旅から戻ったと聞いたのは、人づてだった。だいたいからして、元々さして付き合いがあるわけではない。10年来、ほとんど顔を合わせたこともない。1年に数回、顔を合わせるかどうかというところだ。だいたいからして、どうしてこんなにヤツのことに苛立つのか、考えたくもない。 だが、今日は間が悪かった。 たまに、散歩でもしようとするとこれだ。 カームは足元を見下ろしてため息をついた。自分の足元で、惰眠をむさぼっているように見えるかつての友を見下ろした。 やっと木の芽が芽吹き出したというものの、陽の当たらない場所はまだ肌寒いというのに、相変わらずの半そでで、木の下で眠っている。少し痩せたかもしれない、と、その投げ出された腕を見て思う。どうせ、旅の間、ろくなものなど食べていなかったんだろう。 自分はこの男をどう思っているのかと、思う。10年前は友だちだった。今は、よくわからない。彼の生き方は、自分にはわからない。理解できないというより、理解したくないのかもしれない。無駄と徒労との積み重ねにしか見えない。 だが、とカームは思う。だが、そういう彼を否定しきれないのもわかっている。 つま先で、ちょっと剥き出しの腕をつついてみるが、起きる気配はない。体力だけは有り余っていると思っていたが、見れば多少疲れた顔をしているかもしれない。 「バカ、起きろ」 別に本当に起きて欲しいわけではないし、目を覚まされたらそれはそれでちょっと面倒かもしれないと思っていたりもする。むにゃむにゃと言いながらごろりと寝返りをうった男に、苛立ちが募る。 その苛立ちについ、カームは男の傍らにしゃがむと何やらごそごそと作業をして、立ち上がり、その場を去った。 しばらくの後、昼寝をしていたイーリスは目を覚ました。 起き上がって大きく伸びをする。 「ふわわ・・・あったこうなってくると、やはし眠とうなるのう〜」 のそのそと起き上がり、木の幹を背にしてぼんやり空を見上げる。霞がかかったように薄い色の空はもうすぐ咲く花の色を運んできているようだった。花が咲くのは好きだ。でも、今年くらい花が咲くのを楽しみにしていたことはないような気がする。 何がというわけではないけれど、花が咲けば皆で集まって花見にでも出かけるだろう。それはきっと随分と楽しいことに違いない。楽しいことがあれば、いい。・・・誰にとって? 答えは明確に言葉にせずに、空を見上げていた視線を地面に落とす。ごしごしと顔を腕でこすって、そして、腕が黒くなったのに気付く。 「?」 イーリスはもう一度顔をごしごしと擦った。擦った腕が黒くなった。どうやら、顔が汚れていたらしい。そんなに顔に土がついていただろうかと、汚れた腕を見るがどうもそれは土汚れではないらしい。そう、インクの汚れのようであった。腑に落ちない顔をして汚れた腕を見ていたイーリスだったが、まあ、いいか、と思って空を見上げた。 汚れても、汚れていなくても、自分の顔だし。そう、思った。汚れても、汚れていなくても、自分の心だし。汚れても汚れていなくても、大切なものは変わらない。それがどんな形をしていても、それがどんな色に変わっても、それがどこにあっても、誰のものでも。本当に大切なものなら、そんなことは問題にならない。 旅に出て、思い出したのは大切な人の、大切な人たちのことだった。 捨てることのできないものが増えるということは、大切に思うものが増えるということは、ひどく胸に痛い。生きることも死ぬことも、もう、以前ほど容易いものではなくなったということだからだ。だが、それは同時に、心地よい痛みでもある。多分。 たとえば、そうやって得たものを失うことがあったとしても、それはマイナスにはならない。0から差し引かれるわけではないからだ。そう、今までに別れてきた多くの人たちが、今はもう自分の傍らにはいない人たちが、それでも何かを残しているように。 