「ふわ・・・・」 その日何度目かの欠伸をしながら、少年はジャガイモの皮を剥いていた。この店で働くのは結構楽しい。いろんな人を見ることができるからだ。料理長はいい人だし、店の女の人もちょっと苦手ではあるけれどみな優しい。喜怒哀楽が溢れていて、生きている人々がここにはいる。 ラルフだって、きっとそういうところが好きなんじゃないのかなと思う。リイナはこの店の女の人の中で一番、命が輝いている。だから、きっとラルフはリイナを好きなんだと思う。ラルフは何かを隠していて、それは凄く悲しいことなのだと感じている。でも、きっとリイナみたいに輝いている人と一緒にいると、それがちょっとは和らいだりするんだと思う。 天使である自分は、そういう心の奥底にあるものを無意識に感じ取ることができる。人間の抱えている胸の痛みや、あるいは温かな思いをシンクロするように感じ取ることができるのだ。上級天使ともなれば、それを自在に感じ取ったり遮断したりと調節できるらしいが、いまだ幼い少年は、自分でさしてそれを操ることができるわけではない。反面、よほど強い思いでなければ感じることも少ないのではあるが。ただ、ラルフの胸の奥の痛みは時々余りにも強くて、たとえば昨晩のように少年の眠りを覚ますこともしばしばだった。 ・・・でも、おっちゃん、起きて、リイナと一緒にいたりするときは、和んでる気がするんや もちろん、少年と一緒にいるときも安定しているように感じるが、それは多分、自分が天使であるせいだろうと思っている。リイナはきっと、ラルフの胸の痛みを癒してくれるはずだ。 考え事を続けていてまたこの前みたいにジャガイモを剥きすぎてはいけない。少年は、ひのふのみい、と剥き終えたジャガイモの数を数えると、厨房の奥の料理長のところへ運んで行った。 「料理長さん〜! ジャガイモ剥けた!」 「ああ、そこへ置いておけ」 むっつりとした料理長がそう言う。少年は言われた場所までジャガイモの入った籠を運び、そこへ降ろした。これ以上はないくらいに細かく刻まれた野菜が、申し訳程度に浮かんだスープを料理長は作っていた。味は塩味、塩が入っているだけでもありがたく思え、というようなスープである。すこぶる評判の悪いスープだが、たいていどの料理を頼んでもついてくる。このスープがサービスだったりするのだ。 料理長はそのスープを器に取ると少年の目の前に置いた。それから、一昨日の残りの固くなったパンを2個渡す。 「昼飯にしろ、しばらく休憩だ」 「ありがとう〜!!」 固いパンと不味いスープにこれほど喜ぶのも珍しい。少年はスープ皿とパンを持って厨房の隅に座り、はぐはぐと囓りだした。固いパンも塩味のスープに浸すと柔らかくなるし、味もついてちょうどいい具合になるのだ。少年がそのパンを1個と半分くらい食べ終えたころ、厨房に店の女が一人顔を出して言った。 「ねえ、エルザが部屋に食事を運んでくれってさ、イーリスに」 料理長はそれを聞いて片方の眉をあげてみせる。厨房の手伝いが少年の仕事で、食事を運ぶなんてことは仕事のうちに入っていないからだ。それを察した女が、何やら訳ありげな笑みで料理長に向かって笑いかける。 「いいだろ? そんなに時間はかからないはずさ」 何か言いたげな料理長が何かを言うより早く、少年がスープ皿を置いて立ち上がった。 「ええよ、僕、運ぶ」 やめておけ、と言いたげな料理長だったが、結局はむっつりとした顔でパンとスープの入った皿を盆に乗せて少年に渡した。 「二階の突き当たりの部屋だよ」 言われて少年が階段へ向かった。その後ろ姿を見送りながら料理長が溜息をつく。 「なに、心配しなくたってエルザは失敗するわよ。 エルザ以外はみんなダメって方に賭けてるんだから」 女が笑いながらそう言う。 「悪い遊びだ、あんな子供をモノにできるかどうか賭けるなんて」 「あながち遊びってだけでもないみたいだよ、あの子を気に入ってる女はこの店には多いのさ」 少年は階段を登り、盆を片手で支えながら突き当たりの部屋の扉を軽く叩いた。 