「おい、ぼうず!」 声をかけられたのは、突然だった。人通りの多い、雑多な街中。屋台が並んで人々が店をのぞき込み、日々の糧を求めている。整然とした美しさとは無縁だけれど、生命力と活気に溢れたその街角の、通りの端にその人は座り込んでいた。 「お前だ、お前。こっち、こいよ」 言われて近寄ると、アルコールの匂いがした。見てみると、節くれ立った大きな手には、底の方に琥珀色の液体が残っている瓶を持っている。 「まあ、座れ。」 なんとなく座り込むと、あいている方の手で頭をいきなりくしゃくしゃに撫でられた。少しびっくりして見上げると、その人は笑いながら、懐から固くなったパンを取り出して差し出した。 「まあ、これでも食え」 頷いて受け取り、囓る。パンというにはもう固すぎるそれを、かりかりと囓りながら、思い直したように、その人の隣に座り直し、通りを行く人を眺めた。さっきまで、自分はあの人々の流れの中にいたのに、今はそこを離れた傍観者になっていることになんだか不思議なおもしろさを感じた。 「ぼうず、お前、行くところないだろう」 その人はいきなり、そう言った。やっぱり少し驚いてその顔を見上げる。 「そういう顔をして歩いていたぞ」 「・・・どねいな、顔?」 「そういう顔だ」 そういうと、その人は笑いながら言った。 「俺のところにこい、ねぐらくらいは貸してやる」 連れて行かれた場所は、確かにねぐら、というにふさわしいような狭い小さな掘ったて小屋だった。ぎしぎし言う戸(かろうじて戸、と呼べるくらいの代物)を開けて中に入るが、家具らしい家具も何一つなく、床に転がっているのは酒瓶ばかりだった。 「ま〜、その辺に適当に座れや」 言われて、その場に腰を下ろす。その人は、自分はふらふらと部屋の隅へ歩いていくと、片隅に置いてあったまだ封の開いていない酒瓶を手にして、少年の向かいに腰を下ろした。 「どうだ、ボウズ、お前も飲むか?」 酒瓶を突きつけられて少年は、慌てたように首を横にふる。 「なんだ、酒も飲めねえのか、つまらねえガキだな。」 そう言うと、その人は何かぶつぶつ呟きながら酒瓶を開け、中の液体を喉に流し込んだ。先ほどからの様子では、ずいぶんともう既に飲んでいるであろうに、ごくごくと喉をならさんばかりの飲みっぷりに、少年は 「・・・飲み過ぎるんと、違うん? おっちゃん」 と声をかける。ぷは〜っ! と酒臭い息を吐き出したその人は、少年の頭をぐりぐり掻き回すと、大声で笑いながら言った。 「バカ野郎、いいか、人生ってのはな、美味い酒と、いい女と、最後に入る墓穴さえありゃいいんだよ。 こんな美味い酒に、飲み過ぎなんざあるわけねえだろ!」 そうしてまた、ぐびぐびと酒瓶を傾ける。少年は、呆気にとられたような顔でその人を見ていた。 「坊主、おめえ、どっから来たんだ?」 瓶の中の液体を半分くらい飲み干してからその人は少年に向かって問うた。しばらく逡巡したような少年は、やがて口を開いて言った。 「遠く。」 「だははははは!!! こら、ガキ、その答えはなめてんのか? え? 別に言いたくなけりゃいいけどよ、嘘でもいいから街の名前くらい一つ用意しとけや」 そう言って、その人は笑いながらまた瓶の中の液体を喉に流し込んだ。 「ま〜いいや。それより、坊主、どうせ行くとこなくてヒマなんだろ、 明日っから俺の仕事、手伝えよ」 言われて、少年は頷く。よくわからないけれど、悪い人でもなさそうだし。なんとなく、面白そうだし。そうして、少年は、その人のところに居着くことになったのだった。 「なんだい、その子は。あんたの子供なの? ねえ、ラルフ」 あくる日の朝、連れていかれた店で、その店の女性がその人に言った。それで、少年はその人の名前がラルフというのだとはじめてわかった。 「バカ言え、リイナ。俺にこんなでっかい息子いるわけねえだろ。拾ってやったんだ。 名前・・・名前、なんだ? そういや聞いてねえや」 「バッカじゃないの、名前も聞いてないわけ?」 リイナと呼ばれたその女性は、巻き毛のブルネットを無造作にまとめ、赤い口紅と赤い爪、そして体の線を強調する薄いドレスを身につけており、少年は少しばかり目のやり場に困っていた。 それに気づいたリイナというその女性が面白そうに少年に向かって笑いかける。 