その日、ガブリエルはミカエル配下の地上守護天使から一つの報告を聞いた。 毎年、流行病に冒される地域の中で、周囲の村や街が病に悩まされているというのに、まるでそこだけ別世界のように、誰も発病していない村がある、というものだ。それが天使の持つ清浄の気のせいであると、そのときガブリエルは直感した。悪しき病に満たされた地上界に幼い天使がとどまり、なおかつ自らの清浄の気で周囲に結界を張っているとなれば、その力も限界に近いものであろう。急がねばならない。異例のことながら、ガブリエルは自らその場を目指すことにしたのであった。 目を覚ますと、もう夜が明けかけていた。あれ以来、クレアは少年に朝の仕事を言いつけたりしなくなってしまった。ベッドに起きあがった少年は、困ったような、とまどったような顔をして頭をぽりぽりと掻いた。のろのろとベッドを降りて、窓から外を見る。クレアが川へ水を汲みに降りていくのが見えた。 ・・・なあんか、悪いこと、したやろか・・・ 口もあまりきいてもらえない。う〜ん、と腕を組んでしばらく考えこんでいた少年は、しかし、所詮は考えるよりも行動した方が早いと思い立ったのか、顔をあげて部屋を駈け出ていった。そうして、家の外へ出て水を運ぶクレアの元へ急ぐ。 「クレア〜! それ、僕がするき〜」 有無を言わさず、桶をクレアから奪い取る。 「ち、ちょっと・・・!」 「力仕事なあ、任せとき〜!」 相変わらずの笑顔に、クレアの顔がちょっと赤くなる。何か言ってくれるかと思っていた少年は、クレアがそのまま顔を伏せてしまって、黙って横を通り過ぎていくのに驚いてしまった。家へ戻る後ろ姿を見送って、ちょっと寂しそうにしばらくその場に立ちつくす。手にもった水桶をじーっと見つめていたが、やがて、2,3度頷くと、元気に川へ降りていった。とにかく、水汲みを一生懸命しよう、とそんなところかもしれない。クレアは何か怒っているみたいだけど、ちゃんと仕事をしたら許してくれるだろう。 だが、もちろん、少年は考え違いをしていた。クレアは別に怒っていたわけではない。この前のこともあって、照れくさかったのだ。そのあたりがわからない少年は、クレアの顔色をうかがいつつ過ごし、クレアは少年を避けて過ごす。なんともすっきりしない日が続いた。 二人の様子がなんとなくぎごちないと気づいたのか、ある朝、ルドルフは少年に向かって声をかけた。 「今日は、わしと一緒に森へいかんか?」 ぐりぐりと少年の黒髪を掻き回してルドルフはそう笑った。少年は、その申し出に嬉しそうに答える。 「おお! ええのん? 行く行く〜♪ 楽しそうや〜!」 父と楽しげに出かけていく少年を、クレアは小さく溜息をつきつつも苦笑して見送った。 まあ、いいか・・・。 そんな気持ちになった。ルドルフは少年をかわいがっていたし、少年もあんなに嬉しそうに楽しそうにしている。もし、このまま、何事もなかったら・・・このままで良かったら、ずっと彼がこの家にいたって、いいかもしれない。不安に思っていたけれど、少年が来てから何か悪いことが起こったわけでもない。村も今年は流行病に襲われることなく平穏だ。このまま、あの少年と家族になっても、いいかもしれない。 そんなふうに、思った。きっと、森から戻ってきた少年には今までと違って素直になれるだろう。そんな気がした。 森に入ったルドルフと少年は、奥へ向かって歩いていた。 「この森は、村の人々が豊かに生きるための財産でもあるし、近隣の村から入ってくるものを堰き止める関所のようなものでもある。この森を通り抜けないと、村に入れないからな。 流行病のせいで、よそ者に敏感になってしまった村人にとっては、この森が村を守っていてくれるようなものなんだ。」 そうして、特に病の広がる季節にはこの森を見回り、旅人が村に入らないようにしているのだという。 「けんど・・・そうじゃったら、僕のこと、おっちゃん連れて帰ったらいかんかったんとちがう?」 少年はルドルフを見上げてそう問いかける。確かに、本来ならこの季節に村によそ者を入れるべきではない。 「はっはっは、そんなことは、子供が気にすることじゃない。 確かに、流行病は恐ろしいが・・・そのために病でもない飢えた子供を 森に置き去りにはできないさ」 ぐりぐり、とまた頭を掻き回されて、少年はくすぐったそうな嬉しそうな顔をして首を竦めた。 ときおり、珍しげに下草を見たり、茸を指さしたりする少年に、ルドルフは森のことをいろいろと教えながら歩いていた。鳥の声を聞いては鳥の名を尋ね、花を見つけては花の名を尋ねる。覚えはいいようだが、あまりに何もかも知りたがる少年に、ルドルフは苦笑を禁じ得なかった。 「なあ、あれは・・・」 少年がやはり、奥の草むらを指し示したそのとき、がさがさ、とその草むらが揺れた。おどろいたような少年がそちらを振り向く。ルドルフにも緊張が走った。