「エルザ? 料理持ってきたけんど・・・」 部屋の中から、入って、という声がする。上手に片手で盆のバランスを取りながら扉を開け、中に入る。 「閉めて」 言われて、背後の扉を閉める。エルザはベッドの縁に一人で座っていた。少年は両手で盆を持ち直すと、そのエルザに近づいていった。 「エルザ・・・」 この料理、どこに置いたらいい? と聞く間もなく、エルザが立ち上がって少年に近づいてきて赤い爪が妙に生々しい腕を首に絡めてきた。思わず、のけぞりそうになるのを思いの他強い腕が許さない。白粉の匂いがして、ざわざわした感じが背筋を這い上がってくる。なんとか、持っている盆のおかげで体を密着することは免れていたけれども、体の透けて見えるような薄い服を纏っただけの姿が目の前にあって少年はこれはいったいなんなのだろう、どういう意味なのだろうと考えこんでしまった。 「ねえ・・」 赤い唇が吐息とともに言葉を吐き出す。どこか頭の隅でその言葉を少年は聞いていた。とりあえず、このお盆をどこかに置かなくちゃ、料理をぶちまけてしまっては料理長に申し訳ないし。そんなことを思いながらじりじりとベッドサイドのテーブルを少年は見つけてそこへ動こうとする。ベッドへ向かうのは女だって歓迎しているわけだが、少しは焦らしたい気持ちもあって、少年が思うほどに移動は簡単ではない。何も言わない少年が何を思っているのかと、女は少年の首に絡ませた腕をゆるめ、少年の顔をそっと手で包み込んでその瞳をのぞき込む。 「料理・・・冷める前に食べんと・・・」 やっと少年がそう言うと、女は笑った。 「いいの。別に食べたいから頼んだわけじゃないんだもの」 「え・・でも・・」 「ねえ、わかるでしょう? あたしが言いたいこと」 ぷるぷると少年が首を横に振る。息が詰まりそうな白粉と香水の匂い。 なんだろう、どうしてこんなにざわざわするんだろう。化粧の匂いを知らないわけではない。ただ、ここの女の人は何か違う。違う匂いがする。とにかく、料理を置いて厨房に帰らないと。まだ仕事は終わってないし。 少年がそんなことを考えているのに焦れたのか、女はぐいと首に絡ませた腕で強く少年を引き寄せ、強引に少年の唇を塞いでしまった。 「!!」 いきなりのことに少年は驚いて盆を落としそうになるのをなんとか、こらえる。口腔に広がるぬるりとした感触も生暖かいのも、どこか人ごとのようで実感はない。とりあえずお盆をどうにか・・・とじりじり動いていく。その気になってきたと思ったのか、女もベッドへ向かって少年を導きだしたので、楽になった。女は少年の首に腕を絡ませたまま、ベッドに腰掛けた。少年はなんとか屈んだ体勢のまま、その脇にあるテーブルに盆を置くと、急いで体を女から離した。は〜〜〜っっと息を吐いてベッドに腰掛ける女を見る。 「・・・・・・」 ずきり、と胸が痛んだ。違う。これは、自分の思いではない。目の前のこのエルザの胸の痛みだ。傷つけた? だが。自分はそれに応えることはできない。 「やっぱり、こんなところの女はイヤなの?」 違う。そうじゃなくて。誰であっても。それが誰であっても。少年は首を横に振る。 「あの・・・僕・・僕・・」 女の手が自分に向かって伸ばされるより早く、少年は駆け出していた。 「ご、ごめんや〜!!」 扉を開け、階段を駆け下り、店を飛び出す。何か、店の他の女の人たちが笑っていたような気がしたけれどもよくわからない。とにかく走って走って、ラルフの小屋まで戻ってきてしまった。 「あ・・・仕事・・・」 しまった、と思ったけれども一人ではどことなく帰りにくい。とにかく落ち着こうと少年は、小屋の外の井戸に近づくと冷たい水を汲み、口に含んだ。鉄っぽい味のする水をごくごくと喉に流し込む。 「・・・・はぁ〜・・・・・」 桶にくんだ水に映った顔を見ると、唇に赤い紅がついていた。慌ててごしごしと手でそれを拭う。 