教会などこの15年近く、行ったことなどなかった。神の存在など信じない。自分は信仰を捨てたと、そう思っていた。だが、神の方は自分を見放してはいなかったらしい。 その教会の扉の前で、シーヴァスはたっぷり30分以上は迷っていた。もう、とうの昔に二度とここへは来ることもあるまいと、そう思った場所。だが、天使との出会いが、彼をこの場所へと呼び戻した。白い石造りの教会の黒く重い扉の前で、シーヴァスはずいぶんと中に入ることをためらっていたが、やがて、心を決めたように深呼吸を一つすると、その取っ手をまわした。 古い扉が軋んだ音を立てながらゆっくりと開く。聖堂の中には誰もいなかった。中に入り、歩を進める。静かな聖堂内にシーヴァスの乾いた靴音が響いた。堅い木の長椅子、祭壇のステンドグラス、何もかもが最後にここを訪れた時とかわらぬままで。まるで、ここだけは時間の流れを止めてしまったかのようだった。 シーヴァスは、祭壇へは行かずに聖堂の壁面に飾られた一枚の絵の前へと進んだ。少し離れた場所からその絵を眺める。天井の灯りとりの窓からもれる柔らかな光の中で、その絵もまた、変わらぬままだった。ずっと、忘れていたと思っていたのに、目にした瞬間、鮮やかに思い出がよみがえる。ずきずきと胸が痛んだ。忘れたいと思ったのは、苦しさを紛らわすためだったろうか。今もなお、自分はこの絵と対峙するのに、こんなにも心が痛い。爪が食い込むほどに強く拳を握りしめ、それでもシーヴァスは、その絵を見つめていた。 聖堂の奥の扉が開く音がした。シーヴァスがそちらを振り向くと、一人の初老のシスターがこちらへやってくるところだった。シスターは、シーヴァスの姿を認め、しばらくまじまじと眺めていたが、やがて、驚いたような顔をして、彼の元へとやってきた。 「まさか、シーヴァス? シーヴァス・フォルクガング? まあ・・・もう、何年ぶりになるかしら。 また、戻ってきたのですね」 「・・・・お久しぶりです、シスターエレン・・・」 10数年ぶりに出会ったシスターは、少し年をとったとはいうものの、かつての面影を十分に残していた。 「すっかり、大きくなって。立派な青年になりましたね。 でも、あの頃の面影が今も残っているわ。 本当に・・・・元気にしていましたか?」 「おかげさまで・・・」 シーヴァスは言葉少なく答えた。心弱く幼かったあの日、最後にシスターと別れたときのことを、彼女は何も言わなかった。神に仕えるシスターの前で、シーヴァスは神の存在を信じないと否定した。神などこの世にいない。救いの手など訪れない。もし、神という存在が本当にいるとしても、きっともうこの世界のことなど、見放したのだ、と。 「シーヴァス、お祈りをしに来てくれたのですか?」 シスターはシーヴァスにそう語りかけた。しかし、シーヴァスは首を横に振った。 「いえ・・・この絵を・・・見たくなって」 さっきまでじっと見つめていたその絵を振り返る。シスターは、しかし、「そうですか」と優しく微笑んだ。長い間、神と教会から遠ざかっていたシーヴァスが、ここへ来たことだけでも良しと思っているのだろう。 「この絵は、あなたのお父様が描いたお母様とあなたの絵なのですもの。 いつでも、自由に見に来ていいのですよ。」 シスターは、そう言って絵を見つめるシーヴァスの傍らに立った。シーヴァスは、絵から視線を戻し、シスターに向き直って頭を下げた。 「・・・シスター。この絵を、売りにださずに長く置いてくださってありがとうございました。 私は、あなたにずいぶんと失礼な態度をとったというのに・・・」 「いいのですよ、シーヴァス。 あなたが、また教会へ来てくれて嬉しいですよ。この絵に会うためであっても」 シスターは、シーヴァスの手を取ってそう言った。 「・・・また、来ます。」 シーヴァスはそう言うと、もう一度シスターに向かって頭を下げ、その場を離れた。重い扉を開け、外に出る。扉を閉める前に、一度だけ聖堂を見回した。一瞬、祭壇の上に光を落とすステンドグラスの窓の縁に天使がいたような気がした。 紅蓮の炎に包まれた車。 涙と土にまみれた顔で、それを呆然とただ見つめるしかなかった自分。 愛おしい人の面影をもはやとどめない、まるでただの黒い物体のような焼けこげた両親の姿。 ウソだ、これは自分の両親ではない。そんなことがあるはずない。 心のどこかでそう自分が叫んでいる。 なのに、自分はただその場に立ちつくしたまま、何も言えず。 