だが、その草むらから出てきたのは、一頭の犬だった。まだ成犬になりきってはいないような小さい犬だったが、空腹なのか足下がおぼつかない様子で、気が立っているのか小さいなりにも牙を剥き出してうなり声をあげている。ほっとしたようなルドルフが、犬に手を出そうとするのを、少年が止めた。 「いかんちゃ! あの犬、病気かもしれんさけ・・・!」 あまりに真剣な顔の少年に、ルドルフは少し驚いたがそれでも笑って答えた。 「病気なら、なおさら助けてやらなくちゃいけないだろう」 「けんど・・・!」 ルドルフが犬に向かって歩を進めようとしたとき、少年がその前を遮った。 「僕がやるけえ・・・おっちゃんはここにおって!」 その剣幕に圧されてルドルフはその場に立ち止まり、少年が犬に近づいていくのを見送った。あれほどルドルフが犬に近づくことを怖れた少年はしかし、犬に対して恐怖を抱いている様子もなく、ただ普通に犬に近づいていった。そうして、しゃがみ込むと、犬に向かって手を差し出す。 その背中を見守っていたルドルフには、犬がどうなったか見えなかった。やがて、立ち上がった少年がこちらへ向き直ったとき、その腕の中には先ほどの犬がいた。だが、その口は少年の腕に深く噛みついていたのである。 「おい・・!! 大丈夫か」 ルドルフが駆け寄って手を差し出すのに、少年はルドルフの手から犬を守るように身体をよじる。 「僕は、大丈夫やけ、おっちゃんは犬に触っちゃいかん!」 その強い声に一旦は引きかけたルドルフだったが、そうも言っていられない。確かに、目も虚ろで噛みついたまま腕を離そうとせず、涎を垂れ流しているこの犬は普通とは思えなかったが、それなら尚更のことだ。 「少し、待ってろ」 ルドルフはそう言い置くと、草むらの奥へ薬草を探しに入っていった。消毒と血止めにきく草がこの辺りに生えていたはずだ。 ルドルフは、慌てて薬草の葉をむしり取ると元の場所へ急いだ。草むらから出るとき、少年に声をかけようとしたルドルフは、犬から解放された少年が、最早立つこともかなわないのか地に倒れた犬を見下ろしているその様子に声をかけるのをためらわれた。 少年の表情は、犬の死を見送る哀しみでも、犬の牙に傷つけられた怒りでもなく、迷いを表していた。その小さな犬を前にして、自分はどうすべきか、を迷う顔だった。 ルドルフは静かに少年の元へ歩いていくと声をかけた。 「・・・・その犬を殺しちゃいかんよ」 はっとしたように少年は顔を上げた。その瞳に驚きの色が宿る。 「な、なあん・・・・」 少年が何か言おうとするのを遮って、ルドルフは犬に噛まれた少年の腕をとる。腕に穴は開いていたが、血はもう止まったのか流れていなかった。少し訝しく思ったものの、ルドルフはその傷に薬草を揉んで張り付けると、布を裂いて巻き付けた。 「おっちゃん、僕は大丈夫やけ・・・」 少年は口ごもるようにそう言う。ルドルフはその肩をぽんぽん、と軽く叩くとしゃがみこんで犬の様子を見た。 「おっちゃん・・・」 慌てて少年も座り込み、ルドルフを見上げる。 「なあ、この犬は確かに病気かもしれんが・・・まだ生きようとがんばっているだろう? 生きようと懸命にしているものの命を奪ってはいかん。どんな理由があろうと。 むしろ、生きようともがいているものであれば、その助けになってやらねばならん」 そう言って、ルドルフはもう一つの薬草を取りだした。手近な石でその葉を潰し、丸めて犬の口に入れようとする。 「それが、人間というものだ。」 その一言は、ルドルフがまるで自分に言い聞かせて居る言葉のようでもあった。病を怖れて人を遠ざける村。だが、本当にそれでいいのかはわからない。もし、この病んだ犬が人であったなら。もし、人だったなら、自分は同じことをこの少年に言っただろうか。その矛盾を心に孕みつつも、しかし、今、この少年にはそう言ってやらねばならないと、そうルドルフは思ったのだった。 ぼんやりとそんな思いに囚われていたせいか、ルドルフは犬の動きを一瞬見逃した。犬の口元へ潰した薬草を丸めたものを運んだそのとき、それまでぐったりとしていた犬が勢いよく身体をもたげ、ルドルフの腕に噛みついてきたのだ。 激痛が腕に走ったが、それより少年の叫びが耳に痛かった。 「・・・おっちゃん・・!!!」 あまりに悲痛な声に、ルドルフの方が苦笑を漏らす。 「大丈夫だ、こう見えても犬に噛まれるなんざ、慣れたものだ。そんな顔をするもんじゃない」 ゆっくり、ルドルフはもう一方の手で犬の上顎を捕らえると口を開けさせる。だらりとそのまま犬の顎はたれさがり、ルドルフは腕を抜いた。 「おっちゃん・・!」 あまりに心配そうな顔をしているので、大丈夫だ、と手を振る。 「なんて顔をしてるんだ? 大丈夫だ。お前だってさっき、噛まれていただろう」 「ぼくは・・・僕はええのんよ、僕は大丈夫なんや・・」 ルドルフは落ちてしまった薬草をもう一度犬の口へ運んでやる。