久々に一人の小屋で、ラルフは酒をついで飲みながら、部屋の片隅を見つめた。いつもならあのあたりで、黒いくしゃくしゃの髪の少年が毛布にくるまっていたりするのだが。いないとなると、どことなくその空間が物足りなさげに見えて、ラルフは苦笑した。元々は、自分一人でいた小屋だというのに。一度、それがある状態に慣れてしまうと、こうだ。そのうちまた、あの少年が旅立ってしまえば、これが普通になる。 そう思ったとき、ふいに息苦しさを感じてラルフは驚いた。いつか、あの少年は旅立つだろう。一人で、行ってしまうのだろう。そうなったら? そうなったら自分はまたこの小屋で一人だ。掴みかけていたものがすり抜けていくかのような、奇妙な感覚。こんなこと、今まで感じたこともなかったのに。ぐい、とコップの中の液体を一気に喉に流し込むと、胃の奥から熱い固まりがせり上がってきた。ごほごほと咳き込みながら、ラルフはなおも酒をコップに注いだ。 今頃は、リイナと一緒だな。ほんとにリイナに惚れてて、リイナとだったらその気になったりしてるかもしれねえよな そんなことを考える。別に、それならそれでいいような気もしていた。 咳が止まらず、ヒューヒューと息を継ぎながら、ラルフは無理に酒をもう一度喉に流し込む。 なんだか、結局リイナに頼ってばかりだな ちょっと自嘲気味に笑うとラルフはその場に転がった。明日は坊主がどんな顔して出てくるか朝一番に見に行ってやろう。 眠い目を擦り、ここはどこだっけ、と少年は考え込む。はたと気づけば白い腕が自分の肩を抱いていて、慌てて起きあがる。窓から差し込む朝の光がぼんやりと部屋の中を照らしていた。リイナはまだ眠っている。そういえば、そうだったと思い出して、少年は大きく伸びをした。いろいろリイナと話をした。いつもならざわざわする気持ちが、昨日の夜はリイナと一緒でもそんなふうに感じなかった。そろそろと、リイナを起こさないように少年はベッドを降りる。そうして、椅子にかけてあった上着をとって着込むと、そっと部屋の扉を開けて廊下に出た。 昨晩の酒の匂いが残っている店の中。据えた匂いが鼻につく。階段を降りて薄暗い店内を横切り、厨房に入ると、もう料理長が鍋を火にかけていた。 「あ、料理長さん〜おはよう〜!」 料理長は、少年の顔をまじまじと見つめて、それからどこか遠慮がちに尋ねた。 「リイナは優しかったか?」 「うん! 遅かったしちょっと眠いけど〜よう寝たし、おかげですっきりしたわ〜」 少年の返事に何事かよくわからないが納得したように頷く料理長であった。少年は奥の倉庫からジャガイモを取りだしてくると、厨房に座り込んで包丁を握る。 「今日は〜、いくつ剥いたらええかなあ」 しかし、料理長はそんな少年の手から包丁をすっと取り上げた。え? というような顔をして少年が料理長を見上げる。料理長は、少年から取り上げた包丁を元の棚に戻すと言った。 「今朝の朝食を食べ終えるまでは、坊主は店の客だ。仕事はさせられねえな。 ほれ、リイナが探してるぞ、行ってこい。飯は運んでやるから」 どうやら気を利かしたつもりらしい料理長だが、少年はその好意を素直に受けて、ありがとう、と言うと厨房を出ていった。料理長はまたまた深く頷いて、塩味のスープを器に入れ、朝食の準備にとりかかるのだった。 厨房を出た少年は、店の中で少年を捜していたらしいリイナに声をかけられた。 「イーリス、早いのね、朝御飯、一緒に食べましょう」 「うん」 ちょっとばかりどこかくすぐったいような気持ちで少年はリイナの元へ駆け寄る。奥のテーブルに二人で掛けると、料理長がスープとパンを持ってやってきた。そうして、二人の前に皿を置く。湯気のあがるスープの香りをくんくん、と少年が鼻をひくつかせて嗅ぐと嬉しそうな顔で笑った。 「は〜、お腹減ったし、嬉しいなあ」 料理長はその言葉を聞いて苦笑し、厨房に戻ろうとして一瞬動きを止め、リイナに小声で尋ねた。 「もう独り分、ここへ持って来た方がいいか?」 リイナが顔をあげると店の入り口にラルフが立っていた。 「そうね、お願い。お金は後であたしが払うから」 リイナは苦笑しながらそう言うと、手をあげてラルフを呼んだ。料理長はもう独り分の朝食を運ぶために厨房へ戻っていった。 