いつも笑ってばかりいたのに、そのとき見た姿は誰をも拒絶しているかのように、ただ、風だけを相手にしているかのように見えた。 私は、そんな彼を嫌いだと思った。 私は風の属性の天使一族に産まれ、慣例に従って風の名を付けられた。たとえば、私の弟はヴェントと名付けられ、従妹はティフォーネと名付けられたように。しかし、私の名は凪を意味し、風の名であって風ではなく、名前の持つ呪術性は私に風を呼ぶ力を失わせていた。一族の長子である私はいずれは、風の天使を統べるであろうと目されていたものの、その身でありながら風を呼べぬことが、いわば私のコンプレックスでもあった。 アカデミアに入るころには、私は無風の風天使として揶揄されることも多くなっていた。そして、私はアカデミアで彼に出会った。 彼は、何年かに一人産まれる珍しい天使だった。一族に属し、その中で天使によって作られる幼き天使ではなかった。天界の気が集まる場所に何らかの拍子に何かが・・・、たとえば花の香気とか、雨の一滴とかが入り込んだとき、それを核として光の気が集い何年もかかって幼い天使が産まれる。それが彼なのだと聞いた。虹の名を持つ彼は、おそらく、その核になっていたのは虹の光の欠片だったのだろう。 その姿を見たときは、とてもそうは見えなかったけれど。通常そうやって産まれる天使たちは、核となったものの性質を継いで容姿が優れていたり、ことさらに特別な能力があったりするものだと聞いていた。しかし、彼はとりたてて何が優れているというようにも見えず、容姿も天使というよりは地上の人間に近く、どちらかといえば、天使の中では異端に見えた。自身にコンプレックスを持っていた私には、そういう彼が自分に近しいものに思えた。だが、彼は私とは違って、そんなつまらないコンプレックスなど持ちあわせてはいなかった。 いつか、彼に自分の名前を自嘲気味に告げたとき、彼は私に向かってこういう意味の事を言った。 ---風と風がぶつかりあい静まったときか、嵐の前のひとときが凪だ。 お前の名前は、風を治め、次の風を迎える名前だからこそ、風天使を統べるにふさわしい名前なのだ 彼は語る口調が独特で、それもまた天界のどの天使にも似ず不思議だったのだが、とにかく、そういう意味の言葉を彼は言ったのである。それは私にとって初めて聞く自分の名を誉めた言葉だった。名付け親は、私の名について何も告げることがなく、それはおそらくは自らその意味に気づけということであったのだろうが、だから、彼の言葉が自身の名について意味を考え、私が誇りを持つきっかけとなったのだった。 以来、彼と私は友人になった。 彼は私の数少ない友人の一人だったが、私は彼の多くの友人の中の一人だった。彼はいつも笑っていたし、おおらかで物事に囚われない性質を持ち合わせていた。彼の一番の特徴は、天界の決まりにさえも囚われないことで、彼は降りることを禁止されている地上へよく抜け出していっては、アカデミアの反省室に閉じこめられていた。 何故、そこまでして地上へ降りようとするのかと聞いたことがあるが、彼は曖昧な顔で笑いながら、好きだからだ、と答えた。彼が地上で何をし、何を見ているのかは私には測ることはできなかったが、彼を引きつけるものが何であるのか興味があったことも確かだった。 しかし、彼はいつも誰も連れることなく一人で地上へ向かっていた。彼が誘えば何人かはきっと一緒に地上へ向かっただろうし、私もおそらく、共に行こうと言われれば地上へ向かっただろう。けれど、彼は必ず、一人で地上へ向かった。一度、そんな彼の後を天界の外れまで着いていったことがある。本当は、彼の後に自分も地上へ降りてみるつもりだった。だが、風を呼び地上へ飛び立とうとする彼の姿を見たときに、その気が失せた。 いつも笑ってばかりいたのに、そのとき見た姿は誰をも拒絶しているかのように、ただ、風だけを相手にしているかのように見えた。地上へ向かう期待でもなく希望でもなく、その瞳にあるのは焦燥にも似た不思議な光だった。声をかけようとしたとき、彼は私を振り向き一瞬、目があった。けれど、彼は私の姿を認めながらも、すぐにその視線を遙かな風の向こうへ戻すと何を告げることもなく、飛び立っていった。呼び止めることも、共にいくこともできず、私は一人その場に取り残されて彼の飛び立った空を見ていた。そのとき、私は自分が彼のことを何一つ知らないことに気が付いたのだった。 彼は私のコンプレックスを知っている。