そこまで考えて、じっと自分の手のひらを見詰める。本当にこの手の中には、何かが残っているのだろうか。そう自分に問いかけ、そして答える。残っている。残っているとも。 嘘は墓場までつきとおせ。 そういわれたことがあった。一人で生きていくつもりなら、嘘は墓場まで持っていけ、と。 自分自身につき通す嘘でさえも。 だから、墓場まで言いつづける。この手の中には何かが残されている。目に見えなくても、残っている。何かを失う痛みでさえも、最初から何も与えられなかったことを思えば心地良いもののはずだ。 まだ、自分は先へと進むことができる。 そう、言いつづける。 イーリスはもう一度大きく伸びをすると、再びごろりと横になった。 汚れた顔もそのままに。ただ、残念だったのは、自分の顔に誰が、何を書いたのか、それがわからなかったことだ。顔を擦る前に、水でも飲みにいけばよかった。そうしたら、何が書いてあったかわかっただろうに、と思う。だが、それはそれで、わからないままのことがあるほうが、楽しい気もするのだ。 そう思うと、もう一度、目を閉じた。 自分にしては随分と大人気ないことをしてしまった。 カームは足早に男がまだ寝ているであろう木の下へと急いだ。案の定、男はまだ寝転んでいたが、顔はインクの汚れに黒くなっていた。腕を見ると、やはり汚れている。 「・・・・こすったな・・」 低く呟く。しかし、つまりはまあ、気付かなかったということで、読まれなかったということだ。それだけは少しほっとする。だが、顔の汚れもそのままに、そんなこと大したことでもないかのようにまた眠っている眼下の男に、悔しさが募る。なんでもないことのように、平気な顔をするな。 そう思う。 自分は知っている。知ってしまったから、だからこの男に苛立つ。無駄と徒労を積み重ね、一体、お前に何が残る。何も残らない。それでもいいとか、そんなことはなんでもないとか、平気な顔をして言うな。そういう偽善者顔が嫌いだ。 そして、偽善者なのではなく、本当にそう思い込もうとしているお前がもっと嫌いだ。そんなこと、思えもしないのに、平気でもないのに、そう思い込もうとしているお前が嫌いだ。 しばらく、そのままじっと、眠る男を見下ろしている。 「お前はバカだ」 そう告げるが、もちろん、起きる気配はない。誰もこの男に言ってやらないから、自分が言うのだ。 「お前はバカだ。大バカだ。悔しかったら、違うと証拠でも見せてみろ」 旅に出た理由は知らないが、どうせバカな理由に違いない。やっぱり少し痩せたように見える腕に、もう一度告げる。 「お前はバカだ」 そうしてカームは再び男の傍らにしゃがみこみ、何かをすると、立ち上がった。本当は汚した顔を拭っておこうかと思ってきたのだが、もう、何が書いてあったかわからないくらい擦られていた上に、何の動揺もなく眠り込まれていたのが腹立たしくそれはやめたのである。そうして、もう一度眠る男を一瞥して、思い切り倣岸そうに鼻をならすとその場を離れた。 「ふわわ。。。。二度寝をしてしもうたー」 イーリスは起き上がって大きく伸びをした。顔を洗わないといけないんだったなあ、とふと思い出し、汚れた腕を見る。 「お!」 何時の間にか、自分のその手には、天界の果実が握られていた。いくら自分でも眠っている間に木の実をもぎ取ることはできまいから、誰かが握らせてくれたものに違いない。 「にゃはは、なんしか、不思議なこともあるもんじゃなあ」 特にこれもまた疑問にも思わぬように、その果実を一口、かじる。 「うむ、美味じゃな〜」 そして、ふと、思いついたように考えてじっとその手の中の果実を見る。 こうやって、手の中に残るものは、ある。誰かが与えてくれるものがきっとある。失うものがあっても、また、その中から得るものもあるのだと。そうして、どこか安心したかのように頬に緩やかな笑みを宿すと、その果実をまた、一口、かじった。 END |