遠くで怒鳴り声が響いていた。 ・・まだ埋もれているぞ! 早くどけるんだ! 体が動かない。胸の上に何か重いものが乗っていて、ラルフを押さえつけている。腰から下の感覚もなくなっていた。 何があったんだ? とラルフは思い出そうとする。腕を動かそうとしてあまりの痛みに顔をしかめる。ごほごほを咳をしたら喉の奥から熱い塊がせりあがってきた。鉄の味のするそれが血だと感じて、ラルフはうっすらと思い出す。 ああ、土手が崩れて・・・ そうして、あのバカ野郎が・・・と男のことを思い出す。だが、たぶん、あいつもこの下敷きだ、と思って少しばかり哀れに思う。 自分の上に重なっている砂袋を誰かがどけている。目をうっすら開けると胸から下はすっかり土塊の下になっていた。失笑してラルフは、あの男は成功したようだ、と考える。これで土手は一から作り直しだ。あの役人は飛ばされるんだろう、あの男の言うことが当たりなら。 そうして、なるべく考えないようにしていたことを考える。 俺も、ここでおしまいってやつかな。 妙に落ち着いた気分でいることが可笑しかった。やっぱり、夢は夢で終わるってことかよ。 リイナが、泣くだろうな。 そう思うと少しだけ胸が痛かった。 ラルフはうっすらと目を開けて空を見上げた。雨の後の空は青く遠く澄んでいて。 ああ、あの夢の中の草原と同じだな。 そうラルフは思った。そのとき、その目に白い翼が映った。 ・・・坊主・・? それは少年だった。白い翼を広げラルフの元へと空から降りてきたのは、少年だった。だが、ラルフ以外の誰にもその姿は見えないようで。相変わらず、男たちの砂袋をどける作業が続いている。 ・・・おっちゃん・・・!! 今更ながら、その翼をラルフは綺麗だと思った。それから、声にならない声で少年に向かって言う。 ・・・情けない面してんじゃねえよ、坊主。 ・・・おっちゃん、今・・・今、僕が助けるき・・・! 少年が両手を胸の前で組むと白い光が手のひらの間から漏れ出す。そうしてその光をラルフに向かってかざそうとしたとき、ラルフは言った。 ・・・やめろ、坊主。やめておけ。 それは、やっちゃならねえ。 びくっとして少年の手が止まる。 ・・・けんど・・けんど、おっちゃん! ・・・なに、別に苦しいわけでもねえし、大丈夫だ、坊主。 ごぼごぼと声を出そうとすれば喉の奥で血が鳴る。もう痛みも感じないのだとラルフにはわかっていた。 ・・・坊主。 ラルフは動かない腕を動かそうとして途切れそうになる意識を集中した。そうして少年に向かって手を差し出す。 ・・・坊主、指輪を。 少年の手がラルフの指から、銀色の指輪を抜き取った。 ・・・坊主、その指輪、お前にやる。 瞬間、少年の顔が驚いたようにラルフに向けられる。ラルフは小さく笑った。 ・・・リイナにやるって約束したけどよ、やっぱ、やれねえ。 あいつ、泣くだろうからな。指輪を見て、毎日、泣くだろう? 俺のことは、早く忘れろって言ってくれ。 あいつには、やっぱり、温める男じゃなくて、温めてくれる男が似合いだ。 ぎゅっと少年の手がラルフから受け取った指輪を握りしめる。 ・・・坊主、お前と一緒にいてやれなくなったから、俺の変わりにその指輪を持っていけ。 お前には、そういうもんが必要だ。 なあ、坊主。 ラルフは真剣な瞳で少年に向かって言った。それだけは伝えておきたいというかのように。 ・・・お前、これからもそうやって生きていくつもりなら。 嘘は墓場まで持っていけ。 もし、抱えきれねえ嘘があるなら、俺が今、一緒に俺の墓に持っていってやるから。 だから・・・・ 誰にも知られるな。お前の嘘を。お前が、一人だってことを。 そうやって生きて行くなら。 ほうっとラルフは息をついだ。 ・・・おっちゃん・・!! いかん、おっちゃん・・僕は・・!! 少年の手が再び白く光り出す。もう、間に合わねえよ。ラルフはそう呟いた。 そう、悪い人生でもなかったような気がする。 畜生、眠くなってきやがった。 だんだん、少年の声も男達の声も小さく、遠く、なっていった。 さあっと風がラルフの頬を撫でる。一面の草原。 ああ、ここは。 ふと見渡せば、草原の向こうに白い小さな家が見えた。ラルフはそちらへ向かって歩き出す。 家の前で、女が一人洗濯物を干していた。 リイナ。 歌を口ずさみながら、軽やかに。 