天界の上級天使たちが集まる神殿の奥で、大天使たちが茶会を開いていた。 年若い天使たちを導き、アルスアカデミアを監督する立場でもあるガブリエルの僅かな溜息に、レミエルが顔をあげる。 「ガブリエルさま、どうかなさったのですか?」 「・・・また、彼が地上へ降りてしまったのです」 溜息をついてそう答えるガブリエルに、レミエルが「彼」とは誰のことかと首をかしげる。そのとき、それを間近で聞いていた天使軍団の長、ミカエルが静かに言った。 「そういえば、アルスアカデミアの反省室を初めて使った天使がいるらしいな」 どこか怜悧な印象を与えるこの大天使は、幼い天使たちにとってはガブリエルと異なり近寄りがたい存在でもある。ガブリエルはそのミカエルの言葉に頷くと 「そう、その反省室を初めて使った天使が、また、地上へ降りてしまったのです」 と告げた。天使はみだりに地上に降りることを許されるものではない。もちろん、地上に降りたところで、力の行使は特別の場合を除いて禁忌とされている。ところが。現在アルスアカデミアに学ぶ幼い天使の中に、その禁を破る者がいた。人の前に姿を現すわけではなく、天使の姿を見せるわけでもなく、力を行使することもないが、だからといってそれを許すわけにはいかなかった。地上を守護する任を負った天使のみが降りることを許されるのだから。そこで、禁を破った罰として、初めて反省室が使われることとあいなったのであるが。その天使はまっったく懲りていないらしく、また、地上へ向かったのだという。 「本当に・・・地上のいったい何が彼をそんなに引きつけてやまないというのでしょう」 溜息混じりに言うガブリエルの口調には、幼い天使を心配する響きが多分に含まれ。レミエルもまた、そんなガブリエルの様子を見て、心を痛めたような顔をした。しかし、ミカエルだけは、少し様子が異なった。 「・・・おもしろいな」 意外なその言葉にガブリエルとレミエルがミカエルの顔を見つめる。あまり表情の動かないミカエルのこと、言葉と裏腹にさして面白そうな顔をしているわけではなかったが、ガブリエルはそれでもミカエルが本当におもしろがっているのがわかった。 「珍しいですね、ミカエルがそんなふうに言うなんて」 「そうか? どのような天使に育つか、興味深いとラファエルあたりも言うだろうさ」 どこか暢気とも受け取れるミカエルの言葉にガブリエルは溜息をついて答えた。 「その前に、地上に惹かれた彼が翼をなくすようなことがないように祈りますわ」 ユリスの森は、実り豊かな森で、村人たちは森の恵みを大切に暮らしていた。 「ちょっと!! 居候! 早く起きなさいよ!」 森番の娘のクレアは、布団に潜り込んでいぎたなく寝込んでいる少年をベッドから蹴り落とした。夜があける前からやらねばならない仕事は山ほどある。居候をのんびり寝かせておく暇などない。 「た〜! いたた・・・あ〜、クレア、おはようさんじゃ♪ なあん? もう朝かよ〜」 ちっとも悪びれずにぼさぼさの黒髪に手をつっこんで頭をかきながら少年はクレアにむかってそう言った。 「そうよ、朝なの、朝。ただ飯食わせる余裕はないんだからね。 水を汲んできて、森で薪を拾ってきて、粉屋のエンゾさんとこで小麦粉わけてもらってきて。 でないと朝食食べさせないわよ」 まくしたてるクレアに、少年は勢いよく立ち上がると 「お〜! 任しとき! すぐに行ってくるな♪」 と寝起きとは思えない素早さで部屋を駆け出していった。クレアは呆れたような溜息をついてその後ろ姿を見送る。・・・本当に、変わった子。 クレアの父親の森番のルドルフが、森で少年を拾ってきたのは数日前のことだった。なんでも、森の木に上って降りれなくなっていたのか、枝にぶらさがっていたらしい。空腹を訴えた少年をルドルフは家に連れ帰ってきたのだった。どこから来たかといえば、遠くの町といい、どこへ行くかと問えば、知らない町、と答える。どこかの家出息子か毎年の流行病で親を亡くした子か、事情のある様子に、ルドルフはしばらく家に滞在するようにと勧めたのだった。クレアは、たとえまだ幼さの残る少年だとしても、よそ者を家に入れるのは反対だった。ルドルフは、人が良すぎるとそう思っている。だが、この家の主は父親であるルドルフであり、その彼が決めたことはどう言ったところで覆すことはできない。 クレアは小さく溜息をついた。毎年、この国を襲う流行病は、多くの死者を出す。それゆえに、この村に限らず、この国の村や町の者たちはよそ者が入ってくることを極端に警戒する。その者が流行病の元を持っていないとも限らないからだ。