいれることはほとんどなかった。この家では彼は常に一人、誰に邪魔されることもない時間をすごしていた。天使が訪れる時を除いては。しかし、シーヴァスには、天使の訪れは時間さえ適正であれば、不快なものではなかった。ことに、彼女の訪問がわかるようになってからは。今も、もうすぐ彼女が訪れるのが感じられる。それは、どう言っていいのか、不思議な感覚だった。身体全体が、ふわりと温かいものに包まれるような浮遊感があって、やがて、かすかな羽ばたきの音が耳に届く。ゆるやかな風が頬をなでるような気がすると、天使の姿がやがて現れるのだ。シーヴァスの口元がゆっくりと緩む。それにあわせたかのように、天使の姿が現れた。 「天使というものは、わりと暇な仕事らしいな。 勇者というものも、仕事がないらしいが。」 シーヴァスは彼女の姿が見えると同時にそう言った。天使はその言葉を聞いて、シーヴァスの顔をまじまじと見つめ、少し困ったような顔をして笑った。実際、天使の勇者となることを約束して以来、彼女がシーヴァスの元を訪れることはあっても、彼女から勇者としての任務の依頼を受けたことはない。別段何かあることを期待しているわけではないが、少しは退屈しのぎになるのではと考えていたシーヴァスにとっては、拍子抜けでもあった。 しかし、今日の天使はいつもと少し様子が違った。シーヴァスの顔を見つめ、何かを伝えたそうな顔をしつつも、それを伝えたくないような迷いの表情が見てとれた。シーヴァスは、そういう表情には思い当たることがあった。そう、前線へ向かう任務を告げる上官の顔がこんな感じだった。 「・・・どうやら、初任務らしいな。 遠慮することはない、勇者を引き受けると言ったのは私だ。 最初からそのつもりで勇者を頼んでいるだろうに、天使というものはどこまでもお優しいんだな」 シーヴァスは、苦笑しながらそう言った。天使はそのシーヴァスの言葉に少しく含まれた刺に、複雑そうな顔をした。しかし、やがて翼を広げ、祈るように天を仰いだ。天使の姿はほのかな光りに包まれ、やがて、その光りが消えたとき、一枚の羽がその手の内にあった。彼女がその羽をふわりと離すとその羽はシーヴァスの手の中へとやってきた。そして、その羽はシーヴァスの手の中でふっと消えると彼の手の中には一枚の紙が残った。彼がその紙をよく見るとそれには文字が記されていた。 血を好む者が清き乙女を闇に捧げている 闇を払い、地に光を戻せ シーヴァスはその語句を読むと天使の顔をまじまじと見つめた。 「・・・まさか、この文句だけで任務を理解しろというのではないだろうな。 これでは、まるでわからないぞ」 天使は首を少し傾けてシーヴァスの顔を見つめていたが、考え込むように少しうつむき、それから部屋の中を見回した。シーヴァスがいったいどうしたものかとその様子を黙って見ていると、彼女は居間のテーブルの上の新聞を見て、にこりと笑った。シーヴァスは、その様子に新聞を取りページをめくる。そして、ある事件の記事に目を留めた。若い娘が続けざまに行方不明になっているという事件。 「・・・これか」 天使は真剣な顔をして、シーヴァスを見つめた。両手を握り合わせて立つその姿は、この世の闇に苦悩するかのようだった。シーヴァスは、そんな彼女に向かって言った。 「わかった。では、この事件の起きている街へ向かえばいいのだな。 これは、天使たる君が持ってくる任務というからには、人ならざる者がかかわっているということなのか?」 「・・・まあ、いい。勇者とやらを引き受けた身だ。初任務を果たしてみせよう」 天使はその言葉に、やっと今日初めてほっとしたような顔をして笑った。 明くる日、シーヴァスは山間部を貫くドライブウェイを車で飛ばしていた。その車の後部席には、物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回す天使の姿があった。翼は畳まれ、人の娘と変わらぬ姿になった天使は、もちろん車に乗るなど初めてだろう、落ち着かぬ様子だった。これまで、天使はシーヴァスの元を訪れても、しばらくすれば帰って行ったのだが、初めての任務のせいか、彼が眠るときは姿を消しても、それ以外の時は彼のそばにずっとついてきていた。信用されていないということか、とふと考えずにはいられなかったが、それよりも、彼女がそばにあるという事の方がシーヴァスにとっては重要な事になっていたので、あえて彼は何も言わなかった。 通る車もまばらなその山道の途中の休憩所で、シーヴァスはいったん車をとめた。これではまるで、あてのない旅のようだとシーヴァスは空を見上げてため息をつく。かつて、剣を手にとり、捕らわれの姫君を助けるために旅に出た勇者は、その旅の果てに希望をいだいていたのだろうか。今、一応勇者というものらしい自分は、まるで探検ごっこをしている子供のようだ。 傍らを見ると天使は、せわしなく辺りを見回し、そわそわとあちこちを歩きまわっている。 「どうした? 何かあるのか?」 シーヴァスが彼女にそう声をかけると、天使は彼の顔を見て何か伝えたそうな顔をし、それからある方向を指さしてそちらへと駆け出した。飛ぶかのように軽やかにふわりと、彼女は駆けていく。 「あ、おい!」 シーヴァスは、驚いて彼女を追いかける。