「おっちゃん!!」 ラルフの姿を見た少年が椅子から降りて立ち上がる。今にも駆け寄ってきそうな少年を、手で制してラルフは二人のいるテーブルへやってきた。そうして少年とリイナの間の椅子にどかっと腰を下ろす。 「で、どうだったよ、坊主?」 おもむろにそう尋ねられ、少年は不思議そうな顔をしてラルフを見上げた。その顔をみてラルフは笑う。 「なんだ、リイナに添い寝してもらっただけかよ、やっぱガキんちょだな」 それを聞いたリイナが机の下でラルフの足を蹴った。瞬間、痛え! と声をあげたラルフに少年が声をあげて笑い出す。そこへ料理長がラルフの分のスープとパンを持って現れ、ラルフの前に置いた。塩味のスープからは湯気が立ち、馴染みの香りで鼻をくすぐる。 「たまにゃあ違うスープ作ればいいのによ」 ぶつぶつ呟きながらも、ラルフは固いパンを手にとってスープに浸して食べ出す。リイナはそれを見て苦笑しながら自分もスープを口に運ぶ。少年はそんな二人を嬉しそうに見ていた。そうして、自分もラルフと同じようにパンをスープに浸して食べる。ラルフと、リイナと二人を交互に見つめながら。一時、会話はなく、窓から差し込む朝の光がテーブルを照らしていた。ただ穏やかな時間がそこにはあり、満たされた空気があった。 「リイナ、リイナ」 少年はスープをスプーンで掻き回しながら、リイナに向かって身を乗り出して語りかける。 「なあに?」 訝しげに顔をあげてリイナが少年に向かって答えると、少年はきらきらとその目を輝かせてリイナに向かって言った。 「おっちゃんに、ねだってみたら? なあ、せっかくやんか」 その少年の言葉が昨夜の戯れ言を指していると気づいたリイナは、とんでもない、とでも言うように顔を横に振る。実際のところ、なんの期待もしちゃいないのだ。ラルフがリイナに何かそんな証になるようなものをくれるはずがない。 「なんで? ええやん、なあって」 少年の言葉にラルフも訝しげにリイナの顔を見る。 「? なんの話なんだ? リイナ」 「な、なんでもないわよ!」 慌ててそう言うリイナにラルフは疑いの目を向けた。 「どうせ、坊主に俺の悪口でも仕込んでたんじゃねえのか〜?」 にやにや笑いながらそう言うラルフに少年は違う違う、とスプーンを振り回した。バカ野郎、冗談だろうが、とラルフが笑いながら少年の頭をこづく。リイナはそんなラルフに見とれていた。こんな風に笑うラルフを初めて見たような気がした。自嘲するようでもなく、嘲るようでもなく、ただ純粋に楽しげに笑っていた。リイナはそれがただ嬉しくて、そして、自分自身の忘れかけていた遠い家族の思い出に温もりが重なって胸が熱くなった。 「? リイナ、どうかしたん?」 不思議そうに少年がリイナの顔をのぞき込む。リイナは顔をあげて笑顔を見せた。 「嬉しいのよ、イーリス。嬉しくて、楽しくて、幸せな気分なの」 ラルフと少年は顔を見合わせてお互い不思議そうな顔をする。ラルフは肩を竦めて 「なあ、坊主、女ってのは時々想像もつかねえ所へ心を飛ばしてるもんだ、気をつけろ?」 と言った。リイナはそんなラルフを机の下で蹴飛ばしながら、可笑しそうに涙を流して笑った。 長く、少年はその朝を覚えていた。この朝を共に迎えた人と別れた後も、独り微かな胸の痛みとともにこの朝を懐かしむことがあった。その朝の風景は紛れもなく少年の胸に残る宝石のようなものだったのだ。一瞬が永遠に勝ることがあると少年はその朝の風景を思い出す中で知ったのだった。だが、それはまた後のこと。 少年は急いでパンとスープをたいらげると、まだ半分くらいスープを残しているリイナとパンを囓りかけのラルフをおいて、椅子を立った。 「ごちそうさま!! 僕、もう厨房に行くな!」 ぱたぱたと自分の皿を持って厨房に駆けていく後ろ姿を見送ってラルフが苦笑する。 「あれで、気を利かせたつもりなんだぜ?」 「そうよ、素直でかわいい子だわ。優しくて。」 リイナは昨日少年と話したことを思い出しつつそう答える。 「なんだ、随分と気に入ったみたいじゃねえか?」 「あなたほどでもないわよ? ラルフ。あなたこそ、随分とあの子を大切にしてるじゃないの」 リイナは笑いながらそう答えた。今朝は、何かいいことがあるような気がした。全てが上手くいくような気が。