何度も夢を見た。 炎の記憶。燃える車の中から手を伸ばして何かを伝えようと叫んでいる母の姿。 恐ろしくて助けるために近づくこともできない自分。 『父さま! 母さま! 助けて、誰か助けて! 神様! お願いです、二人を助けてください!』 だが、誰も助けてなどくれない。悪夢から目が覚めても何もかわらない。 祈りが何の役に立つのか。どれほど懸命に祈っても、夢の中でさえ神は二人を救ってはくれなかった。神などいない。もし、神がいるというなら、どうして自分の両親はあんな死に方をしなくてはならなかったのだ。 シーヴァスは、教会から離れた。引き取られた祖父の家で求められるままに、優秀なフォルクガング家の後継者の型に自分をはめ込んだ。何の力も持たず両親を助けることもできなかった自分が嫌いだった。だが、フォルクガングの家で言うがままに、流されるがままに生きている自分もまた、嫌いだった。祖父は、自分のことを愛してなどいなかっただろう。溺愛した娘の子供というよりは、娘を不幸にした憎い男の息子として自分を見ていただろうと思う。優しい言葉をかけられた覚えもなく、幼いころの自分はいつも祖父の前では萎縮していた。10代になり、表面は従順な子供を装いながらも、奔放で自堕落な生活を一方で覚えた。表だって反抗できない自分のささやかな抵抗だったのかもしれない。子供だったのだ。 そんな自分にも、フォルクガングの家にも嫌気がさして軍に入った。紛争が起こったころで、前線に配置されれば命の保証もないといわれた。自分が死ぬことなどない、という自負と、所詮、死んだところでかまうものかという投げやりな気持ちが入り交じっていた。大事な後継者を戦死させてたまるか、と祖父は軍にいろいろと工作をしたらしい。それになおさら反抗して、自ら前線行きを望んだ。紛争が終わるころ、祖父の容態が悪いという知らせを受けた。帰るつもりなどなかったシーヴァスだが、帰還命令が出た。 結局、祖父の死に目には間に合わなかった。もはや、息をしていない祖父は、シーヴァスが戦場へ向かうときに見た姿よりもずいぶんと小さく感じられた。何の感慨もなくその姿を見下ろしていたシーヴァスだが、これがどういう意味かはわかっていた。 もはや、シーヴァスは逃れることができないということだ。フォルクガングの後継者として、その責務を果たすこと。しかし、シーヴァスにはわかっていた。所詮、二十歳を出たそこそこの若造を、幹部たちが相手になどするはずもない。大切なのは、シーヴァスの能力ではなく、フォルクガングの名前だ。自分は、このフォルクガングの名の下で飼い殺しにされていくのだ。 炎に包まれる車をシーヴァスは呆然と見つめていた。 もう、長く見ることのなかった悪夢。 炎の中から手を伸ばして、自分に何かを伝えようと叫んでいる母。 助けるんだ、もう、自分は力無い弱い子供ではない。 助けるのだ。 だが。足が動かない。その一歩を踏み出すことができない。 やがて母の姿も炎に包まれて見えなくなった。ただ、紅蓮の火柱がシーヴァスの頬を照らしていた。 まるで何も映していないかのような瞳で、シーヴァスは燃える炎を見つめていた。無力な自分に。死にゆく両親に。変えることのできない過去に、絶望が重なる。 そのとき、優しい手が彼を抱きしめた。 誰の手なのだろう。だが、自分はこの手を知っているとそう思った。 優しくて柔らかくて、温かい腕の中でシーヴァスは、泣いてもいいのだと、そう思った。そのとたん、彼の瞳からは涙があふれた。助けられなかった両親のために。自分を愛せなかった自分のために。分かり合うことができなかった祖父のために。 シーヴァスは、再び教会を訪れた。 父が描いた母と自分の絵の元へとシーヴァスは向かう。静かに絵と対峙した。 赤子を抱く天使の姿で描かれた母の姿。母は、あの時、炎の中で自分に何を叫んでいたのだろう。助けてくれ、と手を伸ばしていたのだろうか。自分を助けることのできなかった不甲斐ない息子のことを嘆いていただろうか。 しかし、どんな問いも、もはや母の元には届かない。 死んだ者は何も感じたりはしない。生き残った者だけが苦しみを引きずる。 かつてレイヴに言った言葉は、そのまま自分に向けた言葉でもあったのだ。 やわらかい羽音がシーヴァスの耳に届いた。ふっと、背後に温かな空気が感じられる。天使は、シーヴァスが何を見つめているのか気になったのだろう、彼と並んで立つと絵を眺めた。それから、これは何なのか?といいたげな顔でシーヴァスの顔を見上げる。 