だが、彼女の姿は道路を外れた林の中へ消えた。シーヴァスは白い彼女のドレスが見えたあたりへ見当をつけて、同様に道路を離れて林の中へ入る。彼女の姿は木々の間を抜けて見えつ隠れつしながら奥へと向かっていっていた。 たが、シーヴァスがそちらへ進むには下草が多く、急ぐことができない。軽く舌打ちをして、彼は下草を払いつつそちらへ向かった。いつもなら、ホコリひとつ落ちていないビルの最上階の部屋でのんびりとコーヒーでもすすっているころだろうに、まるでボーイスカウトのキャンプだ。シーヴァスは彼女の淡い栗色の髪が揺れる頭を見つけ、声をかけようとした。しかし、彼女の姿を見て息をのんだ。 彼女は数人の男に囲まれていた。手首を押さえ込まれ、木に押し付けられている。男たちはどう見てもまともな男には見えなかった。まるで、薬でつくったような筋肉、血走った目。 「これは、いい、上玉だな。 捧げ物にぴったりだろう。 あの方は好みがうるさいからな。」 男達は天使の顔に手をかけて上向かせ、ぎらぎらとした目でなめ回すように見ている。細い天使の首は野太い男の手に少しでも力が入れば折れてしまいそうだった。 「彼女を離せ!」 シーヴァスがそう言って男たちの前へ進むのと、彼女が男達の手をすり抜けて翼を広げ、天空へ舞い上がり淡い光りを放つのとほぼ同時だった。シーヴァスにはその光りは力が体中にみなぎるような心地良いものだったが、男たちはその光りに目がくらんだように、眼前を手で覆った。そして、シーヴァスの目を疑うことに、男たちの姿が徐々に変化してゆく。ただでさえも人間離れしていた彼らの筋肉が盛り上がり、服を破りその姿が異形に変化してゆく。口から漏れる声も、もはや人間らしいものとはいえず、低いまるで獣のようなうなり声だ。 「これは・・・・なんだ?」 シーヴァスは、あまりの事に呆然としていた。だが、相手はそんなことにかまうわけもなく、彼に向かって突進してくる。 「!!」 シーヴァスの体はふっとばされ、木の幹にしたたかに打ち付けられた。痛みが体を駆け抜ける。口の中を切ったらしく鉄の味が口の中に広がる。シーヴァスは舌打ちをして、やっと立ち上がると続いて襲いかかって来る男たちをかわして体勢を整える。大きな木を背にして立つと、シーヴァスは上目使いに天空に浮かぶ天使を見上げた。 天使は翼を広げ、両手を組み、祈るように目を閉じている。その姿は淡く光っていたが、一瞬一際明るく輝くと、シーヴァスは自分の体の痛みがひいていくのを感じた。これが天使の力か、とシーヴァスは内心思う。 しかし、そんな悠長なことを考えていた隙に、また人ならざる男たちが彼に向かって襲いかかってくる。シーヴァスは間一髪、その攻撃をさけると反撃を行おうとした。が、彼らに果たして有効な攻撃というものがあるのかどうか。シーヴァスは考える余裕もなく、ポケットに入れてあったままの、天使から預かった剣の柄を握りしめて、構えた。すると、天使が発しているのと同様の光が柄から伸び、剣を形づくった。 「・・・・・!」 これが、天界の武器というものなのか、とシーヴァスは驚く。まるで、SF映画でヒーローが使う武器のようではないか。しかし、とりあえず今はこれを試してみるしかあるまい、とシーヴァスは男たちに向かってその剣でもって立ち向かった。柄だけのときと同様、その剣は軽く、そして剣など使ったことのないシーヴァスの手に不思議と馴染んだ。シーヴァスは襲いくる男の胴をその剣でなぎ払う。空気を切り裂くような叫び声をあげて男は倒れる。地に倒れるとその男の体は土に還るかのようにボロボロと崩れ落ちていった。一瞬、男たちはひるんだような様子を見せたが、数で勝っていると思ったのだろう、シーヴァスに向かって一斉に突進してくる。目が慣れると男たちの動きは単調なものでしかなく、シーヴァスは彼等の攻撃をさけることができた。それでも、時にしたたかにうちつけられ、息ができなくなるほどに叩き付けられることもあったが、そのつど、天使から発せられる光がシーヴァスを癒した。 人ならざる者たちを倒した後、彼らの死体は何一つ残らずすべては土に還っていた。シーヴァスは木の根元に座り込む。さすがに、彼も疲れ切っていた。肉体的にも精神的にも。その傍らに天使が降りてくると、彼の額に手をあてた。体の疲れや疵が癒えていくのがわかった。 「・・・・君は、わかっていたんだな、奴らがここにいることが。 だから、私に君を追わせた。」 天使はすまなそうな顔をした。シーヴァスは地面に目を落とし、ため息をついた。 「・・・まあ、いいさ。 君は、怪我はないのか?」 男たちに囲まれていたことを思いだし、シーヴァスは彼女に向かっていう。天使は首を横に振った。 「そうか、無事ならまあ、いい。 ・・・・しかし、奴らはいったい、なんなんだ? これから君からもたらされる任務の相手はああいう奴らばかりなのか?」 天使はためらうような様子で、どう返事をしようか迷っているようだった。 「彼等は、人ではないのか?」 シーヴァスの問いに天使は首を横に振った。 「では、あれでも人だと言うのか?」 しかし、その問いにも天使は首を横に振る。その意味を考えてシーヴァスはしばし黙り込んだ。そして、静かに続けた。 「別に、だからといって君の依頼を断るつもりも、今更勇者を断るつもりもない。 |