久しぶりに天界に戻ってきたイーリスは、広場を抜けて大天使たちのみが立ち入ることを許された庭園の奥に潜り込んだ。子どもの頃からの隠れ場所だ。身体が大きくなった昨今では多少出入りするのに苦労もするが、静かで穏やかで優しく、誰も訪れることのないこの庭園は気に入りの場所だった。ここへの立ち入りが許可されている大天使たちはそもそもの任務が忙しくて、この庭園まで訪れることが少ないのだ。 「せっかくの庭っちゅうても、誰も見る人がおらぬではもったいないがよねえ」 そんなことを呟きつつ天界の見渡せる少し小高い岩の上に座り込む。風が頬を撫でて行き、空を見上げると雲が早い速度で流れて行くのが見えた。この前にこの場所に来たのは何時のことだったかと考える。インフォス任務に就く前だっただろうか。あのころから随分と長い時間が経ってしまったような気がする。 「ここは、大天使以外は立ち入りが禁止されているはずだが」 不意に声をかけられてイーリスは驚いた。驚いた余りに岩から落ちそうになり、慌てて腕で身体を支える。見下ろすとその場にミカエルが立ち、こちらを見上げていた。よりによって大天使の中でもミカエルに見つかるとは、と苦笑してイーリスはその場に立ち上がる。 「見つかってしもうたがよ、すみませんですのう」 頭を掻いて岩から飛び降りる。特に言い訳はしなかった。 「……お前は、確か以前もこの庭園に入っていたな。そして、禁断の実を口にしただろう」 特に怒る様子もなく、ミカエルは淡々とそう話しかけてくる。イーリスはといえばそう言われて風に揺れる庭園の木々を見つめた。 「あー。そういえば、腹が減っておったさけ、ちくと頂戴しました」 「あれは、大天使に就任する際に自分を試すために口にするものだ。知っていたのか?」 まさか、と言うようにイーリスは首をぶんぶんと横に振る。実際、あのとき、空腹だったから手近にあった実に手を伸ばしただけで特に意味はなかった。 「では、あの実を口にした者の半数は堕天使となったということも知らなかったか?」 今度はイーリスは頷いた。するとミカエルは珍しく片頬に薄い笑みを浮かべた。その笑みが何を意味するのかイーリスはいつも計りかねて困る。誰であれそうであろうが、この天界でミカエルの心の内を見透かすことができる者はいないだろう。 「お前が任務から堕天せずにここへ戻ってこれたのは幸いであったな」 そう言ったミカエルに、ふと思い立ったようにイーリスは尋ねた。 「ミカエル様は、これまでに後悔したことはないですろうか」 唐突な問いにミカエルはイーリスを見返す。俯き加減に地面を見つめるイーリスの顔は、大きな図体と精悍な青年の顔と裏腹にどこか少年のような表情に見えた。 「たとえ大天使たる者であれ、一切の後悔なしに生きる者はいないと思うが」 自分がどうかということは答えずにミカエルはそう言った。 「わしは、後悔することばかり増えていきゆうです。思うように上手く行かぬことばかり増えていきゆうがです」 「それは、お前の食べた実とは無関係のことであろうよ」 「にゃはは、いや、そういうこととは違いますけ」 頭をかいてイーリスは少し困ったような顔をして笑った。そしてしばらく言葉を言いよどんでいたが、思い切ったように言った。 「失恋してしもうたがです。いや、わし、似合わんことしてしもうたさけ」 無理に笑おうとして失敗したように、なおさら痛い顔になってイーリスは空を見上げた。だいたい、こんな話は大天使に向かってするような話ではない。 「天使らしからぬ話題だな」 ミカエルの返事もにべもない。 「まっことです」 「だが、私はお前には『天使らしからぬ』ことを経験して欲しいと思っている。 故に、それもまあ良かろうと言おう」 そのミカエルの期待は薄々とはイーリスも感じていたのだが、多分、面と向かって言われたのは初めてだった。何のための期待なのかはわからないが、単にミカエルは異端の天使が何を為すものか面白がっているだけなのかもしれない。 