「あらまあ、随分と可愛いこと。名前はなんていうの?」 「い・・イーリス。」 「へえ! なんだか洒落た名前なのねえ。いくつ?」 「15くらいなんや〜」 「くらい、ってなんだよ、坊主、おめえ、自分の歳もわかってねえのかよ」 横からラルフががしがしと少年の頭をかき混ぜる。わしゃわしゃの髪にされながら、少年はにゃはは、と笑いながら答えた。 「けんど、僕、自分がいつ生まれたのんかようわからんさけ」 「なんだよ、おめえ、おっかさんやおとっつぁんはどうしたよ」 「いや、僕、どっちもおらんさけ・・」 その答えを聞いたリイナが、んもう、という顔をしてラルフの横ッ腹に肘鉄をくらわせる。 「ってぇ〜! けどよ、まるきり両親なしで生まれるわけじゃねえし、 赤ん坊のときからひとりってわけでもねえだろうがよ。」 そういうラルフに、少年は曖昧な顔をして、たはは、と笑ってごまかした。 「もう! そういうデリカシーのないこと聞くもんじゃないわよ、あんたって。 いいじゃないよ、15才くらいってんでさ。ねえ?」 間近く顔を覗き込まれ、白粉の匂いにむせ返りそうになりながら少年はこくこく、と頷いた。なんだか、この匂いは落ち着かない、ざわざわする。そんな気がしていた。 「それより、なあに、ラルフ、こんなところにこんな子連れてきてさ。」 リイナがそう言う。見まわせば、その店ではリイナのような女性がたくさん、給仕を行っていた。客は全部、男ばかりだ。しなだれかかるように酒の酌をし、男に腰に腕を回され、もたれかかり、頬を寄せて語り合う。ときどき、席を立った二人が店の二階へ姿を消したりもしていた。少年は、ちっともそんなことに思い至っていなかったが、この店はそういう店なのだ。男が酒を飲み、気に入った女がいれば二階へあがる。 ラルフは、リイナの腰に腕をまわし、そっと囁くように言った。 「いやあ、いつも酒代をお前にツケてばかりだからな、少しは金を返そうかと思ってよ。 探してただろ、下働きするヤツ。この坊主、ここで働かせてくれよ。 どうも仕事も行くところもねえみたいだからよ」 「あんたねえ、自分の酒代をこの子に稼がせようっての? ほんっっと、ひどい男ね!」 リイナは腰にまわされたラルフの手を思い切りつねった。ラルフはそれでも慌てずにもう一方の手でリイナの手をやんわりと外して、抱き寄せる。それを見ている少年は、なおさら困惑したような表情になり、その場をとりなすように言った。 「僕、働いてみたいさけ、ここで仕事させてくれんやろか」 それを聞いたラルフがリイナに笑いかける。 「見ろよ、本人だってそう言ってるんだ、構わねえだろう?」 いまだにリイナの腰に腕をまわしたままのラルフを振りほどくと、リイナは溜息を一つついた。 そうして、少年に向かって確かめるように尋ねる。 「本当にいいの? あんたの働いた金、ラルフの酒代に消えるわよ? まあ、食事くらいは出るだろうけど・・・・」 「ええよ、僕、食べるもんがあるだけでも十分や〜」 少年は屈託なく笑ってリイナに向かってそう言った。 「わかったわ。それじゃあ、店長に頼んであげる。 下働きの子がやめちゃって、探してたところだから、たぶん、大丈夫だと思うわ」 「けっけっけ、坊主、しっかり働けよ〜!」 「いい加減にしなさいよ、ラルフ!!」 リイナはラルフに向かってきつく言いおくと、店の奥へ一旦消えた。それを見送った少年は、ラルフに向かって、尋ねる。 「おっちゃん、僕に、おっちゃんの仕事手伝えっちゅうてたけんど・・・ おっちゃんも、この店で仕事してるん?」 「おお、俺もこの店が仕事場だな!」 それを聞くと、少年は少しばかりほっとしたような顔になった。さすがに女性と酔客ばかりの場所に一人で放り込まれるのは緊張するらしい。とはいえ、ラルフだって日のほとんどの時間を酔って過ごしているのだから、あてにはならないのであるが。 「まあ、お前とは仕事の種類が違うな」 ラルフはニヤリと笑ってそう言う。少年は不思議そうな顔をしてラルフを見上げた。 「さっきの、リイナ、いただろ? あれは、この店で五本の指に入る売れっ娘だ。 まあ、言えば、客の選り好みをしても許されるような、看板娘だな」 ふむふむ、とわかったようなわからないような顔で少年が頷く。 