ああ、これは俺の夢の家なんだな。 ラルフはそう思った。 まともに働いて。家に帰ったらリイナがいて。料理長譲りの不味い塩味のスープをつくりやがるんだ。俺はそれを文句をいいながら、食う。 傍らでは坊主がそれを笑いながら見ていて。 そういう家を作りたかった。リイナ、お前と。 でも。 ざあっと風が吹き荒れてラルフの視界を閉ざす。気が付けば白い家も草原も消えていた。一面が群青色の闇に閉ざされていた。 寒々しい世界に、ただ一人のような気がして。 ラルフは周りを見回す。だが、何も見えず。そのとき、声がした。 ・・おっちゃん 聞き慣れたその呼び声。だが、ラルフの耳に慣れた声より、幾分低い声だった。 振り向けば、そこに一人の青年が立っていた。 ・・・坊主? ラルフの見知った少年ではなく。その人なつこい笑顔に少年の面影が見えていたけれども。 ・・・なんだ、お前、随分とでっかくなりやがって。俺よりでかいじゃねえかよ。 大人の面差しになったその顔をしみじみと見つめる。 ・・・おっちゃん、ありがとう。わし、おっちゃんに言いとうて、ずっと探しておったよ。 ・・・なんだよ、改まって言うな。俺が、好きでやってたことだ。 そうして、ふと彼の手に目をとめて、そこに銀の指輪を見つける。 ・・・坊主。 もうすっかり、坊主と呼ぶには成長してしまった彼に向かって、そうラルフは呼びかけた。だが、それを目の前の彼は嬉しそうに聞いている。 ・・・一つ、言い忘れていたけどよ。 お前を、お前の嘘を見抜いて、それでもなお側にいてくれる リイナみたいにいい女を見つけろよ、坊主。 そうして、そんな女を見つけたら、その指輪をやれ。 それから、彼の顔を見上げて苦笑しながら言う。 ・・・そのためには、坊主、ちっとは見栄えのする面しろや。 ガキのくせにいっちょまえに、無精髭なんざ気取るんじゃねえよ そう言って手を伸ばして頭をくしゃくしゃと掻き回す。嬉しそうに彼はそれを黙って受けていた。 ・・・おっちゃん、ありがとう ぎゅっと彼がラルフを抱きしめる。野郎に抱きしめられても嬉しかねえよ、ラルフはそう呟いた。でもまあ、坊主なら仕方ねえか。 そうして目を閉じて。再び目を開けたとき、彼の姿はなかった。闇空を覆って、無数の星が瞬いている。星空にラルフは浮かんでいた。 そして、気が付く。 ああ、俺も、この、星の一つになっていたんだな。 ラルフがそれまでに働いた残りの金と見舞い金は、ラルフの墓穴を掘ってなお、余った。それは、ラルフの言う通り、リイナが店を出る足しに少しだけはなったようだった。 ラルフが町外れに埋められたときも、その上に十字架が立てられたときも、リイナは店にいた。店の外に出られるはずもなかった。 それでも、客の相手をする気にもなれず、部屋で一人窓の外を眺めていた。 小さく扉をノックする音がして、遠慮がちに扉が開けられる。リイナはそれが誰か知っていた。 「リイナ・・・」 少年が、スープとパンの乗った盆を持って立っていた。リイナは窓の外を眺めたまま、黙っている。 おずおずと、少年が扉を閉めてリイナの元に近づいてくる。 「リイナ、なんぞ食べんと体に悪いさけ・・・」 いつもなら、少年はもう帰っている時間だった。だが、迎えにくるラルフはもういない。小屋に帰っても誰も、いない。 「やっぱり、嘘つきだったわね、ラルフは。 なあんにも約束果たしてくれなかったわ。指輪も、夢も。」 リイナは窓の外を眺めながら、そう言った。窓の外に見えるのは、闇の中にぽつぽつとぼんやり灯る窓の明かりばかり。 「リイナ・・」 少年がテーブルに盆を置いて、それから何か言葉を探しているのがわかった。 「やあね、あたしは、大丈夫よ。大丈夫。 こんな仕事してたら、慣れるものよ。別れなんて」 そう言って、少年を振り向いて、笑おうとする。だが、それは上手くいかなかった。 唇が震えて、目が潤む。ぼろぼろと堪えていた涙がこぼれた。少年がリイナに近づいてきて、その涙を拭おうとする。その、伸ばされた手の中に、リイナは飛び込んだ。 少年の肩に顔を埋めて、リイナは泣いた。 少年はリイナを受け止めながら、リイナの、白粉の匂いを感じていた。背中がざわざわするその匂いの正体に、少年はそのとき初めて気がついて、目を閉じる。 ・・・ああ、そうなんやね・・・これは、寂しいっていう匂いなんや・・・ それはリイナの寂しさなのか。