サルファでの出来事の後、結局「死者の軍団」は、たった一人の男の妄想の産物であったという結論が出された。それ以外に何の説明付けもできなかったからだ。ラダールの訓練所が受けた攻撃の被害も、一人の侵入者を多勢と勘違いして自ら被害を広げたというわけだ。けれどレイヴは知っている。そんなものではないということを。死者の軍団は蘇る。死者を蘇らせる存在があるのだという。それが何かはわからないが、何度となく見かけた黒衣の青年もまた、関わっているのだろう。 あの青年は・・・・ 機能的にまとめられて無駄なものが何一つないレイヴのフラット。仕事柄、あちこちの基地へ出向く事も多く、さしてここでくつろぐ事が多いわけでもない。食事も、通りへ出て簡素なレストランで軽く済ますことも多く、生活感があるとはいえない。コンクリートがむき出しになった壁は寒々しい印象だが、外界と遮断された雰囲気がレイヴにとっては落ち着いた。 サルファから戻り、歯切れの悪い報告書をまとめるとレイヴは自宅に戻ってきたのだった。軍に籍を置く自分と、勇者としての自分と、折り合いをつけるのはなかなか苦労すると苦笑する。勇者である自分は、死者の軍団が人ならざるものであると信じることができるが、それを軍に報告することはできない。ただ、苦しい言い訳に見えなくもなくとも、なんとかそれらしい説明を代わりにつけることができるのが救いではあった。 サルファで敵に受けた傷は、天使の姿こそ見えなかったものの、彼女と同質の力によって癒されていた。だが、完全にというわけではないらしく、身体の節々が痛み、疲れが残っているのが感じられた。 身体に残る怠さをはらうように、狭い洗面所で顔を洗う。調節すれば湯も出るらしいが使ったことはない。冷たい水が神経を引き締めてくれるのが好きなのだ。上着を脱いで脱衣籠に放り込む。一人暮らしももう、慣れたものだ。ふと、鏡に映った自分の上半身をレイヴは眺めた。軍隊暮らしが長く、鍛えられた体は浅黒く引き締まっている。だが、その身体に残った傷跡。脇腹をえぐるように引きつったその傷は、銃弾を受けた傷跡だ。幸いにも命を落とすことはなかったが、この傷はレイヴにいつも自分の弱さを突きつける。もう、完治して痛みもないはずなのに、ときどき灼けた鉄でえぐられたような痛みが蘇るのだ。 苦い顔をして傷を見つめるレイヴの耳に、最近は聞き慣れた羽音が聞こえてきた。天使がやってきたらしい。レイヴが振り向くと、ちょうど彼女が床に足を降ろすところだった。天使は、レイヴの姿を見て少し驚いたらしく、どうしていいかわからないような顔をしていた。そうして振り向いたレイヴの脇腹の傷に気づいたのだろう、その顔が痛々しげなものになる。 「すまんな、他人に見せるようなものではない」 レイヴは苦笑すると、新しいシャツに袖を通した。天使が何か聞きたげな顔で彼の顔を見るので、レイヴは洗面所を出ながらわざと何でもないことを語るかのように答えた。 「なに、昔の傷だ。国境紛争の折りにな。さすがに最前線ともなると、無傷というわけにはいかないらしい。」 居間に戻ってソファに腰を下ろしたレイヴを、天使はやはり何か言いたげな顔で見つめている。 「で、今日は何の用だ?」 レイヴがそんな天使の様子を無視してそう続けると、天使は彼に向かって深く頭を下げた。そうして、いつものように祈るように手を組み合わせると、白い光が彼女を包み込む。その光がレイヴを照らし、身体の中にまで沁みいるような感覚とともに、先ほどまでの疲れや痛みがなくなっていくのを感じた。 「サルファでのダメージを癒してくれるためか、すまんな。 歯切れの悪い終わり方だったが、あれで良かったのか?」 天使は、少し顔を曇らせたものの、レイヴのその言葉に頷いた。その様子から見て、天使も死者の軍団というものが、あれで終わりではないことを感じてはいるらしかった。 「あの男・・・・君は見ていないんだな、サルファで、死者の軍団の首謀者を倒したあと、一人の男がいた。顔は見えなかったが、こちらを見ていた。 