びっくりした・・・・正直な少年の感想だった。エルザには悪いことした。そう思った。好きとか嫌いとかそういうことではなくて。上手に説明できなかったことが尚更申し訳なく思えた。 はぁ〜・・・水に映った顔を見ながら溜息をつく。と、いきなり後頭部を拳で軽くこづかれた。慌てて振り向くと、ラルフが立っていた。 「何をシケた顔してんだよ、坊主。しなだれかかる女をフってきた色男とは思えねえな」 「おっちゃん・・・」 知られたということが、妙に恥ずかしかった。 「据え膳食っちまえばよかったのに」 笑いながらラルフは少年にそう言った。別に悪いことじゃない、そう続けもした。 「お前、なんにも感じなかったのか? エルザに迫られて?」 「・・びっくりしたけど・・でも、僕はそんなつもりはないし・・」 頭を掻きながら申し訳なさそうに言う少年に、ラルフは苦笑する。お堅いというか、朴念仁というか。 「エルザ、怒ってた? それとも泣いてしもうたりしたやろうか・・」 心配そうにそういう少年の背中をラルフは叩いた。 「バカ野郎、それはお前じゃなくてエルザが心配することだろうがよ。 悪いことしたって思ってるさ、今頃は」 ちょっとほっとしたような少年に、ラルフは別に人嫌いってわけじゃないよなあ、と考える。むしろ、優しすぎるくらいにも思える。なのに、どこか頑固に人を拒んでいるようにも思えるのは何故なのだろう。くしゃり、と少年の黒髪を撫でながら、ラルフは少年に言った。 「お前、寂しくないのか? 一人で旅を続けてて寂しくなったりしないのか?」 「? なんで? 僕は別に寂しゅうはないよ。だって、ほら、今かておっちゃんや、リイナや料理長さんや、いろんな人に会えたし、毎日、楽しいし・・」 「だが、ずっとここに居るつもりはねえんだろ?」 「・・・・うん、ずっとは、おれんけんど・・」 「・・俺が、一緒に行ってやろうか?」 そう言ったラルフに、少年は驚いたように顔を見上げた。 「そんな、おっちゃん、リイナはどうするん。 僕は大丈夫やって。一人は慣れてるし、 新しい街に行っても、また新しい誰かと出会えるんやし・・」 「・・・そうか」 少年の答えを聞いて、ふいと視線を逸らしてしまったラルフに、少年は慌てて付け足す。 「でも、おっちゃん、ありがとう、僕、嬉しい、そねいに言うてくれて、嬉しいんよ」 「・・・坊主、お前、嘘つきだな」 笑いながら、ラルフはそう言った。その言葉に少年は虚をつかれたようにラルフを驚いた顔で見上げた。だが、ラルフはそれ以上を言わず、少年の背中を叩いて店へ戻るか、と言った。少年は、頷くとラルフと一緒に歩きだす。 「しかし、坊主、どうするよ? たぶん、お前また同じ様な目にあうことになるぜ?」 半ば面白そうにラルフがそう言う。少年は困惑した顔でラルフに助けを求めるような顔をしてみせる。思わずラルフは笑い声をあげると、少年に向かっていった。 「坊主、お前、今日、リイナの部屋に泊まれ。金は俺が出してやるから」 店に戻った少年に、料理長は何も言わなかった。少年は、料理長に謝ったが、休憩の間のことだから、さぼったことにはならねえ、ということらしかった。ありがとう、という少年に、料理長は冷めたスープの替わりに新しいスープをサービスしてくれた。あいかわらず、しょっぱいだけのスープだったが、少年には充分おいしいものだった。 その夜。 少年はリイナの部屋で落ち着かない様子で入り口の間際に立っていた。リイナは平然とした様子で窓の外を見ている。 「で、ラルフがあたしのところに泊まれって言ったのね?」 「・・うん。けんど、僕、やっぱり帰る・・」 そう少年が言って扉を開けようとするのをリイナが制した。 「お金もらってるんだから、いいわよ、気にしないで。 今夜はイーリスはあたしのお客よ」 リイナは窓辺から少年の側へ歩いてくるとそっとその手を取って、部屋の奥へ導く。 「けんど・・・・」 ベッドに腰掛けさせるとリイナは笑いながら少年に向かって言った。 