彼は私が何に傷ついてきたのかを知っている。彼は私が何を目指しているかを知っている。 しかし、私は彼の何をも知らない。 その時の地上行きから連れ戻されて反省室に入れられた彼が、翼を傷めていたらしいと聞いたのは偶然だった。地上の村にたまたま降りてしまった彼は自分の清浄なる気でもって流行病から村を守っていたのだという。私には信じられないことだった。悪くすればそれは、いまだ幼く力弱い天使にとっては天界へ戻れない結果になりうることもある。翼を失うことになることもある。天使が地上に降りることを禁止されるのは、幼い天使にとってはそれが命取りになることもあるからだ。なのに。 反省室を出た彼に会いに行ったのは、どうしても確かめたかったからだ。地上には、何があるというのか、と。彼はまるで何もなかったかのようにいつもの笑顔だったけれど、彼が飛び立つあの一瞬の表情を見た私は・・・飛び立つ彼にまるで自分を拒否されたように感じていた私は、彼を見て笑うことなどできなかった。 地上で翼を傷めたなんて馬鹿馬鹿しいと言うと、彼は笑いながら、でも楽しかったから、と言った。本当は楽しいなんてことと縁遠いものだったことを私は知っている。だから、そんなことは嘘だ、と言うとそれでも彼はそんなことはない、楽しかった、と言った。守ってやった人間に疎んじられたくせに、と言うと彼は頭を掻きながら、そんなことはどうでもいいことなんだ、とやっぱり笑った。 地上に行ったって、何もない、誰もいないのに。彼を知る人など、彼をわかっている人など誰もいないのに。人と関わったところで彼等が天使を覚えていることはない。何も残らない、彼がその地上に降りたことを覚える者などいないのに。そう言おうとして、私は気が付いた。誰もいないのは、天界だって同じじゃないか、と。私や他の天使の多くのように、彼には天界に係累があるわけではない。彼をつなぎとめるものがないのは、ここであっても同じことだ。黙ってしまった私に、彼は心配かけてすまなかったと謝った。別に謝って欲しかった訳じゃない。ただ、理由が知りたかっただけだ。彼は私の心の側に立っていたけれど、私は彼の心から遠く離れた所にしか立たせてもらえなかった。 どうして、地上なんだ、ここだっていいじゃないか。ここにだって、お前のことをつなぎ止めたいと思ってる奴がいるじゃないか。なぜ、地上なんだ。なぜ、一人で行ってしまうんだ。それを教えてくれ。 でも、彼はちょっと困ったような顔をしてやっぱり、謝っただけだった。ただ、一言、探しているんだ、と短く言った。何を、と問うと、わからないけれど、とそう言った。 思えば、その時、私は彼が地上へ行くことではなく、彼がここではないどこかへ行くことが不安だったのだと思う。そうして、もう戻ってこないような、そんな気がして不安だったのだと思う。彼を踏みとどまらせるものが、ここにはないことを知ってしまったから。けれど、私の口からでたのは、子供っぽい一言だけだった。 お前なんか、嫌いだ、と。 彼は、悪い、と謝った。なんで謝るんだ、と聞いたら、嫌いだと言われるよりも、言う方が痛いときもあるから、と笑った。そういうところが、ますます嫌いだ。そう言うと ---けんど、僕は、君のこと、好きやあ〜 そう言って立ちつくす私の身体を抱きしめた。私は泣いていたのだ。友達に裏切られたような気持ち、その寂しくて悲しくて悔しい思いが、まだ子供だった私を泣かせた。自分は友達だと思っていたのに、相手にはそう思われていなかったような、そんな気がしていた。彼は誰も必要としない。彼は一人で行ってしまう。 連れていけよ、と言いたかった。一緒に連れていけよ、と。でも、言えなかった。彼の答えを知っているような気がしたから。 ---僕は、独りで行くんや〜。行きたいところに行って、生きたいように生きて・・・ 一緒に、連れていけよ。ついてこいって言ってくれたら一緒に行くのに。 ---これは、僕のやりたいことで、僕が生きたい生き方で、君には君のやりたいことがあって、やらねばならんことがあるじゃろう ---それに、戻ってこんわけやないよ。僕は、ちゃあんと戻ってくる。 まるで私の心を見すかしたように彼はそう言うだろう。 まるで、私が戻ってきてほしいと願うから戻ってくるのだと言わんばかりに。もし、誰も引き止める者がいなければもっと遠く、もっと先へ向かってしまって戻ることはないかのように。 その日から、私は彼との間に距離を置くようになった。 