おそらくは、死者の軍団にも、そして、ラダール湖でのことにも関わっていると思う。 ・・・・そして、俺は、その男を・・・知っているような気がする・・・」 口に出して言ったことで、レイヴがずっと胸に抱いていた疑いは確信に変わったような気がした。天使は先を促すように黙ってレイヴを見ている。 「・・・さっきの銃創は、国境紛争でついたと言ったな。 あの傷は、俺が友を見捨てた証でもある。 俺には、ずっと親友と呼べる男がいた。互いに認め合い、競い合うライバルだった。 紛争のときも、同じ部隊に所属していて・・やつが隊長を務めていた。 ともに競い合うと言ったが、俺は何一つとっても、やつに勝ったことはなかった。 天性の勘と判断力、決断力、仲間を思う心。軍人としてありあまる資質を奴はもっていた。」 レイヴはしばらく、黙り込んだ。そう語るだけでも、あのころのことがまざまざと蘇る。胸に詰まる思い出。ともに笑い、怒り、語り合い、どんな戦線も二人一緒で、どちらかが欠けることなどないと思っていた。 「だが、最大の戦闘が展開された日・・・敵の包囲を受けて俺たちは孤立していた。 その包囲網をくぐれば、背後につくこともできる、逆転のチャンスがある。 そう言ったのは、俺だった。そして、それを受けて作戦を考えたのは奴だ。 囮が必要となるその作戦で、奴は自分が残って囮になるとそう言った。 俺は、言い出したのは俺なのだから、自分が残ると言った。 だが、奴は、「生き残る確率が高い人間が残るほうがいいだろう? お前よりは俺のほうが優秀だぞ?」笑ってそう言った。 俺が他の仲間を率いて包囲を抜けようとしていたとき、奴が残ったあたりで 戦闘が始まった音がした。そして、さっきまで俺たちがいた場所に 大きな音とともに、火柱が立った。 俺は、奴を助けるために、戻ろうかと思った。だが、戻らなかった。 自分が戻ったら、他の仲間はどうなる? 奴ほどの人間なら、きっと大丈夫なんじゃないか? そんな身勝手な理屈が俺の中にあって、戻らないことを正当化させていた。 大義名分をかざしてみても、俺は結局死にに戻るのがイヤだっただけだ。 その罰だったんだろうな、包囲を抜けるときに銃弾を受けた。それがさっきの傷跡だ。 だが、俺は命をとりとめ、形勢逆転のきっかけを作った作戦を成功させたとして 昇進することになった。 俺が受けた栄誉も賞賛も、本来はすべて奴が受けるべきものの筈だった。 だが、戦闘が終わっても、紛争自体が集結しても、結局奴は戻ってこなかった。 遺体も見つからなかった。 俺は、結局、奴を見殺しにしたうえに、奴が受けるべき栄誉まで奪った簒奪者だ。 ・・・・サルファで出会った男は、奴だと思う・・・・リーガル・・・俺の親友だった男だ」 シーヴァスは一人、自宅のベッドに身体を投げ出して、天井を見上げていた。 天使にもらった守護の印をつけている腕を上げて、まじまじと見つめてみる。彼女は、どんな思いでこの印を選んでくれたのだろう。まさか、彼女が作ったりはしないのだろうな。思うことはそんな他愛もないことばかりで。 しばらく姿を見せない天使に、なんとなくおもしろくない気持ちもあったが、それよりなにより、自分が彼女のことをずっと考えていることが不思議だった。 淡い栗色の髪、菫色に輝く瞳、白くなめらかな肌、しなやかな身体。およそ、天使の美しさとは、人の美しさを越えるものであるのは当然だろう。しかし、彼女は人の子の乙女と変わらぬ姿をしていて、翼さえなければ、まったくに人と変わらないようで。あまりに人の乙女に近く、なのに、あまりに遠く。 彼女が姿を現さないということは、とりあえず大きな事件はないということで、歓迎すべきことなんじゃないだろうかと、自分に言い聞かせる。 レイヴにむかって「彼女を裏切るな」と言ったとき、自分でも驚いた。 勇者という任務に対して、さして乗り気でもなかった自分が、どうして天使をかばうような事を言うのか。その理由を考えようとすると、変にいらいらして胸が痛む。