City of Angel<5>








 天使というものに、自分が何を期待しているのか、あるいは期待などしていないのか。レイヴは自分の元に天使が現れるようになって以来、考えることが多くなった。
 おそらく、シーヴァスの話を聞いていなければ、自分は天使の勇者などという役割を引き受けることなどなかったに違いないと思う。ただ、シーヴァスが天使を語るときに感じられる高揚感が、ふとレイヴに、天使の勇者という役割に対する興味を植え付けた。
 あの一件以来、自分の中にくすぶり続ける罪悪感。天使の勇者となることで、贖罪のつもりだったかもしれない。天使が彼の罪悪感を救ってくれるかもしれないという期待もあったかもしれない。あるいは、天使でさえも自分を救うことができないというのなら、それでもいい。いっそ、あきらめもつく。ただ、澱のように自分の心によどんでいくこの罪の意識に、なんらかの決着をつけてほしかったのだろう。もはや、自分には救いはないのか。あるいは、赦されることがあるのか。
 しかし、レイヴのその思いとは裏腹に、天使はいまだ彼に救いも贖罪のチャンスも与えてはくれなかった。

 世界は破滅へむかっている。
 考えてみればそうかもしれない、とレイヴは思う。さして大きな事件はないとはいうものの、それが平和の表れであるとはいえない。とるに足らないと思われるような事件の頻発。けれど、そのとるに足らない事件も、かつてであれば十分に、大きな事件だと思われたことだろう。あまりに多発するがゆえに、今ではもう、とるに足らないものになってしまっただけだ。黄昏時に支配されたような空気が世界を覆っている。天使の言葉を勇者となった自分やシーヴァスでさえも聞くことができないのは、もはやこの世が神の国からあまりに遠くへきてしまったということなのかもしれない。
 そんな世界にただ一人、天から降りてきた天使は、あまりに儚げな女性だった。シーヴァスなどはおそらく、この世ではなく、彼女を守るための勇者のような気持ちになっているに違いない。彼は、もともと女性に甘い人間だ。
 おそらくは、勇者を引き受けた理由も、目的もあまりにレイヴとシーヴァスでは違うことだろう。それを気にするわけではなかったが、自分の理由は勇者にはふさわしくないもののような気がして後ろめたさがないわけでもなかった。いっそ、シーヴァスのように無邪気に勇者というものを楽しめれば良かっただろうに。  

 軍人としてのレイヴにその任務がまわってきたのは偶然だった。ヘブロンの東、ラダール湖の近くの演習地での訓練。そんな柄ではないと思いつつも、所詮は上層部の命令には逆らえないものだ。緑豊かで、地形の変化に富んだその地は、集団での作戦展開を実地で行うのに適しており、ラダール湖を含む広い土地一帯を訓練地として軍が所有していた。一方で、ラダール湖は、景観の良い、穏やかで自然の残された場所でもあり、演習中の兵たちがしばしの休息を楽しむこともあった。レイヴ自身は、今となってはそんな場所で自然を楽しむなどということはなかったが、かつて、自分も演習を受ける側だったころは、ラダール湖でしばしの休息を楽しんだものだった。そのころ、自分の側には今はもういない親友の姿があったものだ。その思い出があるがゆえに、ますます湖から足が遠のくのかもしれなかったが。

