一面続く荒野をいつからかずっと歩いていた。 地平は遙かに遠く。見渡す限り乾いた大地が続いていた。 自分はどこへ向かっているのだろう。自分はどこから来たのだろう。 『俺は、母さんを助けたかったんだ・・・!』 そう叫んでいたのは昔の自分。母は弱い人だった。父にすがらねば生きていけない人だった。他の女の所へ入り浸り、帰ってきても母を殴りるつけるような最低の父だったのに。母が泣く姿をいつも見ていた。 その日も、父は母を殴りつけていた。物陰からそれを見ていた自分は、このままでは母は殺されると、そう思った。気がついたときには、手にナイフを握りしめていた。 『俺は、母さんを助けたかったんだ・・・!』 だが、血を流し倒れた父にすがりついた母が言った言葉は。 『この人を愛していたのに! どんなでもいい、この人を愛していたのに!! お前など生まなければ良かった! お前が死ねばよかったのに!!』 憎しみの炎を燃やした母の瞳。その瞳に映っているのは自分なのだ。ああ、そうなのかと思った。自分は、父がいなければ母にとって何の価値もない存在にすぎなかったのだと。父をつなぎとめる道具のように、自分を愛してくれていただけなのだと。涙も出なかった。 それからずっとこの荒野を歩いている。どこにたどり着こうとしているのかわからない。この悪夢がいつ終わるのかもわからない。 生まれてはいけなかった自分は、死ぬこともできずにただ、流離う。 誰か、言ってくれ。俺に言ってくれ。・・・・何を? 苦しくて苦しくて、この旅はいつ終わるのか果てもなくて。 憎いというなら、死ねばよかったというなら、あのとき俺を殺してくれれば良かったのに、母さん。 それとも、これは罰なのか? 誰か、言ってくれ。俺に言ってくれ・・・・ ふいに、声が聞こえた気がした。 ありがとう、と。 立ち止まって、空を見上げた。荒野の上に広がる空は青いのだと初めて気づいた。 手を取られてぎょっとして傍らを見ると、一人の少年が立っていた。 彼はにっこり笑って乾いてぼろぼろになった手をとり、一緒に歩こう、と引っ張った。つられて、再び歩きだしながら、自分を引いて歩く少年の後ろ姿をじっと見ていた。そうして、ふいに、その少年が昔の自分だという気がして握りしめる手に力がこもる。 少年は振り向いてにっこり笑うと ・・・生まれてきてくれてありがとう、僕を見つけてくれて、僕に出会ってくれて、嬉しいんや そう言った。その言葉を聞いたとたん、急に視界がぼやけて、どうしたんだと不思議に思った。頬を熱いものがつたっていくのを感じて、泣いているのだとわかって驚いた。その涙を止めることもできず。 ああ、そうだ。俺はずっと誰かに許して欲しかった。生まれてきたことを許してほしかった。 なあ、お前、俺なのか? そう問う声は声にならず。涙の止まらぬまま、その場に膝をついてしまった自分を、少年が抱きしめる。温かくて優しい腕が自分を抱きしめてくれている。 なあ、お前、俺なのか? もし、お前が俺なのだったら、俺もお前に言ってやる。 お前は生きていていいんだ。幸せになっていいんだ。誰かを愛してもいいんだ。 寂しくなくて、辛くなくていいんだ。 俺がいてやるから。俺がお前の側にいてやるから。 ラルフは立ち上がり、少年の手を引いて再び歩き出す。 なあ、この荒野を歩いていこう。たとえ、終わりがなくても。一緒に、歩いていこう。 目が覚めて視界に飛び込んできたのは、わしゃわしゃの黒い髪の毛だった。リイナはブルネットだし、ましてやここは自分の小屋だ。 ・・・寝相の悪いガキ・・・ 小さく溜息をつくと、ラルフは自分を抱えるようにして眠っている少年を起こさないように気をつけながら体を起こした。夢を見ていたのを覚えている。いつもの夢だ。 違っていたのは・・・・ そうして、もう一度少年の顔を見る。夢の中で一緒に歩いていたのはこの少年だったのか。 ラルフはまだ眠っている少年の頭をこづいた。 「・・・・んあ〜・・・ああ、おっちゃん・・・」 眠そうに少年が目を擦る。 「・・・坊主、おめえの寝る場所は向こうだろうが。寝相が悪ぃにも程があるぞ、おめえ。 人の布団にもぐりこんでくるたあ、おっかさんでも恋しくなったかよ、え?」 少年は、にゃはは〜と笑うと、元気にその場に立ち上がった。 「大丈夫や〜♪ なあ、おっちゃん、リイナ待ってるし〜早う行こう〜」 そう言ってラルフの手を取り立ち上がらせようとする。その手の温もりが夢の中と重なって、ラルフは少年をまじまじと見つめた。 「坊主・・・おめえ・・・・」 俺の夢に出てきたか? そう聞こうとしてその馬鹿馬鹿しさに気づく。そうして笑いながら立ち上がると、 「なんだよ、やっぱりおめえ、リイナに惚れてるんじゃねえかよ。 リイナは逃げねえから、顔くらい洗って男前を上げてこいよ」 と言った。わはは〜と笑い声をあげた少年が、言われて小屋の外の井戸に駈けていく。 ・・・お前、あの頃の俺と同じなのか? その後ろ姿を見送りながら、ラルフはそんな風に考えていた。だが、少年があの頃の自分と違うこともわかっていた。 ・・・あの頃の俺は、お前と違って誰かを抱き締めるための腕なんざ、持ち合わせちゃいなかったな。 「だけどなあ、リイナ。わかるだろう? あの坊主は・・・俺やお前のことを心配する。抱き締めようとする。 けど、自分が抱き締められるってことを知らねえ気がするんだ」 ラルフが珍しくそんなことを話している。リイナは小さく溜息をつく。どうして、この人ってこうなのかしら、と思う。どうして、私や、自分や、自分と私、二人のことを話してくれないのかしら。どうして、イーリスのことを、そんなに心配するのかしら。 リイナの部屋で酒を飲みながら、ラルフは朝からそんな調子だった。これでまた、今日も客はとれないわけね、と思いながらそれでもリイナはラルフに付き合う。最近のラルフはどこかおかしい気がする。そう、イーリスのことになるとどうもおかしい。 「ねえ、どうして、そんなにあの子が心配なの? あの子は、あなたと違うわ。ずっと素直で、ずっと優しくて、 こんなところであなたや私みたいに腐っていく子じゃないの。心配することがある?」 「リイナ、お前にはわからねえさ。わからねえ。」 「わかるわけ、ないでしょ、あんたが何も言ってくれないんだから!」 それきり黙ってしまったラルフに、リイナも拗ねたように背を向ける。自分は、なにも悪いことは言っていない、と思う。だが、黙ってしまったラルフに、なんとなくリイナは自分がラルフを傷つけてしまったような気がして後ろめたい気分になってしまっていた。もちろん、リイナだってイーリスのことを気に入っている。だから、ラルフの気持ちも多少はわからないでもない。なんといっても、イーリスだって訳ありには違いないのだろうから。 「・・・・悪かったわ、ラルフ。でも、あたしは、あの子よりもあんたの方が心配よ」 リイナはラルフに向き直ってそう言うと、額をラルフの肩にあてた。 ラルフはそんなリイナの背に腕を回すと、自嘲気味に笑いながら言った。 「俺にはもう、大した人生は残っちゃいねえ。 そんな俺に付き合わせて、少しは悪ぃと思ってるんだぜ、リイナ。」 「・・・バカね・・・あたしが、好きであんたに付き合ってるのよ。 そんなこと、突然言うなんて、なんだか調子狂うわ。 それに、あたしだってあんたと一緒。こんなところにいるんだもの。 この先、大した人生があるなんて、思ってもいないわよ」 ラルフはそう言うリイナを抱き締めている自分の腕を見ていた。今の自分は、誰かを抱き締めるための腕を持っているだろうか。自分の腕は、ちゃんとリイナを抱き締めてやっているだろうか。今も自分は、そんな腕を持っていないのではないだろうか。 「リイナ。俺は、あの坊主を助けてやりてえ。 そうしたら、俺も変われる気がするんだ。どうせ大した人生じゃなくても 何か、俺の人生だって意味があるものだったというように思える気がするんだ」 もう、あんな夢を見ることもなく静かに眠ることができるような気がするんだ。 なあ、リイナ、あの坊主は俺の夢の中で俺に言ったんだ。 ・・・僕を見つけてくれて、嬉しいんや、ってな。 「まあ、いいわ、あんたの思うようにしてみりゃいいじゃないの。 あたしには、あの子の何がそんなに心配なんだかちっともわからないけど でも、あの子はとってもいい子だし、あんたの言うように何かあるっていうなら 助けてやってよ。 まだ会って日も浅いのに、不思議だけどこの店の子もみんな、あの子が好きなのよ?」 そのとき、ラルフとリイナの耳に、二階のどこかの部屋の扉が大きな音を立てて乱暴に開けられる音と当の少年の『ご、ごめんや〜』という上ずった声と階段を転げるように駆け降りていく足音が聞こえたのだった。 その尋常でなさにラルフもリイナも慌てて立ち上がり、部屋の外へと出る。店の中にもう少年の姿はなかったが、二階の突き当たりの部屋の扉が開け放されており、そこで店の娘が一人、呆然とした顔で立っていた。 「なに、どうしたのよ、エルザ」 リイナがその娘に向かって呼び掛ける。娘はその呼び掛けにリイナの方を見ると肩を竦めるようにしてつまらなそうに言った。 「フラれちゃった」 そうして、部屋の扉を閉めてしまった。ラルフとリイナは思わず顔を見合わせる。そうして、ラルフはちっと舌打ちをすると、 「まったく! 仕方ねえなあ!!」 と呟いて階段へ向かった。 「悪ぃ、リイナ。手のかかるガキんちょの世話してくらあ!」 ひらひらと手を振ってそう言うラルフに、リイナも苦笑しながら声をかけた。 「まあ、せいぜい頑張ってくるのね、 あの子、大事な働き手なんだから、ちゃんと連れて帰ってきてよ?」 そうして、先程閉じてしまった部屋の扉の前まで行って、扉を叩きながら言う。 「ちょっと! エルザ! 店の子にちょっかい出すんじゃないわよ!! 今度こんな真似したら承知しないからね!!」 つづく |