「で、どうする? エルザにされかけたことの続きでもする?」 思いっきり少年が首を横に振る。その様子にわかっていたとはいえ、やっぱりリイナは吹き出した。 「嘘よ、ウソ。ラルフはね、他の店の子があなたにちょっかいださなくなるように、ってそう言ったのよ。 あたしがイーリスを落としたってことになれば、みんな冷めるでしょうしね」 なんや〜・・・とほっとしたように呟く少年にリイナは微笑んだ。 「じゃあ、何か話をする? 私、イーリスのこと知りたいわ」 リイナはそう言って、少年の隣に腰掛けた。自分のことを知りたいと言われて少し困ったような顔をした少年に、リイナは苦笑する。ラルフの言ってたことは、こういうことなのだろうか、と。 「今まで、旅してきた街の想い出なんか聞かせてくれない? ほら、あたしたちって店の外に出ることってホントに少ないから」 そう言われて、少年はちょっと考え、それから大きく頷く。 「・・・前に僕が居た村は、大きな森に囲まれてて、その森に守られてるん。綺麗な川が村の中を流れてて、ここは街やから、人も多いし建物も大きいけんど、そこの村は家と家の間もずっと遠くて、緑が多くて、のどかなところやったよ・・・・」 語り出す少年の顔は、想い出の中のその村を見つめているように遠くを見ていた。リイナはそんな少年を見つめてふと微笑む。自然と、自分の生まれた遠い村のことを思い出していた。もう、ずっと思い出すこともなかったのに。 それからリイナと少年はお互いのことを少しづつ、話した。少年はこれまでに出会った大好きだった人のこと。リイナは幼いころの想い出。話さなかったこともあった。少年は旅のことは話したけれども自分の生まれは話さなかったし、家族についても話さなかった。リイナもここへ来た理由は話さなかった。それでも、無邪気に二人は話し続けて、夜も更けて少し眠くなってくると一緒にベッドに入って姉弟のように寄り添いながら話をした。やがて自然と二人の話はラルフのことになった。 「おっちゃんは・・・リイナのこと、好きなんや〜」 「そうかしら。でも、何も言ってくれないわ。約束が欲しいわけでもないけど・・・ でも、証は欲しいの。 ずっと未来までの約束はいらない、でも、今だけでも思ってくれてる証が欲しいわ」 「おっちゃんに、なんぞねだってみたら? 花とか、え〜と・・・」 「そんなもの、くれるかしら? 今までだって何一つくれたことないのよ?」 「わからんちゃ〜。前と今は違うかもしれんよ」 「・・・そうね、そうかもしれないわね」 くすっとリイナは笑った。確かに、ラルフは少し変わったかもしれない。この少年のおかげで。 「ラルフはね、昔のことを何もあたしに言ってくれない。 でも、イーリス、あなたに自分の昔を重ねてるみたい。 そして、あなたを助けられたら自分も変われると思っているのよ」 「・・・僕、おっちゃんに似てる・・?」 以前も口にしたその問いを少年はまた問う。リイナは笑って答える。 「あなたの方がラルフよりずっと優しくてずっとあったかいわ。 でも、ちょっとだけ似てるところもあるわね」 自分のことを話さないことよ。それは心の中で答えて。少し似ていると言われた少年がちょっと照れくさげで嬉しげだったのがリイナには可笑しかった。そろそろ眠気もピークらしく、うとうとしかける少年にリイナは囁く。 「ねえ、イーリス。あなたはラルフと違う。 だから、どんな理由があったとしても、人を好きになることを諦めないでね。 ラルフは、諦めていると思うの。だから、あたしにも何も言わない。 でも、あなたは諦めないで? それが叶うことのないものでも、許されないものでも、告げることのないものでも それでも、人を好きにならなくちゃ、だめよ?」 そうしてくしゃくしゃの黒髪にそっと口づける。もう、半ば夢の中にいる少年が、まるでその言葉を聞いていたかのように小さく呟いた。 「大丈夫やあ〜・・・リイナ・・・」 つづく |