 湖で兵士がそれを目撃したのは、黄昏時だった。傾きかけた太陽に、暗くなる前に兵舎へ戻ろうと歩きだしたそのとき、水面が揺れた。最初は、魚がはねたのかと思った。しかし、再び水面を揺らしたそれは、魚というにはあまりにグロテスクで、あまりに巨大だった。その姿は、魚ではなく、ましてや動物ともいいがたいものだった。それは彼が今まで見たこともないものだった。全身がぬめぬめとした黒い鱗に覆われているそれは、巨大な蛇のようにも見えた。うねうねと長い身体をくねらせて水面を泳ぐ姿は、巨大な蛇という印象を与えた。その、頭さえなければ。彼を恐怖に陥れたのは、その生物が、人間と同じ頭をしていたことだった。いや、人の顔がそこにあったわけではない。だが、人を思わせる顔がそこにあったがゆえに、何よりも恐怖と嫌悪が彼をおそったのだ。真っ赤に光る瞳、まるで生きているかのようにうねる黒い髪、耳まで裂けた口から紅い舌が覗き、そして、鱗に包まれ黒光りした肌。
それは、彼を見たときに笑ったような気がした。そう、まるで、獲物を見つけたときのように。彼は、本能的に悟った。奴は、人間の敵だ。奴の目には、自分は餌なのだ。固まって動けなくなっている足を懸命に動かし、彼は後ずさる。早く、ここを離れるのだ。奴は、陸まではあがってこれないだろう。早く、兵舎へ戻るのだ。でないと、自分は殺される。やっと最初の一歩を踏み出すことができると、あとはもう無我夢中だった。後ろを振り返ることもなく、彼は走った。いや、振り返るのが恐ろしかった。もし、自分の後ろを追いかけてきていたら。立ち止まることもなく、彼は走り続けた。やっと兵舎にたどり着いたとき、彼は恐怖のあまりにしばらく言葉を発することさえできなかった。