いつもと違うことがあるような気がしたのだ。だから、リイナはラルフに言ってみた。 「ねえ、ラルフ、あなたのものを何でもいいから一つ、私にちょうだい?」 突然のリイナの言葉にラルフは驚いたように咳き込んだ。 「な、なんだよ、リイナ」 「いいじゃないのよ、もう、長い付き合いなのよ? ガラス玉の一つでもいいから、何かくれたっていいじゃない。 高いものやお金が欲しいって言ってるんじゃないの。 あなたを束縛したいわけでもないの。」 「・・・俺とお前は・・」 「そういうんじゃない、って言うんでしょ。いいわ、わかってる。 でも、あたしは、あんたに惚れてるの。」 ラルフは黙った。今まで、ラルフがリイナに「俺に惚れているんだろ?」とそう軽口を叩いたとしても、リイナはそれを肯定することはなかった。もちろん、否定もしなかったけれど、言葉に表すことなどなかったのだ。それは、無言の決まり事のようなものだった。リイナの手が、テーブルの上のラルフの手を握りしめる。ラルフは黙ってリイナの顔を見つめていたが、やがて、ふっと苦笑を漏らすと、仕方ないとでもいうように首を横に振って、リイナの手の下から自分の手を引き抜いて降参だというようにあげてみせた。 「何が欲しいんだ? 俺が今持ってるものしか何もやれるものなんざないぜ? 小屋に戻ったところで、酒の空き瓶が転がってるくらいだ」 リイナはラルフのその言葉を少し信じられない気持ちで聞いていた。 「・・・いいの?」 ちょっと信じられないといった響きの籠もった言葉に、ラルフが苦笑する。 「なんだよ、お前が言い出したことだろうが、リイナ。それとも、冗談だったのか?」 慌ててリイナは首を横にふる。だが、いざ、なんでもいい、と言われると思いつくものが何一つなかった。ラルフが選んでくれるならともかく、好きなものを言え、と言われてリイナは困ってしまった。そうして、ふと、目がラルフの手に留まる。 「・・・指輪」 「?」 「・・・その指輪をちょうだい」 リイナはラルフの左手にはめられた指輪を見つめてそう言った。それはラルフがここへ来た時からずっと左手にあって、リイナはその意味を問うことをしなかったが、その実気になっているものでもあった。 ラルフは言われて左手を自分の目の高さまであげると、指輪を見つめた。この指輪はラルフが家を飛び出したときに持ってきたものだ。母親の指輪だった。母が父からもらった唯一つの指輪。それを持ち出したのは、自分を憎んだ母への復讐だったかもしれない。だが、その後ずっと捨てることもできず、自分の指にはめていたのは、結局自分は母を愛しているということなのだろうか。 「・・・いいぜ」 ラルフはそうリイナに言った。 「ただし・・・」 そう続ける。 「俺が、死んだり、お前の前から姿を消すときにはこの指輪をお前にやる」 ラルフはにやり、と笑ってそう言った。リイナは一瞬絶句して、それから怒ったような顔になる。 その顔を見てラルフは笑った。 「なんで怒るんだ? 約束じゃねえか。俺はお前の側にいる。そうでなくなるときには証をやるっていう約束だろう?」 そうだ、そういう証が欲しかった。ただ、ラルフが死んだら、とかいなくなったら、とかそういう事を口に出されるとは思ってもいなかったのだ。リイナは溜息をついて、ラルフの指輪のはまった手を取った。男のものにしては繊細な細い指輪。誰に貰ったものなんだろうとずっと思っていた。忘れられない女がいるのだろうか、と。 そんなリイナの思いを見透かしたかのように、ラルフが言った。 「それは確かに女のものだが、お前が焼き餅やくような女のものじゃねえさ。 俺のお袋の指輪なんだからな」 リイナは顔をあげてラルフを見つめた。ラルフの手を取るリイナの手に力が籠もる。初めてだった。ラルフが自分の家族のことや自分のことを言うなんて、初めてだったのだ。 「だから、お前にやるけど、まだ、やれねえ。 ただ、俺が約束をやる女はお前だけだ、リイナ。それでいいだろ?」 ラルフはそう言った。リイナはちょっと泣きそうになったけれど、何度か頷いた。ラルフは、なぜ自分がリイナにそんなことをいい、指輪をやってもいいと思ったのか、我ながら不思議に感じながら目の前のリイナを見つめていた。 つづく |