「ねえ・・・そろそろ起きなさいよ」 オレンジ色の夕日に染まる町が窓から見えていた。ラルフはだるそうに目に入る光をさえぎるよう腕を上げた。リイナがベッドサイドに立ってラルフを見下ろしている。 「なんだよ、つれねえなあ・・・」 ニヤリと笑ってそう言うラルフに向かってリイナは眉をひそめて言った。 「何を馬鹿言ってるわけ? 早く起きなさいよ、あの子、今日ずっと働き通しだってのに」 それを聞いてラルフはよっとベッドに起き上がった。 「なんだよ、結構真面目に働いてるんだな。ま、そうだろうと思ったけどよ」 「あんた、あの子、どうする気?」 「・・・さあ? 別にどうしようとも思ってねえけど?」 しれっとして言うラルフに、リイナの瞳に苛立ちが募る。 「あの坊主は、どうせ長くはここに居着きはしねえのさ。 俺はねぐらと飯の種をちっとばかり、提供してやっただけのことだ」 服を着ながらそういうラルフにリイナは 「昔の自分みたいでほっとけないって言うわけ? あんたにそんな心があったとは驚きだわ」 そう、突き放すように言った。昔の、あの少年と同年代のころのラルフを、もちろんリイナは知らない。ラルフも話さない。自分の知らない過去のことを、あの少年に重ねているようなラルフのことがリイナは嫌いだった。自分にけして心を許してくれていないような気がして。しかし、そんなリイナの気持ちに気づかないかのように、ラルフはベッドを降りると笑いながらリイナの横を通り過ぎて扉へ向かった。 「なに、まあ、いつもの気まぐれってところだ。焼きもち焼くなよ、え? リイナ」 笑い声をあげて部屋を出て行くラルフに向かって、リイナの声が響いた。 「誰が焼きもち焼きですって!!」 ラルフが階下に下りてみると、店の片隅のテーブルで少年が店の女たちに囲まれていた。今日のところは仕事が終わりなのだろう。それにしても、下働きの少年に、あんなに女たちが面白がって寄っていくのが不思議だとラルフは一瞬、思ったが、それもわかるような気もしていた。 ラルフも、多分、あの少年でなければ街中で一人ふらふらと歩いていたところで声をかけたりしようとは思わなかっただろう。あの少年には何かがあるような気がする。あのころの自分に似ている気がするのも本当だ。だが、あの少年には何かそれだけでなく、人を引き付け癒す魅力があるような気がする。そう思ってラルフは苦笑した。それじゃあ、自分は癒されたいとでも思っているというのか。馬鹿馬鹿しい。 ラルフの姿を階段に見つけた少年の顔が、ほっとしたように輝く。ラルフは気がついていたが、この少年はどうやらこの店にいるような、生々しい女性たちが苦手ならしい。あの年なら仕方ないのかもしれないが、珍しいとも言える。いや、女性がというよりも、とラルフは思う。人が苦手なのかもしれない、と。愛想もいい、一見、懐いているようにも見える。だが、自分のことは何も話そうとはしない。まるで、俺のようだ・・・。そうしてもう一度苦笑する。 「おっちゃん、もう、帰る?」 少年がテーブルを離れてラルフの元へ駈けてくる。ラルフは少年の頭に手を置き、その髪をかき混ぜるように撫でまわすと 「何を情けねえ面してんだよ、坊主。 店のべっぴんを独り占めしてたんだ、ちっとは自慢そうな顔しろや」 と言った。少年は、困ったような顔をしてにゃはは、と笑った。その顔が妙に可笑しくて、ラルフは仕方ないというように笑うと、少年を連れて店を出た。そうしてしばらく歩いてから、ラルフは自分が、いつもならリイナに頼み込んで持ち帰る酒のことをすっかり忘れていることに気がついたのだった。 少年は、その店で働き出すようになって日が浅いにも関わらず、店の者たちの人気者になっていた。気難しいと評判の料理長でさえ、少年には無愛想ながらも優しかった。 「それはね、料理長の料理をおいしい、おいしいって食べるのが、イーリス、あなたくらいだからよ」 リイナが笑いながら厨房で少年に向かって言う。