「俺の仕事はだな、そのリイナのヒモだな!」 言うなり、ラルフが笑い出す。少年の方はといえば、それの何が可笑しいのかよくわからずに、相変わらず不思議そうな顔をしていた。そのラルフの後頭部を、戻ってきたリイナが痛烈にはたいた。 「あんたって、ほんっっっっとに馬鹿ね!! 何言ってるワケ? まったくもって、ろくでなしなんだから!!」 はたかれた後頭部をさすりつつ、ラルフは悪びれもせずにリイナに向かって言った。 「そういうなよ、俺に惚れてるくせによ」 「バカじゃないの? ほんっとに処置なしね!」 口ではきつく言いつつも、リイナは抱き寄せるラルフの腕をふりほどこうとはしていなかった。そのままで少年に向かって言う。 「オッケーだって。炊事場の方へ行ってくれる? そこで仕事してもらうからって。 あの扉の奥ね。そこに、料理長がいるから、その人に仕事は聞いて。」 「あ、うん、ありがとうや〜」 「ふふ、笑っちゃうでしょ、こんな場末の不味い料理しかないような娼館でさ 料理長なんて言うんだもの」 自嘲気味にそう笑うリイナに、少年は首を横に振ってそんなことない、と言って笑った。そうして、リイナを後ろから抱き締めているラルフの「早く行けよ」という視線に気付いたか、慌てて言われた店の奥へ向かって走り出す。 少年の姿が店の奥へ消えた後、リイナはラルフに向かって静かに尋ねた。 「で、どういう風の吹き回しなワケ?」 「ん〜? 何が」 ラルフはリイナの首筋に顔を埋めつつそう聞き返す。リイナは手をあげてそんなラルフの顔を遠ざけるとくるり、とラルフに向き直った。 「言っておくけど、あんたが、私のために、今まで、何か一つでもしてくれたことなんてなかったよねえ? 酒代はツケる、金は持ち出す、客を追い出して泊まり込む、 あたしから、搾り取ってくことはあっても、ビタ一文どころか、ガラス玉一個だって くれたことないじゃないのさ。 今更、酒代返すために、子供働かせるなんて、誰が信じるとでも?」 きつい光を瞳に宿らせてリイナがラルフを睨み付ける。これは本気だと感じ取ったラルフは、両手をあげて降参のポーズをとり、リイナから離れた。 「言ったろ、俺のガキじゃねえって。拾ったのは、ホントだぜ? なんかよ・・・・」 そこで言葉を止めてラルフは言い淀んだ。その瞳に、いつもと違う表情を感じ取ってリイナも一瞬黙り込む。しかし、そこでラルフは、いつものように笑うと、 「なんかよ、あいつ、まるで昔の俺みたいに、行くところもなさげだったからよ!」 と言った。結局、リイナは仕方なさげに苦笑してラルフの傍らに寄り添う。 ラルフがこの街・・・この店に来たのは何年前だったか。そのときから、やっぱり酒を手放せないような人間になっていた。けれど、そのときのラルフは、今と違ってもっとギラギラした目をしていた。こういう仕事をしていると、どうして自分を幸せにしてくれそうもない男にばかり惚れるんだろう、と思う。 多分、心のどこかに傷を持つものどうしが引き寄せあうように世の中はなっているんだろうと、今は諦めにも似た心境でいたりもする。ラルフが自分を愛していてくれるかどうかは、わからない。それは、結局は似たもの同士が慰めあっているだけかもしれない。でも、自分はやっぱり、このどうしようもない飲んだくれを、好きになってしまっているのだ。仕方ない。ラルフの昔のことは知らないけれど、彼が自分の側で、慰められればいいのに、とそう思っている。自分はそういう損な星回りを背負ってるんだろう。 「・・・あの子は、あんたなんかより、ずっと素直でいい子だわよ、きっと!」 リイナは、内心のそんな思いを誤魔化すかのように、わざと少しきつい言葉でそう言った。ラルフはその言葉に、ひでえよなあ、とつぶやきつつも、面白そうに笑っていた。そうして、リイナに向かって何ごとかを囁く。リイナは溜息を一つつくと、 「ほんっっとにあんたってば、ろくでなしだわ」 と答えると、ラルフに腰を抱かれたまま、店の階段を登り二階の部屋へと向かった。部屋の扉を開けるとき、ラルフがこう囁いた。 「けどよ、リイナ、お前そんなろくでなしに惚れてるんだろ?」 そのころ、少年は与えられた仕事場でやるべきことを命じられ、どこかほっとした面持ちで仕事に励んでいた。 つづく |