 その報告を聞いたレイヴは、もちろん、最初は信じてはいなかった。ラダール湖に、未知の生物が生息しているなどと。おおかた、薄暗い中で何かを見間違えたに違いない。しかし、その話は、またたくまに兵士たちの間に広がり、ざわついた空気が演習地を覆ったのである。おおっぴらに言い出すものこそいないが、ある者はそれを確かめるべきだと言い、あるものは湖に近づくことをためらった。いずれにしても、放置しておくわけにもいかず、ラダール湖を探索することになったのだ。万一を考えて、レイヴも湖へ出向く。事態をさして重く見ていたわけではなかったので、今日の探索も、実地訓練の一環のようなものだった。しかし、例の兵士はけして湖に近づこうとはしなかったが。ボートを湖に出し、隊ごとに別れて各自の担当区域を探索する。レイヴは岸からそれを見守っていた。
 結局のところ、何も見つかるまい、と思ったそのとき、レイヴは耳に羽ばたきの音を聞いた。天使か? と彼が天を振り仰ごうとしたそのとき、湖に悲鳴と怒号が響いた。
「!!」
レイヴが見たその先に、ボートを襲うそれの姿があった。馬鹿な、あれはいったいなんなのだ?
レイヴはしかし、考えるより先に駆け出した。ボートを転覆させられた兵士たちは、我先を競って岸へと向かう。その後をそれは追いかけていた。その姿を見た他のボートも慌てて岸へと向かう。中にはボートの上から果敢に化け物へ向かって発砲するものもいたが、レイヴにはわかっていた。奴には、そんな武器は通用しまい。
「天使!!」
レイヴは自分の頭上にいるであろう天使に向かって声をかける。なぜ、もっと早くにこなかったのかと、彼女に対する苛立ちもあった。
「岸へ上がれ!」
やっと化け物と近い岸へたどり着いたレイヴは、湖を懸命に泳ぎくる兵士たちに声を振り絞る。化け物は、そのレイヴの声にこの中で、ただ一人、自分に対する恐怖を持ち合わせていない人間がいると気づいたかのようにゆっくりとレイヴの方を見た。赤く光る目は、憎悪と嘲笑に燃えているかのようだ。にやり、とその化け物の紅く裂けた口が歪むと、長い尾が大きく水面を叩いた。高々と飛沫があがり、波が揺れて、泳ぐ兵士たちを飲み込もうとする。悲鳴が響いた。それは、レイヴに対する挑発だったのだろう。醜い化け物とは思ったが、不思議にレイヴには恐怖は湧かなかった。
 レイヴの頭上で天使が祈りを捧げだし、その身体が白く輝き始める。レイヴは天使から預かった剣の柄を両手に握りしめた。天使が一際輝き、発光したかと思うと手の中の柄から光を帯びた剣が出現する。それを見た化け物の顔が、一際憎しみに歪む。それは、レイヴに向かって湖を突進してきた。頭上高くから自分めがけて襲い来るそれを飛びすさってかわし、剣で斬りつけた。わずかにかすったものの、それはレイヴの攻撃を避け、次の動きにレイヴが移る間もなく、今度は長い尾がレイヴを叩きつけようと打ち付けられる。横に転がって間一髪それを避けたものの、油断できなかった。起きあがろうとしたその瞬間、再び尾を打ち付けられて、レイヴはふっとぶ。したたかに地面に叩きつけられ、レイヴは呻いた。剣が手からこぼれ落ちる。その喉元めがけて長い尾が巻き付いてくる。
「ぐぅ・・・っ!!」
レイヴは懸命に首もとを締め付ける尾を外そうとしつつ、片方の手を落ちた剣にむかってのばす。指先が届きそうで届かない。息がつまり、今にも意識が遠のきそうになったそのとき、天使が輝いた。そのまばゆい光に驚いたのか、一瞬化け物がレイヴを締め付ける力が緩む。その隙をついて彼は剣を手にとると、自分ののどに絡まる尾に剣をつきたてた。 この世のものとも思えない忌まわしい叫び声をあげて化け物が剣のささった尾を振り回そうとする。レイヴは渾身の力をこめて、剣をさらに深くつきたて、その尾を切り離した。首元にからまる切れ端を振り払い、咳き込む。痛みにのたうつかのようにうねうねとうねる化け物の尾からは、青黒い液体が流れ出していた。レイヴの服も、その粘ついた液に汚されている。
 痛みのあまりに冷静さを欠いたのか化け物は低い叫びをあげながら、再びレイヴにむかって青黒い液体が吹き出す尾を打ち付けてくる。レイヴはそれを剣で横になぎ払って避ける。再び深く斬りつけられて、化け物は暴れた。他の兵士は、と思ったが、さすがに今のレイヴには周囲を見回す余裕まではない。
 唸り声をあげて真っ赤な口がレイヴめがけて襲い来る。どこまでも深く暗いその奥は、禍々しさに満ちた異世界の空間につながっているかのようだった。天使が輝きを増し、化け物の動きが鈍る。生臭く温い息を吐き出しているその口へ、レイヴは剣をつきたてた。深く、喉の奥にまで達するように、剣先を押し込む。そして、ぐいっと一回手首をひねると一気に引き抜き、返す剣で首もとを凪払った。
 身の毛がよだつような叫び声をあげて化け物は一瞬硬直したかのように動きを止める。青黒い液体が喉元と口から吹き出し、やがて、それはぼろぼろと崩れだした。レイヴは頭上から落ちてくるそれを避けて飛び退き、地面に落ちる化け物の残骸を見て驚く。それは、ただの土塊だった。呆然とその土塊を眺めながら、肩で息をするレイヴの手の中で、剣が消えていく。また、元のただの柄に戻ったそれをいまだ握りしめながら、レイヴはやっと周りを見回した。信じられないものを見るように動くことさえできずにいる兵士たちの向こう、木々の影に立つ人影を見て、レイヴは息を呑む。
 黒衣に包まれたその人物。銀色の髪と忘れることのないその姿。その人物は、レイヴを見ると、ニヤリと笑みを浮かべ、木々の間に姿を消した。
「・・・リーガル!!」
レイヴがその名を叫び、追いかけようとしたとき、天使の姿が再び輝いた。