リイナも、店の売れっ子だというのに、暇があれば少年の元へやってきては話をしていた。 「リイナ、お前にはもう、俺の飯は食わせねえぞ」 奥から料理長の声がする。リイナは少年に向かって、片目をつぶって舌を出してみせた。少年はジャガイモの皮をむきながら、そんなリイナと一緒に笑った。 「ねえ、イーリス、あなたと一緒のときってラルフってどんな話をするの?」 リイナはそう尋ねてから、すぐにその質問を取り消した。 「・・・ううん、ごめん、そんなことそういう風に聞くのってフェアじゃないわよね」 少年は、訝しげな顔をしてリイナの顔を見上げる。リイナは苦笑して自慢のブルネットをかきあげる。 「・・・ごめんね、なんだか・・・ラルフって何も言ってくれないから。 イーリスには、そうじゃないような気がするの、ラルフが誰かを自分から連れてくるなんてなかったから」 「・・・おっちゃんは、リイナと一緒のときと同じようなことを話すだけやよ。 人生には、美味い酒と、きれいな女の人と、自分が入る墓穴さえあったらええって、いっつも言うちょる」 それを聞いてリイナは笑った。 「ほんっとにしようがない男よねえ、ラルフって。 あんたみたいな子に何言ってるんだか・・・。」 その言葉に少年はやっぱり不思議そうな顔をしてリイナを見上げる。 「あんたみたいな子は、本当はこんなところには似合わない子だと、あたしは思ってるのよ」 リイナはそう言うと少年の頭を、ラルフのようにくしゃりと撫でた。くすぐったそうな、困ったような顔をして少年が肩を竦める。 「ラルフはねえ、あなたが自分に似ているって言ってたわ。 だから、あなたには自分のようになってほしくなくて、あなたに構うのかも。」 「僕、おっちゃんに似てる?」 「さあ、あたしにはわからないわ。だって、ラルフのことなんて何も知らないんだもの。」 そう言ったリイナの言葉がどこか投げやりに聞こえたのか、少年はジャガイモを剥く手をとめて心配そうにリイナを見上げた。それに気づいたリイナは、苦笑しながら、なんでもない、というように少年に向かって手を振って見せた。 「・・なんでもないわ、大丈夫。」 「けんど、おっちゃん、リイナの恋人じゃろ、リイナの事、好きなんと違うん?」 無邪気にそう尋ねる少年に、リイナは苦笑した。 「恋人、に見える? 違うのよ。恋人なんかじゃない。 ねえ、わかるでしょ、この店がどんな店なのか。」 そう言われて、少年は困ったような顔をして頷いた。だが、再びジャガイモの皮を剥き始めながら、少年はあえて明るい声で言った。 「けんど、おっちゃん、リイナにしか会いに来いへんやんか、リイナのこと、好きなんやって」 「そうかしら。都合のいい女なだけかもしれないわ」 「そんなこと、ないって。リイナ、ここで一番べっぴんさんやし・・・」 その言い方がラルフに似ていて、リイナは声を出して笑った。 「やあねえ、「べっぴんさん」だなんて、いつの間にそんな言い方を覚えたの」 照れたような顔をして少年もにゃはは、と笑った。 「おい、いつまでジャガイモの皮剥いてるんだ?」 料理長がそこへ顔を出す。少年は慌てて自分が皮を剥いたジャガイモを見、それからしまった、というような顔をする。言われていたより随分と多くのジャガイモの皮を剥き終わっていた。リイナとの話に気を取られて、ついつい剥きすぎてしまったらしい。料理長は黙ってそのジャガイモの山を眺めると、籠に山盛りのジャガイモを運んでいった。 「今日はもう、ジャガイモ料理しか作らねえぞ、坊主、お前の飯もジャガイモだ」 「料理長さん、ごめんやあ〜」 そう言って立ち上がる少年に、リイナもその場を立つ。 「ごめんね、あたしのせいで・・・・。そろそろ店に戻るわね、またね、イーリス」 少年がリイナを一瞬心配そうに振り返る。でも、リイナは振り向かなかった。 あんな少年に向かって、ラルフに対する不安な気持ちを言いそうになるなんて。