その理由を自分は知っているのかもしれないが、明確な言葉にすることははばかられるような気がして、深く考えないようにしていた。 つけっぱなしにしたラジオからは、スローテンポなバラードが流れている。たまにはこういう音楽も悪くはないのかもしれないなどと思いながら、シーヴァスは目を閉じた。このところ、悪い夢は見ない。天使の守護の効果はてきめんというところか。 目を閉じたシーヴァスの耳に、優しい聞き慣れた、待ちわびた音が響いた。聞き違いかもしれない、目をあけても何もないかもしれない。シーヴァスはわざと目を閉じたままでいた。本当はわかっている。彼女が来たのだ。やわらかく暖かな空気を感じる。目を閉じたままのシーヴァスの額に、彼女の手が触れるのが感じられた。そこで、やっとシーヴァスは目を開ける。 「・・・ひさしぶりの訪問だと思ったら、こんな時間とは、君もよくよく忙しいとみえる」 天使は、シーヴァスの憎まれ口に一瞬目を見開いて驚いたような顔をし、それから笑った。あまりに優しすぎて、胸に詰まる微笑み。まぶしそうに目を細めてシーヴァスは彼女の顔を見つめる。 「今日は何だ? また、何か事件でも?」 シーヴァスは身体を起こすと足を床につけ、ベッドに腰掛けた形になって天使を見上げる。天使はシーヴァスの正面に立って彼の顔を見つめていたが、彼の問いには首を横に振った。にこりと微笑んで、シーヴァスの隣に腰掛ける。そして、彼の手を取ると、夜会の折りに渡したブレスレットを確かめるようにまじまじと見つめた。そうして、シーヴァスの顔を見上げる。 「ずいぶんと効果があるようだな、おかげでもう、悪い夢は見ない。」 シーヴァスがそう言うと、彼女はほっとしたような顔で笑った。わざわざそれを確かめに来たのかと、シーヴァスは天使の律儀さに苦笑する。そんなシーヴァスを、天使は不思議そうな顔をした。 天使と勇者の関係は、思っていたような「主従」のようなものではなかった。彼女はいつもシーヴァスに事を依頼するときはどこか心配そうなすまなさげな表情をしていたし、かえって彼が「気にするな」と何度となく言わねばならないくらいだった。彼女は自分の言葉をシーヴァスが聞き取ることができないと知っていて、そのかわりに、彼の話をとても熱心に聞いてくれた。ただ、黙って側にいてくれるだけで、今まで誰にも語ろうと思わなかったことをつい話してしまう自分がいた。神の御使いたる天使に対して自分が持っていたイメージは、彼女にはまったくあてはまらなかった。 「君は、不思議だな。」 呟くように、天使を見つめてそう言うシーヴァスを、天使はやっぱり不思議そうに見返す。 「翼は確かに君が天使であるということを示しているけれど、無邪気なしぐさも、その姿も、神の御使いたる天使の神々しさではなくて、人の乙女の柔らかさに満ちている。 天使とは、いったい何なのだろうと、君を見ていると考えてしまう」 天使は、その言葉を自分が天使失格だと言われたかのように感じたのだろう、恥じ入ったような顔をして頬を染めると、ばっと立ち上がった。シーヴァスは、そんな天使の手首を掴むと引き寄せる。もう一度彼女を自分の隣に座らせようとしたのだが、引き寄せる力が強すぎて、天使はシーヴァスの腕の中に倒れこんでしまった。少し甘い花のような香りがシーヴァスの鼻孔をくすぐる。天使は慌てて身体を起こそうとし、シーヴァスもそのつもりで一瞬彼女を引き寄せる力を緩めたのだが、ふいに強く彼女を抱き締めた。天使は驚いて彼の腕の中で身体を固くしたが、やがて、その力がふっと抜けていくのがわかった。 「・・・君のこの身体も、まるで人と変わらないな、この背の翼さえなければ、人とまったく変わらないのに。 ・・・教えてくれ、天使も恋をするものなのか? 人と同じように誰かを愛するということはあるのか?」 天使の耳もとでシーヴァスが囁く。ゆっくりと彼女を抱き締めたまま、シーヴァスは上体をベッドに倒した。スプリングの軋む音がして、天使の身体が柔らかなベッドに沈む。