それとも。 「イーリス、お願い、側にいて。今夜だけでいいから。眠るまででいいから、側にいて・・」 リイナがすがるように囁く。少年はだまってリイナを抱きしめた。 「・・・なあ、リイナ。僕は・・・おっちゃんに似てるかな・・」 リイナは涙に濡れた顔をあげると、少年の頬を両手でそっと包み込むようにしてその顔をのぞき込んだ。 「・・・似てるわ。でも、あなたの方がずっと温かくて、ずっと優しいわ」 似ていても。似ていなくても。お願い、今だけ、ラルフの代わりでいて。 そう願うリイナの心に応えるかのように、リイナを抱きしめる少年の腕に力が籠もった。 少年は眠るリイナをベッドの傍らに立ち、見つめていた。 涙の跡がリイナの頬に残っている。その額にそっと自分の額を近づけて。 ・・・リイナ。 少年は目を閉じてそっと眠るリイナに囁く。 ・・・形に残るものを何か残すことも愛やけんど。 何も残さへんのんも、やっぱり、愛なんや。 おっちゃんは、ほんまに、リイナのこと、好きやったんよ。 ほいじゃけ・・・リイナ。 リイナの胸の奥で、おっちゃんを眠らせてやって。 そしたら、いつか夢の中でおっちゃんに会える。 そうして、リイナから離れるとポケットの中の指輪を握りしめて呟く。 「・・・ごめん、リイナ・・・ごめん」 部屋を出ていこうとしてサイドテーブルの上の酒瓶に目をとめる。ラルフの好きだった酒。少年はそれを手に取ると 「リイナ。飲み過ぎたら、いかんさけ、これは僕、もろうていくな」 そう囁いて扉へ向かった。部屋を出て扉を閉める前に、少年はもう一度だけリイナを振り向いた。影になって、その頬の涙の跡はもう見えなかった。 ラルフの墓は町外れの共同墓地の端にあって簡素なものだった。まだ新しい土がこんもりと盛り上がり、その上に木でできた粗末な十字架が建てられている。 少年はその前に立っていた。 ラルフはもう、この場所にはいない。彼の魂は天界へ昇った。それがわかっているのに、ラルフに語りかけるにはここがふさわしいような気がして。少年は、リイナのところから持ってきた酒瓶を持って大きくあおった。しかし、すぐに強いアルコールにごほごほとむせる。腕で口を拭って、咳き込むのが止まるのを待つ。 「あはは、やっぱり、僕は、おっちゃんと違うて〜こういうのは苦手じゃあ」 笑ってそういう少年の目から、涙がこぼれた。それを、少年はぐいぐいと腕でこする。 それは、誰のものでもなく。少年自身の涙だった。 少年は残りの酒をラルフの墓にかけた。 「おっちゃん・・・・おっちゃん、僕は・・・・僕は、ほんまは・・・・」 鼻をすすりあげ、少年はそう呟く。だが、そこで言葉を止めて。 ・・・坊主、お前、これからもそうやって生きていくつもりなら。 嘘は墓場まで持っていけ。 少年はもう一度ぐいっと腕で目を拭うと、にっこりと笑ってみせた。 「・・・僕は、ほんまに・・・寂しゅうは、ないんや・・・!」 そうしてポケットから銀色の指輪を取り出す。これを薬指につけていいのはリイナだけで。小指にはまだ大きくて。少年はそれを中指に通した。そして、夜空にすかすように手をかざして見上げる。 これが、約束。 少年はもう一度、ごしごしと腕で顔をこすると、翼を広げた。 朝を告げて囀る鳥の声に目を覚ましたリイナは、起きあがって窓をあけた。 空は青く、どこまでも澄んでいて。そして、いつもと何の変わりもないようで。 夢を見ていた気がした。ずっとラルフが側にいてくれたような。 哀しみは哀しみとして胸の奥に溜まっているけれど、不思議にもう涙は出なかった。 そして、リイナは。 店を出ようと思っていた。自分で金を貯めて。店を出よう。白い、小さな家を田舎にでもいい、探して。 そこで暮らすのだ。もう一度、誰かを好きになってもいい。 でも。 もう、薬指に指輪ははめない。ここは、ラルフの指輪のための指だから。 それでもいいと言ってくれる男なら、もう一度好きになってもいいわ。 そして、小さい白い家で。夢の続きを見るのよ。 人なつこい顔をして笑う男の子を育てて。 そこで、リイナはその子供のイメージが鮮明なのにふと驚く。誰のこと? だが、やがてそれはそんなに大したことでもないような気がして笑った。 リイナは窓辺を離れると、生きていくために大きく伸びをして、部屋を出ていった。 END |