祈り





温かいものが身体に触れていて、その温かさにまどろみの中にいながらひどく安心している自分がいた。心地よくて気持ちよくて、このまま目覚めたくないような気持ちがしていた。目を閉じていれば、これは「在る」。目が覚めたときに、それが夢だったと落胆しなくて済む。
なのに、前触れもなく不意に眠りの淵から意識が引き上げられて、イーリスは目を覚ました。
ひんやりとした空気がそれまで温かいと感じていたはずの意識を急速に現実に戻す。温かいものはイーリスの間近で緩やかに呼吸を繰り返しぐっすりと眠っていた。
自分とは違う体温を持つものが近くに寄り添っていることの温かさと愛しさ。夢でなかったことに感謝して、起こさぬようにそっとベッドから降りた。

外はまだ夜明け前ではあったが、それでも朝が間近いのか、遠く地平の空の闇が薄くなってきているようだった。冷えた空気が空を澄み渡らせ、窓ごしに見上げる空には冬の星座が輝いている。
天界は人の世界にいるよりは、あの星星に近い世界ではあるのだろうけれど、それでもまだ星たちが手の届かぬ遠いものであるには変わりがない。天使である自分は地上に生きる人よりは神と呼ばれる存在に近い場所に生きているのかもしれないが、それでも自分と神の間にある距離はあの星との距離同様に遠いものだと思う。
人は自分の力の及ばぬものを頼むときに、神に祈りをささげる。天使もまた同じこと。人と天使と、確かに天使の方ができることは多いのかもしれないが、できないことの数に大差はない。

たとえば、誰かを幸せにすること。
たとえば、思いを叶えること。

生まれてくるのには何か意味があるのだろうと思っていた。けれど、その意味をどう捉えていいのかわからなかった。
他の天使と異なり、自分がひとりで生まれてきたのは、きっと一人で生きていけということなのだろうと思っていた。この自分の天界に自分と共にあるべき者はいないということなのだろうと。ここで一人で生きていかねばならないのだと。
けれど、もしかしたら。もしかしたら、自分を待つ人は地上にいるのかもしれないとも思っていたのかもしれない。自分の生きる意味は地上にあるのかもしれないと。だから、規則を破って地上を訪れたりもした。何かを探すように地上へ向かっていた。
人という存在が好きだった。一生懸命で儚くて力強く悲しく愛しい。けれど自分はやはり人とは違う生き物だった。地上でも自分は一人だった。人と天使は違う生き物だった。大好きなひとも大切なひとも、指から零れ落ちる砂のようにさらさらと留まることなく流れていった。

何にも執着しないこと。それが生きて行く秘訣なのだと思った。それでも、自分の生きる意味がどこかにあると思っていた。誰かのために。何かのために。

そして今。
自分の生きる意味が彼女の傍にあることであればいいと願う。天使である自分が神といわれる存在に祈る。

どうか彼女を連れていかないでください。
どうか自分から彼女という存在を奪わないでください。
彼女が幸せなら、誰の傍にいてもいい。そう思ったときもあったけれど。本当は自分の傍で幸せでいてほしいと願う。何にも執着しないことこそが生きる秘訣なのだと思っていたのに。この滑稽なまでの彼女に対する思いは何なのだろう。思うほどに思われているわけではないことも知っている。自分の存在が彼女にとってどうしても必要なものでないことも知っている。不確かな、いつ切れてもおかしくないような絆しかないことも知っている。でも祈る。だから祈る。

ささやかなささやかな毎日を。その中で彼女とともに過ごすことを。そして、それが彼女の中に何かを積み重ね、残し、変えていくことを。
彼女とともに、何かを積み重ねていくことを。
年々星は変わらぬように輝き。空の星座の形は変わらぬように見えるけれど、長いときをかけて本当は動いているもので。ささやかなささやかな毎日を積み重ねてゆく、ささやかな繋がりが、彼女にとってもかけがえのないものになりますように、と。

まだ夜明けには間がある。冷えてきた身体に少し肩が震えた。

「・・イーリス・・?」

眠そうな声と、手が布団のあちこちを撫でていく音。背後でもぞもぞと動く気配がした。彼を探している。
そっと窓から身を離し、ベッドに戻る。布団に身を潜らせると途端に温もりが身体に染みていく。
「・・おるよ」
囁くようにそう声をかけると、眠たげな目が一瞬彼を見上げ、安心したようにまた目を閉じた。探していた手が彼の方に伸びてきて。
「・・冷たい」
冷えた身体に触れる。
「すまん、ちくと、外見ておったさけ・・」
身体を離そうとすると、それを押し留めるようにぎゅっと抱きしめられた。
「風邪ひいちゃうよ。・・これであったかい?」
喉の奥で笑うかのような調子でからかうようにそう言われて。
「うむ・・ありがとう」
照れたように答えながらそっと抱きしめ返した。
肩が出ないように少し布団を引き上げて、温もりを受け取る。
「日の出を見るときは起こしてね。一緒に見ようよ・・」
眠そうな声で、そう言う声が耳に届く。
「うむ、起こすさけ。もうちくと、眠っておっても大丈夫じゃよ」
そう答えると満足したようにまた、彼女は眠りに落ちていった。

一緒に見ようよ。

深い意味のない、さりげない言葉。けれど自分にとってこれほど深く大切な言葉もない。
ささやかな毎日の積み重ねの、その風景の中に自分の姿を置いてほしくて。
今日も、明日も。今年も、どうか。
どうか、この温もりを、今年もどうか、傍に置かせてください。
あなたと共に幸せな年を過ごせますように。
そう、祈らせてください。



END




まあ、この願いは叶わなかったのですけども、読み直してみると
最初から結構諦めムードですから上手く行くはずもなかったわなあと。
で、この後の失恋を経て、「告解」に繋がるということになります。
しかし、なりちゃの中でなければ、イーリスが恋をすることはなかったので
そういう点では予想外の展開であり、貴重な経験となったと思います。
(2007.07再掲)




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