彼女の手首を押さえたまま、シーヴァスはただじっと彼女を上から見下ろしていた。天使は、驚いたような顔をして彼を見つめ返していたが、その表情には怖れも怒りもなく、本当にただ驚きだけがあった。 「教えてくれ、天使も人を恋することがあるのか? もし・・・・もし、私が君に恋をしていると言ったら・・・それは、許されるんだろうか? 君を・・・天使としてではなく、君を一人の女性として見ていると言ったら・・」 シーヴァスのその囁きは、天使の耳にはどう響いているのだろう、それさえもわからなかった。ただ、彼女を自分の腕の中におさめたとき、シーヴァスは自分が天使をどう思っているのか自覚したのだ。彼女をこのまま離したくないと、そう思う自分に気付いたのだ。 天使は、シーヴァスの問いに答えることもなく、しかし彼に押さえ込まれて抵抗するわけでもなく、ただじっと彼の顔を見つめていた。彼女にこんな顔で見つめられるとは、自分は今どんな表情をしているのだろうと、シーヴァスは思った。きっと、情けない顔をしているのだろう。天使の唇が微かに動く。 「・・・・?」 何度も繰り替えされるその動きをシーヴァスは読み取ろうとし、そして、彼女が自分の名を呼んでいるのだと気付いてふいに自分のしていることを激しく後悔した。彼の押さえ付ける腕が弛んだのを受けて、天使はするりと腕を彼の手から抜くと、そっとシーヴァスの頬に触れた。それは優しく、気づかうような仕種で、シーヴァスはそれが辛かった。 「それは、天使の慈愛なのか? もし、私が君に触れたいと言えばそれさえも、君は許すのか?」 それは、ふいに彼の中で沸き上がった天使に対する怒りにもにた衝動だった。彼はもう一度天使の腕を取りきつく押さえ付ける。そのとき、初めて天使の瞳が揺れた。シーヴァスはゆっくりと天使に覆いかぶさる。それでも、天使は彼の腕の下で逃げようとはしなかった。柔らかいに違いない天使の唇に触れようとしたその一瞬、シーヴァスは動きを止めると、ばっと身体を起こして、立ち上がった。足早にベッドを離れると、天使に背を向けて壁に向かって立つ。 「・・・・冗談だ、天使を口説くとどんな反応をするか、試してみようと思ったんだが、ついつい乗りすぎた。 君ときたら、本当に、何もわかっていないんだな。 男に押さえ込まれたら、抵抗するくらいしたまえ、どうなっても知らないぞ」 我ながら苦しい言い訳だと思い、情けない言い種だと思った。背後の天使がどんな顔をして、どうしているか、それを振り向いて見ることが出来なかった。ただ、彼女が自分に近付いてくる気配だけは感じられた。せいぜい明るく聞こえるように、気を取り直してシーヴァスは言う。 「・・・悪いが、おやすみのキスをしてやることはできない。 もう、帰ってくれないか?」 しばらくの沈黙の後、天使の気配が部屋から消えた。やっと、シーヴァスは、部屋の中を振り向く。天使の姿はもうなかった。 「・・・ふっ! 馬鹿馬鹿しい、なんてざまだ!」 シーヴァスはそう呟くと、その場に座り込む。本気だった。天使を傷つけたかった。彼女が泣いたら、叫んだら、逃げようとしたら。どんなことをしても自分のものにしたかもしれない。だが、彼女はそれでもなおシーヴァスを包み込もうと優しくて、それがシーヴァスには、彼女が『天使』なのだと思い知らされた気がした。彼女が自分の名を呼ぶ声を聞きたかった。 「・・・・我ながら、女々しいな」 いっそ、気付かなければ、気付かないふりを続けていられれば楽だったろうに。自嘲気味に笑うとシーヴァスは拳で床を叩いた。こんな思いを抱えたままで、それでこの先天使の勇者という務めを果たしていくことができるのだろうか。・・・果たしてみせる。彼女の側にあるためならば。何もないふりをして、勇者として彼女の尽くしていける。 シーヴァスにとって幸か不幸か、このしばらくの後、彼はそんなことを考える余裕もない出来事に遭遇し、勇者として、そして人として、友人のために闘うこととなる。 to be continued |