アカデミアの学年が進むにつれて私は持って生まれた風天使の才を発揮するようになり、やがて誰も私を無風の風天使などと揶揄するものはいなくなった。彼はあいかわらずの問題児で、地上へ降りては反省室に入れられることを繰り返していた。成長期を過ぎて彼はぐんぐんと大きくなり、地上を往復する翼は他の天使に勝って力強いものに育っていた。ある意味、彼は天使たちの中で異彩を放つ存在になっていた。 一度、アカデミアを出るころに彼に会った。 彼は、まるで長い間すれ違うこともなかったのが嘘のように、昔のままの笑顔で笑いかけてきた。 ---おいっす、久し振りじゃのう! 元気じゃったかよ〜! どう答えていいのか私は分からず、ただ、あいかわらず地上に捜し物を求めているとは淋しい男だな、とそう言った。今にして思えば、結局のところ、拒絶したのは彼だったのか私だったのか。彼が私を拒絶したのだと思って私は彼を離れた。けれど、本当の所は、近付くことのできない彼を私が拒絶したのかもしれない。彼は近づく者を受け入れるけれど、去りゆく者を追うことはしない。 彼は自由気侭な男だ。係累もなく、束縛するものを持たない。誰も彼を引き留めることはできないし、彼も誰のことも引き留めようとはしないだろう。 しかし、それは同時になんと孤独なことだろう。私は一族を持っている。それは時に自らの枷になるが、ひとりではないという安心感を与えてもくれる。それをよりどころにすることができる。 淋しい男だと言った私に、彼は頭をかきながら笑って答えた。 ---淋しゅうは、ないがよ〜。ここに、いろいろ集めておるからなあ そう言って自分の胸を指差した。それを、集めているのか。そこに集めるものを探しているのか。そう私は思った。 私のことも、そこにあるのか? そう尋ねると、もちろんじゃ、と言って笑った。 想い出なんて、いくつ集めたって満たされることなんてない。満たされることなんてないものを、いくつ集めたって終わりなんてくるはずがない。私の憮然とした表情に気づいたのだろう、彼が苦笑しながら言った。 ---わしは〜、ちゃあんとわかっておるから、大丈夫じゃよ。 わかってる? 何を。捜し物は見つからないということをか? それとも・・・それとも、私のあのときの言葉が・・・彼を嫌いだと言った言葉が嘘だと言うことを? 問うこともせず、ただ彼を見返す私に、彼はもう一度、繰り返した。 ---ちゃあんと、わかっておるんじゃあ。 私には、彼が何をわかっているのかわからない。わかるのは、「わかっている」という言葉で彼は私がそれ以上立ち入ることを拒んでいるのだということだけだ。 やっぱり、私はお前が嫌いだ。 そう、言った。だが、彼はそんな私の肩を叩いてあのときと同じように言っただけだった。 ---けんど〜、わしは、おんしの事を好きじゃよ〜 それからしばらくして、地上守護の任務に彼が就いたことを知った。彼にとっては願ってもない任務だったろう。特例中の特例ということだったが。その後、私も地上守護の任に就くことになった。彼があれほどに惹かれる地上へ私は初めて赴くことになった。 そこで出会った人は、卑小で傷つきやすく、幼く、心弱い生き物で。けれど、天使にはない逞しさと生きる力と激しさを持っていた。 わかりたくもないと思いながらも、彼が地上に何を見ているのかわかるような気が、私にもした。 彼とはそれ以来、会う機会がない。あいかわらず彼は地上へ降りているらしいと聞く。私は、任務を終えてからは風天使の一族としての任に就いていた。 それでも、今も時々、思うことがある。 あのとき、彼にもし自分も連れて行け、と言ったなら。たとえ答えがわかっていたとしても、そう言ったなら、何か変わっただろうか、と。 言えなかったその言葉と、彼の「けんど、僕は、君のこと、好きやあ〜」という言葉が、今も私に棘のように刺さっている。 虹の根元を目指して歩いて行っても、その場所にはけして辿り着くことはできない。 彼が探している場所は虹の根元だ。行っても行っても行きつける場所ではない。 ---僕は、独りで行くんや〜。行きたいところに行って、生きたいように生きて・・・ その後の言葉を濁した彼の、その続きを私は知っているような気がした。 行きたいところに行って、生きたいように生きて、逝きたいときに逝くのだ、と。 そして、そう思うときやっぱり、私はそんな彼を嫌いだと思うのだった。 END |