どうかしてるわ、とリイナは思っていた。 「なあ、おっちゃん、リイナのこと、好き?」 ラルフは突然少年にそう尋ねられて、飲みかけの酒のコップを落としそうになった。店から戻って小屋の中で少年はそろそろ眠る支度をしているところである。 「なんだよ、坊主、お前、リイナに惚れたのか?」 「ち、違うき〜!」 慌ててそう言う少年に、ラルフは笑いながら言った。 「いいぜ、俺に遠慮すんな、リイナが好きならモノにしてこいよ、譲ってやるぜ?」 「お、おっちゃん!! そねいな、言うてええことと悪いことがあるがよ! リイナはおっちゃんのこと、好きやのに そねい酷いこと・・・!!」 珍しく、本気で気を悪くしたような少年に、ラルフは苦笑する。 「なんだよ、お前、リイナの仕事を知らねえわけじゃないだろ? 別に俺はリイナを独占してるわけじゃねえし、あいつだって俺以外の客だってとってるさ」 「そ、そうやけんど、そねいなこと・・・・!」 視線を落として言い募る少年にラルフは不意に意地悪を言いたくなったのだった。場末の娼館の男と女に、愛だの恋だのを信じたいなどと思っている、少年の純な心が少し憎らしく思えたのかもしれない。自分がとうの昔に信じられなくなったものを、まだ信じていることに。 「坊主・・・お前、若いなあ。 好きだの、恋だの愛だのだけが、男と女の間にあるなんて思ってるんじゃねえだろうな。 好きでなくても女を抱けるし、女だって好きでもねえ男に抱かれるくらい朝飯前なんだぜ」 むっとしたような顔で黙り込んだ少年に、ラルフは挑発するように語り続ける。 「リイナだってそれくらい承知の上だ。別に俺とリイナは恋人どうしってわけじゃねえしな」 「けんど、けんど、おっちゃん、いっつもリイナにしか会いに行かんじゃろ」 「それでも、俺とリイナは違うんだよ。 言っとくけどな、坊主、女抱いたこともないようなガキんちょに、 どうこう言われたかないぜ。 あ? お前、女の経験なんざ、ねえだろ?」 「ぼ、僕は・・・」 口ごもるように言う少年を見て、ラルフは少し自分の大人げないことを感じて、そこでもうおしまいにしようと思った。本当に、この少年は女を抱いたことなんてないんだろうし、リイナのことだって別に悪気があってラルフに食いついたわけでもなし。 だが、口ごもっていた少年は、やがて呟くようにこう言った。 「僕は、誰ともそねいなことにはなるつもりはない・・・なったらいかんのんや」 その言葉に、今度はラルフがどきりとする番だった。 まるでそうと決めてしまったかのような、その言葉。誰とも関わらずに生きていくのだと言うかのような。 「・・・何を、まだ産まれて20年も立ってねえようなガキがほざいてるよ。 いつも言ってるだろうがよ、人生は、美味い酒と、べっぴんの女と、最後に入る墓穴がありゃいいってな。 言い換えれば、その中の一つでも欠けてりゃ、つまんねえ人生ってことだぜ!」 頭をぐしゃぐしゃ掻き回してやると、困ったような、迷うような顔で少年は笑った。 「でも、やっぱり、僕は困るき・・・」 「最初は怖いかもしれねえけど、なに、そんな大したこたねえって。 お前だってそのうち、わかるさ。人肌恋しくなる夜だってあるってことだ」 自分を慰める術を覚えておけよ、とラルフは少年に言いたかった。そんな風に一人で生きていくのだというように思い詰めた事を言うなと。どうしたって拭うことのできない寂しさは誰にでもあるだろう。だが、幻でも一瞬のことでも、抱き合ってそれが慰められるなら、それでいいじゃないか。嘘でも、愛でなくても、それでいいのだ。俺と、リイナはそんなものだ。 「・・僕には、よう、わからん」 少年はそう言うと、毛布を持って部屋の片隅へずるずると引きずっていき、そこで丸くなってしまった。ラルフは、手にしたまま忘れていたコップの酒を、飲み干した。 お前、俺とリイナにはあんな風に言うくせに、どうして自分にはそうまで頑ななんだ? つづく |