「なあ、おっちゃん」 夜、少年はラルフに向かって遠慮がちに呟いた。ふと考え事にふけっていたラルフはその声に意識を引き戻し、少年を見つめる。少年はラルフに背中を向けて座り込んでいた。うつむき加減の頭と丸まった背中が、伸び盛りの少年の体をいつもより、少し小さく見せていた。 「・・・僕、今日の朝な、なんしか、嬉しかったし・・・楽しかったわ」 「なんだよ、坊主、改まってよ。おかしな奴だな」 ラルフは笑いながらそう言う。そして、いつもみたいに少年の頭に触れようとして、そして、途中でなんとなくやめてしまった。少年の背中がいつもと違うように見えたからかもしれない。 「おっちゃん、僕・・・僕なあ お父さんやらお母さんやら、どういうもんか知らんのん。 想像はできるけんど・・・けんど、なんしかわからんような気がして・・・ 僕が想像するもんは嘘のもんみたいな気がしてた。・・・けんどな けんど、今朝、おっちゃんとリイナと一緒で、僕・・・ なんかちょっとわかったような気がしたん・・・嬉しかった」 ラルフは背中を向けた少年のその小さな呟きに、彼が泣いているんだろうかと思った。そして手を伸ばす。だが、そのとき、少年は勢いよくラルフに向き直り、その顔は笑顔だった。 「・・おっちゃん、ありがとう!」 ラルフは伸ばしかけた手を止め、少年の顔をじっと見つめる。いつもと変わらない屈託のない笑顔。だが、ラルフはそれが腹立たしかった。どうして、こんなときにも笑っているんだ。そうして、一旦は止めた手を伸ばすと乱暴に少年を引き寄せて抱きしめる。 驚いた少年が 「お、おっちゃん???」 と声をあげるのにも構わず、ラルフはそのまま乱暴に少年の頭をかき混ぜた。 「うるせえ、俺はお前みたいにでけえ息子なんざ持ったこたねえんだぞ。 勝手に親父扱いすんじゃねえ」 「・・ご、ごめん、おっちゃん・・」 そう言って体を離そうとする少年を引き留めてラルフはさらに言った。 「・・・今日だけだ! 今日くらいは親父代わりでもいいけどよ、そのかわり、 親父の言うことは大人しく聞くもんだ、わかったな、坊主!」 「う、うん・・・え〜と・・・」 「黙ってろ!」 言われて、少年は大人しくラルフに頭を撫でられていた。家族なんて。 ラルフは思った。 俺も家族からはみ出した人間だった。父親とか母親とか、家族とか、それが本当はどんなものかなんて与えられることはなかった。母親は父しか見ておらず、父親は自分のことしか考えていない男だった。父親の温もりも母親の温もりも知らない自分を、この少年は父のようだと、リイナと3人でまるで家族のようだったと、そう言うのだ。可笑しくて、悲しくて笑い出してしまいそうだった。 ぎゅっと少年の腕がラルフの服を掴む。しがみつくというよりは、まるで何かを確かめるかのようだった。 「坊主、泣きたいときくらいは素直に泣け。でねえと、しんどいだけだ」 俺が、そうだったように。だが、少年は何も答えず、ラルフから体を離すと、少し困ったような顔をして笑った。 「・・僕、よう、わからん」 そうして立ち上がると、いつもの笑顔になってラルフに笑いかける。 「いつも、笑っていられるんやったら、笑ってたほうがええやんか。 僕は泣きたくなんか、ないんや。ほいじゃけ、泣いたりせん!」 ラルフは突然、怒りが沸き上がり一瞬目の前の少年を殴り飛ばしてしまいそうになったが、それをなんとか抑えた。そうして、少年の腕を掴むと 「坊主! 覚えとけ! お前のこと、ぜっっっっったい! 泣かせてやるからな!」 とまるで喧嘩に負けた子供のようにむきになってそう言った。その剣幕に驚いて目をぱちくりとさせた少年が、一瞬の沈黙の後に、捕まれた腕をするりと抜いた。そんな風に返されるとは思ってもいなかったのだろう、何かを言いかけて口を閉じる。ラルフも、そんな少年を目にして、ムキになる自分がおかしくて苦笑すると、もういい、というように少年にむかって手を振った。少しばかり気まずそうに、しかし、だいぶんはほっとしたように少年は部屋の隅へむかって毛布にくるまりまるくなる。それを横目に眺めながら、ラルフは自分を落ち着かせるかのように酒の瓶に手を伸ばした。 そうだ、確かに笑っていられるならそれにこしたことはない。笑っていられることに何の悪いことがあるだろう。 だが、泣き方を知らないヤツが本当に笑うことなんてできるものか。 ラルフは荒野を歩いていた。 少年がその傍らを共に歩んでいた。遥かに地平は遠く。 ずっとずっと長く歩んできたこの荒れ地は、いまだ果てもなく思えた。 ずっと独りだった。この何もない荒野を一人で歩いていた。 だが、今は傍らに少年がいた。そうして、誰かが側にいることで ラルフは自分がずっと独りだったことを思い知ったのだ。 何かに飢え、何かを欲していたことを知ったのだった。 「おっちゃん」 少年が立ち止まって指をさす。 ラルフは訝し気に立ち止まり、少年の指の指し示すところを見つめる。 岩と砂しかない荒れ地に、少年の指し示す場所に 微かに緑の草が見えた。 それは本当に小さな微かなわずかなものであったけれど。 