だが、もはや、犬にはその力さえも残っていないようだった。 「人でも動物でも、生き死には決められたことで、誰にも何にもどうすることもできん。 たとえ、それが神様の御使いの方であろうとも、どうすることもできんものだ。 それでも、生きていられるうちは、生きられるように助けてやらんと・・・ 自分ができることをしてやらんと、後で自分が後悔することになる」 やはり、自分に言い聞かせるようにルドルフはそう言った。だが、少年はただ、頷いた。ルドルフが自分の傷にも薬草を塗りつけると、少年がその腕に包帯代わりの布を巻き付けた。犬は、やがて動かなくなってしまい、静かに息を引き取った。 ルドルフと少年は犬のために穴を掘り、その身体を埋めてやった。 その夜。 少年はまた家を抜け出して川へと急いだ。最近は頻繁に夜中にここを訪れている。 いつものように、少年は服を脱ぐと川の水に身体を浸す。背中まで水が及んだとき、少年は少しばかり顔をしかめた。 「・・・・沁みる・・・」 少年の背中は一面真っ赤に爛れていた。そう、かつてクレアが目にしたように。いや、それよりなおひどくなっていたようだった。 「・・・あかんかなあ・・・もう少しなんや・・・もう少し・・」 ルドルフの事を考えると気分が重くなった。上手くいかなかったかもしれない。自分にまだ力が残っていたら、大丈夫だったかもしれなかったのに。頭の上まで水に潜って、息を吐き出す。この川の流れは清らかだったから、少しではあったけれど、自分の中に淀んだ悪い気を清めることもできた。だが、それでももうそろそろ限界かもしれなかった。背中はもしかしたらもう、幻惑してもごまかせないかもしれない。そういう目眩ましの術さえかける力があとどれくらい残っているかよくわからない。 それでも。耳にルドルフの声が響く。 『自分にできることをしてやらんと、後悔することになる』 身体を冷やすように、水にじっと浸かっていると、少し楽になるような気がした。もうすぐ、流行病の季節も終わる。そうしたら、もう、大丈夫だ。 こうすることに、何の意味があるのかわからない。今年はよくても、来年にはやはりこの村は病にさらされることになるかもしれない。それでも、今、この季節にここに居合わせてしまったのだから。ルドルフに助けてもらったのだから。 ・・・僕はなあんも、しておらんもん。ただ、この村に居るだけや〜。 ただ、ここにいるだけ。力を使っているわけでもなんでもない。自分の天使としての清浄なる気が村を守っているけれど、別にそれは意識してそうしているわけじゃなくて。ここにいるからそうなっているだけで。だから、これは不可抗力で。別に地上に介入してるわけじゃないし。 そんなことを考えている。 ・・・ガブリエルさま、怒っておるやろな〜・・・ にゃはは〜、と少年は苦笑する。自分でも、なぜこんな風に地上へ惹かれるのかわからない。でも、言えることは、ガブリエルが心配するように、人間になりたいとか地上へ降りて生きたいとかそういうことではない、ということだった。この、変化してゆく世界。生きていく人。その全てが自分を魅了するけれど、それは、自分もその場に骨を埋めたいということではなくて。 ふう、と息を吐いて空を見上げる。 天使であることは気に入っているし、天使だからこそできることがある、それを誇りに思っている。 じんじんと背中が沁みていたが、それもちょっと慣れてきて、少し楽になってきた。 でも、たぶん、自分は地上の世界と人を見ているのが好きなのだ。 ふと、気づいて昼間、あの犬に噛まれた腕を持ち上げて傷を見てみる。天使は物理的な傷を地上で負うことはない。だから、あのときも血も出なかったし、痛くもなかった。 今はもう、穴はふさがっているし、痕も残っていない。 ・・・う〜ん、けんど・・・やはし、しばらくは〜包帯巻いておかんといかんよなあ クレアの顔を思い浮かべてそう考える。クレアは、とても感受性が高い。ほんの少しの違和感も見逃さないだろう。怒られたりするのは平気だったけれど、泣かれたり、反応がなかったりするとどうしていいかわからない。あまり彼女を不安にさせちゃいけない、また泣いたりされたら、困る。 そんなことを考えていた。 背中はまだ痛むが、そろそろ戻らないと夜明けも近い。少年は最後に、自分の翼を広げた。 ばさっと軽く羽ばたきをすると、羽がばらばらと抜け落ちていった。風に乗って、羽が空に舞い上がる。 「・・・・・・」 もう少しの間やけ、もうちょっとない、保ってくれなあ・・・ 口の中でそう呟いて、少年は翼をしまうと、家へ戻っていった。 だが。その朝。 少年は自分が心配していたことが起こってしまったことを知る。 ルドルフは、その朝、もはやベッドを起きることも叶わない状態になっていた。 つづく |