少年といえども、よそ者はよそ者、クレアはそれを心配していたのだ。もちろん、ルドルフの身体も心配だが、よそ者を村にとどめたということで、村の者たちからルドルフが白い目で見られることも心配だった。一応、彼は遠くへ嫁いだルドルフの妹の息子、ということにはなっているが、それでも快く思わない村人もいるだろう。 『この村の人間は、よそ者を快く思わないわ。 行くところがあるなら、早く村を出たほうがいいわよ』 そう、クレアは少年に言ったことがある。だが、彼は、少し困ったような顔で頭を掻くと 『う〜む、けんど・・・この季節が終わるまでは、ここを動きとうないんよ〜』 と答えたのだった。その言葉の意味をはかりかねているクレアであったけれども、その言葉には何か含むところがあるような気がして、それがまた不安なのだった。 「おお〜!! クレア、小麦粉もろうてきて、水汲んできて、薪ひろうてきたっちゃ〜!」 考え込んでいたクレアの耳に、元気な声が届く。背中に薪を背負い、右手に水桶を持ち、左手に粉袋を抱えた少年が、それだけの大荷物というのに、さして重くもなさげに戸口に立っていた。その屈託のない笑顔は、クレアでさえも彼を悪く思うことがためらわれるほどで。苦笑すると、クレアは少年に言った。 「小麦粉はそこにおろして置いて。薪は窯にくべて、火をつけて。 水はそれだけじゃ足りないわ、水瓶がいっぱいになるだけ汲んでおいて」 おお〜、と少年は言われた通りに小麦粉と薪を置くと、水を汲みにまた外へと出ていった。クレアはその後ろ姿を見送りながら、もう一度迷うように溜息をつき、朝食を作りにかかったのだった。 天界ではガブリエルが、遠見の鏡を用いて地上に降りた天使の行方を探していた。 どの地上界へ降りたかさえわからず、その探索は困難に思えたが、天使が地上に降りれば、多少なりとも地上に影響が出るはずで、その兆候を探せばいいのであった。ミカエル配下の地上守護の任にあたっている天使たちにも、委細もらさず地上の様子を報告するように伝えてある。 ガブリエルが心配しているのは、いまだ幼いその天使が地上の気によって、天使たるべき清浄の気を汚されることであった。アカデミアを卒業するころには、天使の持つ気は地上の気に影響を受けないほどに強くなっているが、いまだ幼いかの天使では、それも難しいように思えた。天使は地上界で物理的な傷を負うことはないが、清浄なる気を汚されればそれなりの影響も受ける。それを、知らないはずもないものを、とガブリエルは溜息をついた。 「ねえ、父さん、いつまであの子を家に置いておくつもり?」 クレアは、少年が眠ってしまった後、居間でくつろぐルドルフに紅茶を入れながらそう問うた。 「彼が出ていきたいと言うまでだな」 なんでもないように、そうルドルフが答える。節くれ立った大きな手が紅茶の入ったコップを持つと、コップがまるでままごとのおもちゃのように見えた。大きなその手が、クレアは好きだった。流行病で早くに母を亡くしたクレアを、一人で育ててくれた大きな手。 「村の人、いい顔しないわ」 遠慮がちにそう言うクレアに、ルドルフはコップを置いて言う。 「クレア、流行病は恐ろしいものだが、そのせいで人を信じられんのは悲しいことだ。 彼は、よく働いてくれるし、まっすぐないい子だ。 お前はそれなのに、あの少年を追い出せと言うのかね?」 クレアは黙り込んだ。ルドルフの言うこともわかる。たしかに、彼は悪い少年ではないように思える。しかし、やはり、どこか普通でないようにも思えるのだ。それが、不安に思える。だが、ルドルフがそう言う以上、もうクレアには何も言うことがなかった。この季節が終わるまで、と少年は言った。ならば、もうしばらくが過ぎれば、彼もこの土地を離れることになるだろう、それまでの我慢なのだ。どこか不安に思いながらも、それでもあの少年を嫌うことができない自分にも、クレアは気づいていた。 クレアもルドルフも寝静まった真夜中、それまで鼾をかいてよく眠っていたはずの少年が急に静かになり、むくり、とベッドの上に起きあがった。しばらく、聞き耳を立て物音がしないか確かめていたようだが、みな眠ってしまったようだと感じると、静かに起きあがる。窓辺に近づいて、音を立てないようにそっと窓を開け、外へ抜け出した。 月の光が道を照らしている。毎朝水を汲みにいっている川へ、彼は向かった。心なしか、足取りが重い。川縁についた彼は、水に手を差し入れる。水の冷たさと清らかさを確かめていたような彼は、おもむろに服を脱ぎ、川の水に入っていった。