初めて見つけた緑の命だった。 瞬間、ラルフの周りを風が駆け巡り、空を見上げた。舞い上がっていく風が砂を吹き上げ、その後に広がっていたのは、荒れ地ではなく、緑の広がる草原だった。 「これは・・・・??」 傍らの少年が笑顔でラルフに言う。 「おっちゃん、行こう」 さわさわと風が草の間をぬけていく。柔らかな草を踏み締め、ラルフは歩きだす。優しい、優しい場所だった。この先は何があるというのだろう。荒野を抜け、この緑溢れる草原に立ち、そして、その先には何があるのだろう。 そんなラルフの問いに答えるかのように先を歩く少年が振り向いてラルフに告げた。 「リイナが、待ってる」 リイナが? 問い返すラルフには答えず、少年はまた歩き出す。ラルフはその後を続いて歩きながら、地平まで続く緑の草原を眺めた。 「おっちゃんの中には、荒れ地だけやのうて、ほら、こんなきれいで優しい草原もあるん。 ほいで、この草原の先では・・・リイナが待ってるよ。 おっちゃんは、そこでリイナと一緒に暮らすんや」 「坊主、お前は・・・お前は、どうするんだ?」 ラルフは少年の後ろ姿にそう尋ねた。少年はふわりとラルフを振り向くと、にこっと笑ってその視線を遥か空の向こうへむけた。 「・・・僕は、まだもっと先へ行かねばならん。 ひとりで、行かんと、いかんのや」 そういって、ラルフをもう一度振り向いて笑った。その笑顔を見て、ラルフは少年に向かって言った。 「お前・・・お前、泣き方くらい、ちゃんと覚えなくちゃダメだ。 いいか、笑ってたっていい、いつも笑っていたっていいさ。 だけど、ちゃんと泣いてる自分もわかってなくちゃダメだ。」 その言葉を聞いて、少年は曖昧な顔で困ったような笑顔をラルフに返す。それが、どうしても自分には笑っているようには見えないのだと、ラルフはそのときに気づいた。そんな笑顔を自分は知らない。 「けんど・・・おっちゃん。僕の胸が痛いのは、僕が痛いからやないんや。 僕は、ここでは、傷ついたりはせんのんや。泣くことなんか、何一つ、あるはず、ない」 そこで夢はとぎれ、ラルフは目を覚ました。横になったまま頭を動かし視線を巡らせると、いつもと同じ場所、部屋の片隅に少年のくしゃくしゃの黒髪が見えた。いまだゆっくりとした寝息が聞こえる。 ラルフはそっと起きあがると、小屋の外に出、井戸の水を汲んで口をすすいだ。 あの夢は、夢なのだろうけれども意味のあるもののようにラルフには思えた。あの草原は、ラルフの心の中の風景なのだと少年は言った。 では、お前は? 少年の心の地平を見てみたいとラルフはそう思っていた。ずっと、その先も一人で歩いていくのだと言い切った少年の心の果てをラルフは見てみたいと、そう思ったのだった。 ごほごほ、とそれが最近の癖の喉に絡まる咳をしながら、ラルフは桶を降ろす。 ・・・リイナが待ってる だから、ラルフはそこを目指すのだと、そう少年は言った。そして、その先は少年一人で行くのだと。 ならば、 とラルフは考える。 ならば、少年の心の果てで自分がリイナと一緒に待っていよう。少年が一人、旅を終えてくるのを待っていよう。 ラルフは小屋の中へ戻ると、まだ眠っている少年に向かって声をかける。 「おい、坊主、起きろよ!」 眠そうに目を擦りつつ、少年がぼんやりと体を起こす。そうして、ラルフの顔を見てから昨晩の寝る間際の会話を思い出したのは少しバツの悪そうな顔をした。それを無視していつもと変わらない態度で、顔を洗ってこいよ、と言うラルフに少年はちょっとほっとしたような顔になる。 ぱたぱたとかけていく少年の後ろ姿を見つめながらラルフは考えていた。たとえそれが嘘の家族ごっこなのだとしても、少年やリイナがそれを望むなら、続けてみてもいいじゃないかと。それで彼らの心が満たされるなら、自分はそのために生きてみてもいいのではないかと。 その日、ラルフは少年を店まで送っていった後、町の中心部へと足を向けた。 ラルフの小屋やリイナの店のあるあたりは、町の外れ、いかがわしい店や今にも倒れそうな家が並ぶあたりだ。当然、住み着く者やうろつく者だってたいした者など一人もいない。ろくでなしと呼ばれるような者ばかりが集まるふきだまりだ。ラルフはこの町に流れ着いて来たときに、自分にふさわしいのはそういう場所だと思った。だから、あの場所で今にも倒れそうな小屋に住み着くことにした。 誰にも構われることなく、ある日自分が消えていたとしても誰も気にすることもなく、最初からいなかったかのように、何もかわらない、そんな場所がふさわしいと思っていた。自分のために泣く者など一人としているはずがない、それが言い訳にもなった。 そこから抜け出そうとも思わなかった。今、ラルフはそれが無駄でも今更でも少しは足掻いてみる気になったのだった。自分のためだけではなく、多分、気づかないふりをしていたけれどもずっとわかっていたことに気づいたからだ。自分が消えてしまったら、リイナは泣くだろう。 ・・・俺もヤキが回ったかな ラルフは自嘲気味にそう呟くと、仕事を探すために町へと向かっていった。 つづく |