それが天使の力だったのか、湖にいた兵士たちは、レイヴ以外全員が化け物の事を忘れていた。訓練中に、ボートが転覆する事故があり、けが人がでた。それだけのこととなってしまっていた。しかし、レイヴには、ラダール湖の化け物よりも、レイヴとその化け物の戦いを見ていたらしいあの人物が気にかかっていた。あれは、リーガルだったのではないか。
 雨が降る中、レイヴは軍人墓地のリーガルの墓の前に、傘もささずに立ちつくしていた。この墓の中に、リーガルの遺体はない。彼が死んだかどうかさえ、確認されたわけではない。ただ、あの作戦以降、リーガルは帰ってくることがなかった。そうして、彼が生き延びられたであろう確率は、あまりに少ない。しかし、湖にいた人物、あれはリーガルだった。彼は、生きていたのだろうか。しかし、それならなぜ、今まで帰ってこなかったのだろうか。
 彼がレイヴに向かって見せた笑いは、何を意味しているのか。彼と湖の化け物は関係があるのか。そして、レイヴが感じ取った、リーガルとおぼしき人物の自分に対する憎しみ。リーガルは、自分を憎んでいるのだろうか。しかし、それもいたしかたのないことだ。
「・・・リーガル・・・」
雨音に混じって、軽い羽ばたきの音が聞こえた。天使の気配を背後に感じたが、レイヴは振り向こうともせずに言った。
「帰れ」
しかし、天使が動く気配が感じられなかったので、レイヴは背後を振り向いた。紗のドレスを着ただけの天使が、レイヴをじっと見つめていた。淡い栗色の髪が雨に濡れて顔にはりついている。水滴を含んだ翼はいつもより少し重たげだった。
「帰れ、君に用はない」
しかし、天使は首を横に振った。雨の中立ちつくすレイヴを心配しているのだろうか、彼が動かなければ、自分も帰る気はないかのようだった。
「・・・勝手にしろ」
レイヴはそう言うと、再びリーガルの墓に向き直る。まるで意地の張り合いのようだ。レイヴは天使の存在を無視して雨の中その場に立っていた。天使は、あれが誰なのかを知っているのだろうか。知っているがゆえに、自分を心配しているのだろうか。ならば、あれはやはり、リーガルなのだろうか。
 彼は自分を憎み、その復讐のためにやってきたのだろうか。あの化け物も、本当は、自分のためにあの場所にいたのかもしれない。そう、かつて親友を見殺しにした自分を殺すために。レイヴは自分の手をぐっと握りしめ、唇を噛む。リーガル。憎まれて当然の事を自分はした。
 そっと、そのレイヴの手に触れるものがあった。レイヴが顔をあげると、心配そうに天使が彼の手に触れていた。まだ、側にいたのかと、レイヴは思う。いいかげん、あきらめて帰ったかと思っていたのに。レイヴの心配をするよりも、自分のことを考えたほうがいいだろうにと思うほどに、彼女も濡れていた。天使は風邪をひいたりすることはないのかもしれないが、冷たい雨に濡れたその姿は、頑なに天使を拒絶していたレイヴの胸を痛ませた。
「・・・・何でもない、大丈夫だ。
 君までびしょぬれにさせてすまなかった。もう、帰ろう」
レイヴはそう言うとリーガルの墓を離れ歩き出した。少しほっとした表情の天使が翼を広げて、2、3度羽ばたく。きらきらと雨粒が飛び散り、それから天使は空に舞い上がった。 そのまま、レイヴの頭上をゆっくりと飛ぶ。レイヴは一度だけ、リーガルの墓を振り向いた。
あれが、リーガルにせよ、そうでないにせよ、再び会うことがあるだろう。そのとき、自分はどうすればいいのか。その答えはまだ出せそうもなかった。


to be continued






なんか、ずっとどうしていいか困っていたというか、行き詰まっていたんですが
書き出してみたらなんとかまとまったです。今回はレイヴオンリー出ずっぱり。
しかも、なんかレイヴまで天使にむにゃむにゃ・・・・
まあ、でも、うちのレイヴってあんまし恋愛体質じゃないしな。。。
ということで、次はまたシーヴァスくんかな(笑)





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