身を清めるように静かに身体を水に浸していく。一度、頭上まで水中に潜った彼は、頭をあげて、ぷるぷると水滴を飛ばす。月を見上げ、両手を広げたそのとき、同時に彼の背中に白い翼が広げられた。ばさばさ、と二、三度翼を震わせた彼は、少し心配そうに自分の翼を見つめる。今の羽ばたきで、彼の翼から羽が舞い散っていた。 「・・・あかんかなあ・・・」 そう呟いた彼は、少し考え込むように羽の散った水面を見つめていたが、やがて、もう一度、羽ばたきを繰り返してから翼をしまった。あたりに、彼の羽が舞い散ったが、それを拾うこともなく、彼は水から上がると来たときと同じように静かに帰って行った。 明くる日の朝、洗濯をしに出かけたクレアは、少年の服がその中にないことに気づいた。そういえば、ここ数日彼のものを洗っていない。ああ見えて、遠慮しているのだろうか、と思ったクレアは、ちょうど家の外に出て薪を運んでいる少年の姿を認めて声をかけた。 「ねえ、ちょっと!」 その声に気づいた少年がクレアの方を向き、笑いながら手を振る。 「ちょっと、いらっしゃいよ!」 そう声をかけると、少年は訝しげな顔をしながらも川辺を降りてきた。 「なあん? どうかした? クレア」 「服、脱いで」 そう言うクレアに、少年は面食らった顔をした。 「え? なん?」 「ほら、服、脱いで。洗濯できないでしょ!」 言うなり、クレアは少年の上着に手をかける。 「あ、ええっちゃ、クレア、これは・・・・!」 少年が慌ててそれを押さえようとするのにも構わずクレアは 「うるさいわね! 汗くさい服でうろちょろされたら迷惑なのよ。 人が洗ってやるって言ってるんだから、おとなしく、しなさいよ!」 そう言って、少年の上着をはぎ取る。服の下から現れた、思ったよりも逞しい少年の身体に、ちょっと驚いたクレアだったが、それよりもっと驚いたのは、少年の背中だった。 「ちょっと!! あんた、それ・・・・!!」 少年の背中、肩胛骨のあたりが一面、赤く爛れていたのだ。びくっとした少年が背中を隠すように、クレアから身を離す。 「な、なあん?」 驚いたようにそう言う少年にクレアは詰め寄る。 「背中、見せてみなさいよ!!」 もしや、彼は流行病にかかっているのでは? 一抹の不安と恐怖がクレアを襲う。震える手で少年の肩を掴み、おそるおそる、背中を向けさせた。だが、クレアが少年の背中に見たものは・・・・普通の、綺麗な、傷一つない背中だった。さっき、確かに、背中は爛れていると見えたのに。黙ったまま立ちつくすクレアに、大きく息を吐いた少年が声をかける。 「どうか、したん? クレア・・・」 「・・・・・なんでも、ないわ」 クレアは少年の身体から離れると、はぎ取った上着を持って、川辺に向かう。黙ってそれを水に浸し、洗い出す。 「・・・・クレア・・・」 おそるおそる、という様子で少年がクレアに声をかける。 クレアは答えなかった。何故か、泣いてしまいそうだった。訳が、わからなかった。 「なんでもないって言ってるでしょ・・・!」 きつく、そう少年に言った。 「けんど・・・・」 とまどうように少年がそう続ける。クレアは立ち上がると、水浸しの少年の上着を彼に投げつけた。びしゃっという音がして、少年の顔にまともに服がぶつかる。 「な、なあん・・・?」 顔にかかった濡れた服をびっくりした表情で取った少年は、続いて重い衝撃とともに自分の身体にぶつかってきたものを受け止めて、尚更驚いた。 それは、クレアだった。 「・・・・く、クレア・・???」 クレアは答えなかった。とまどいを隠せない少年は、どうしたものかと迷っているようだったが、自分の胸に顔を埋めたクレアが、泣いているらしいと感じ取ると、黙って濡れた服を頭からかぶったまま、その場で大人しく立っていた。 クレアは、自分が何故泣いているのか、不思議だった。少年が流行病かと思ったさっきの一瞬、とても恐ろしかった。それは、彼がもしそうなら自分やルドルフに及ぶ危険を感じてだけのことではなく。この少年が死ぬかもしれないとそう思った、その恐ろしさだった。だが、それが間違いであって、良かったはずなのに。それでも。あれは見間違いなんかじゃなかった。やっぱり、この少年には、何かあるのだ。それが、不安で悲しい。彼を信じられないことが、悲しい。この気持ちはどこから来るのだろう。クレアにはそれが不思議だった。 自分より年下のこの少年が、実は自分とそう変わらないくらいに背が高く、女である自分よりも逞しいのだと、クレアはそのとき、初めて気が付いたのだった。 つづく |