「私の父は貧乏な画家でね。 母とは身分違いの恋だったから、ずいぶんと祖父から憎まれていたよ。 この絵は、父が描いたもので、モデルは母だ。 両親の死後、主立った父の作品はすべて祖父が処分してしまったので この絵だけが私の知る限り、残された父の作品なのだ」 天使は、その話を聞いて絵画の中に描かれている赤子を指さした。それから、シーヴァスの方を見て目をくるくると動かす。 「ああ。それは私らしい。 自分の妻子を聖母子になぞらえて描くとは、私の父も大それた人間だな。」 相手が天使なので、シーヴァスは少しおどけたようにそう言った。まだ、この絵を見ると胸が痛むが、それを彼女に知られたくなかった。天使は、そのシーヴァスの言葉に首を横に振ると、にこりと笑いかけた。そして、とても優しい瞳で絵を見つめた。シーヴァスもつられてもう一度、絵を眺める。彼女の瞳が、その絵に何を感じ取っているのか知りたかった。 そうして、今まで自分がその絵から感じ取ることができなかったものをシーヴァスは初めて感じた。それは、父の自分と母に対する愛情だった。長い間、この絵はシーヴァスにとって、辛い思い出を呼び起こすものでしかなかった。だが、父がこの絵に込めた思いはそんなものとは違う。違うのだ。はじめて、絵に込められた父の思いを受け取った気がした。 天使が自分の顔を少し心配そうな顔をしてのぞき込んでいたので、自分がずいぶんと情けない顔をしてずっと絵を見ていたのだとシーヴァスは気づいて苦笑した。彼は絵の側を離れると祭壇を正面に臨む椅子に腰掛けた。そして、天使にも座るように促す。天使は少し遠慮がちに、彼の隣に腰を下ろした。 シーヴァスは、祭壇の上に色鮮やかな光を落とすステンドグラスを見るともなしに見ながら、話した。 「もう、長い間、私は教会を訪れることはなかった。 神の存在をずっと、否定していたんだ。 私の両親は事故で私が8才のころ死んだ。 目の前で車が燃え上がり、両親を炎が飲み込んで行く様を見ていたよ。 無力な自分にも、理不尽な死を両親に強いた神にも、怒りが湧いた。 なぜ、私の両親はあんな死に方をしなくてはならなかったのだ? その疑問は今も胸の奥にくすぶっている。 ・・・だからといって、君に答えてほしいというわけではないから、それは安心してくれていい。 ただ、私は君に出会って気づいたのだ。 神の存在を否定して、救いの手などないと思いこんできたけれど 本当は私はどこかで信じたかった。神の存在も、この世に救いがあることも。 両親の人生にも、がんじがらめの私の人生にも、何かの意味があることを信じたかったのだ。」 静かな聖堂の中に、淡々と語るシーヴァスの声が低く響いた。天使はただ、黙ってシーヴァスの顔をじっと見つめたまま、彼の言葉を聞いていた。 だが、シーヴァスは、そこで言葉を切ったまま、後を続けようとはしなかった。天使は、そっとそんなシーヴァスの手に触れた。その優しい感触に、シーヴァスは天使の顔を見つめる。彼の顔を見て、天使は頷くと静かに微笑んだ。シーヴァスは、顔を見られまいとするかのように彼女の肩に顔を埋めた。泣いている訳ではない。涙など流してはいない。だが、きっと、自分はやはり、泣いているのだ。 天使の優しい手が彼を抱きしめた。その手の優しさを知っていると、シーヴァスは思った。 明くる日、もう一度シーヴァスは、教会を訪れた。 静かな教会の聖堂の中を、今日はまっすぐに祭壇に向かって歩いていく。 「シーヴァス? まあ、よく来ましたね」 シスターエレンが祭壇の前に立っていた。シーヴァスは一礼をする。 「絵を見に来たのですか?」 「いえ・・・・お祈りをするために・・・」 シーヴァスは、少し言いにくそうにではあったが、そう言った。シスターは少し驚いたような顔をしたが、やがて優しく笑い、頷いた。 「そう、シーヴァス。それはいいことです。 神と向き合うことは、自分自身と向き合うことでもあるのですよ。 後でまた来ますから、ゆっくりしていきなさい。」 シスターは、シーヴァスの邪魔とならないようにと思ったのか、奥の扉から聖堂を出ていった。シーヴァスは、祭壇の天使の像の前で静かに跪く。 この祈りは、神に捧げるものではないのかもしれない。天使の像を見上げてシーヴァスは思った。それからそんな自らの思いに苦笑すると、彼は静かに手を組み、祈りを捧げだしたのだった。 天使の羽音は、まだ聞こえない。 to be continued |