「にゃはは、まっこと、天使らしからぬ経験ですろう。 まるで月明かりも星もない夜の海で溺れるようなもんですけ。 ただ真っ暗で、足掻いても足掻いても、ただ飲み込まれていくだけでしたさけ。 欲しかったものが何だったか、もうわからぬですけんど、何かを失うてしもうたことはなんとのうわかります。 胸のこのあたりが、冷えてもう温まらんです。暗くて黒い穴が空いて、そこをわしは覗くことができんがです」 何かとても静かにそう言うイーリスに、ミカエルは特に何も言わずに耳を傾けていた。天使に恋愛が法度というわけではない、現に勇者に恋をして翼を捨てて地上へ降りた天使もいる。ただ、それであっても珍しいとはいえた。本来、天使は激しい感情とは無縁なものだからだ。 「思うに、ミカエル様。そうした暗くて黒いものに飲み込まれてしもうた者が、きっと堕天使になるんと違うですろうか」 左胸を拳で押さえてイーリスがそう言った。 黒くて暗い穴、そこには浅ましく醜い思いに囚われた自分がいる。苦しい苦しいと云い続ける自分がいる。 「ミカエル様、もし、わしがその穴に飲み込まれそうになったら、わしのことを消してください」 静かにイーリスはそう言って、ミカエルを驚かせた。ミカエルが驚いた様子に、イーリスは少しだけ可笑しそうに笑った。 「ガブリエル様や、わしの友だちは優しいさけ、きっとそねいなこと頼んでも断られてしまうき」 それはミカエルは冷たいということなのかと、言えなくもないが、ミカエルはもう一瞬の驚きなどなかったかのように、ただ言った。 「お前は、堕天使にはならない。己の抱える闇を知る者は闇に負けることはない。 そしてまた、光を抱える者も同じく。お前は自分の抱える闇を知り、光を抱えている。故に堕天使とはならない」 その言葉を聞いているのかいないのか、イーリスは眩しそうに目を細めて雲の行く末を見やった。美しい世界、美しい風景、美しくて、どこか寂しい。一人で居た頃よりも、その人に恋をした後の方がずっと孤独になった。それでも、美しいものは美しく、孤独の中で求めるものも変わらない。 「……もう、長いこれからの人生でお互いの時間が重なることはないとわかっているんじゃけんど まんだ、その人が愛しいと想うがです。 そう想う毎に、胸が少し温まって、それから苦しゅうもなり、暗い穴も深くなるがです。 ややこしいですのう。自分でどうにもならんさけ、まっこと手に負えんがです」 「誰もお前からその想いを奪うことはできない。想い続けることは誰にも止められない。 その想いは永遠にお前のものだ、苦しむ必要はない」 思いもよらず優しい言葉に、イーリスは不思議そうにミカエルを見つめた。 「ミカエル様も、失恋したりしたことあるがですか?」 そのような質問をミカエルに向かってした怖いものしらずな者は、いまだかつて居なかったであろう。もちろん、ミカエルはその問いに答えることはなかった。だが、イーリスも特に明確な返答を求めていたわけでもなかった。 「もう、行きますけ。ミカエル様、ここに入ったことはちくと大目に見てもらえんじゃろうか。 ガブリエル様にはちくと、ヒミツにお願いするがよ」 図々しくも拝むようにそう言うイーリスにミカエルは「私を共犯にしようというのか」と苦笑する。 「まあ、いいだろう。ただし、この貸しは何時か返してもらう」 「にゃはは、ええっちゃ。体力仕事じゃったら、お任せなのじゃ」 大天使に向かってとは思えないほど軽く、イーリスは手をひらひらと振って、翼を広げ庭園から舞い上がった。その姿を見送ったミカエルは、もちろん、体力仕事などで貸しを返してもらうつもりなどしてはいなかった。いつか、あの天使は何かの役に立つだろう。今はまだ、何者となるかすらもわからないが。 「たまには息抜きもしてみるものだな」 少しだけ面白げに唇に笑みを浮かべ、ミカエルは異端の天使の飛び去った空を見上げた。 END |