いつか夢の中で<7>








「おっちゃん、今日は遅い〜」
少年は仕事の終わった後、いつもなら迎えにくるラルフが来ないのに心配そうな顔をして店の前で待っていた。その後ろでリイナが手を伸ばす客を軽くあしらいながら少年に声をかける。
「どうせどっかで遊んでるのよ、中で待っていたら?」
しかし、少年は店の前の敷石に腰を下ろすと夕暮れの近い通りを見つめながらずっとラルフを待っていた。太陽が傾き、空をオレンジ色に染め、行き交う人々の顔を赤く染める。少年はじっとその人々を眺めていた。その横顔からは、何を思い何を感じているのかを窺い知ることはできず、時折心配そうにリイナはその姿を見つめていた。
やがて、空が藍色に変わり、星が瞬き始めたころ、やっと通りの向こうからラルフが現れた。少年はその姿を認めるとほっとしたように立ち上がり、ラルフに向かって駆け寄っていった。
「おっちゃん・・・!!」
「よう、坊主!」
片手を軽く上げて少年に答えたラルフだったが、見た目にもいささか疲れた様子が見て取れた。少年はそんなラルフの様子に訝しげに立ち止まり、首をかしげる。その様子にラルフは苦笑して少年に近づくとその頭をかき回した。
「なんだよ、俺がこなくて寂しかったのか?」
「ちが・・・おっちゃん、なにかあったんかって心配してたんや!」
少年がそう言うのにラルフは笑って肩を叩いた。
「ああ、人使いの荒いところだからな、だが、日銭払いだから結構実入りはいいんだぜ」
そのラルフの言葉に少年が少し驚いたような顔をしてみせる。
「なんだよ、俺が仕事してきちゃそんなに不思議か?」
少し照れくさいような顔をしてラルフがそう言うのに、少年は嬉しそうな顔をして顔を横に振った。
「リイナには、まだ言うなよ? まあ、長続きするかどうかなんざわかりゃしねえし・・・
 町の中心を通る水路を広げる仕事で、丁度人を探していたんだ。
 まあ、日ごろの行いのおかげだな、俺は運がいいってことだ」
言われて少年はぶんぶんと頭を縦に振る。そうして、店の中で心配そうな顔をしてちらちらと通りを見ていたリイナに挨拶をするために店の方へと駆け出した。ラルフはその後姿に向かって声をかける。
「坊主、ちょっと待てよ、ほら、これでリイナから酒もらってきてくれ」
そうして今日稼いだのだろう銅貨を少年に向かって投げる。少年はそれを上手に受け取ると、店の中へと入っていった。


上機嫌なラルフと一緒に少年が小屋に帰ってきたのはいつもよりも随分と遅い時間だった。ラルフはしかし、何故突然自分が働こうなどと思ったのかは語らなかった。リイナには言うなといったのも、その理由を語ることが巧くできないからだった。
少年も敢えて何も尋ねることなく、小屋に着くといつもと同じようにラルフの隣に座って店でもらったパンをラルフに半分差し出す。ラルフはしかし、今日はそれを受け取るとその場に座り込まず、小屋の片隅のガラクタが積んであるあたりをひっくり返し、何かを探し始めた。
「? おっちゃん?」
少年が不思議そうに尋ねるのに、ラルフはがたがたとその山を崩しひっくり返し、目当ての物を引っ張り出した。それはひびの入ったコップだった。ラルフは少年がリイナから受け取ってきた酒をそのコップの半分くらいまで注ぐと少年に渡した。
少年はとまどうような顔をしてコップとラルフの顔を交互に見る。ラルフは笑ってコップを受け取るようにと少年に促すと、少年はおずおずと手を伸ばしてコップを受け取った。
「ま、いいだろ、俺もまっとうになるかもしれねえんだ、
 お前も少しくらい飲んで祝えよ」
冗談とも本気ともつかず、ラルフはそう言うと自分は残りの壜を手にして少年のコップに乾杯でもするように軽く触れ合わせた。こつん、と軽い音がしてコップの中の液体が揺れた。
少年はラルフがそのまま壜に口をつけて酒を喉に流し込むのを見つめ、自分のコップの中の液体を見つめた。しばらくどうしたものかと迷うように琥珀色の液体を見つめていたが、やがて意を決したように思い切ってコップに口をつける。勢いよくぐっと口に液体を流し込み、そのまま飲み込む。だが、もちろんそんな飲み方を少年が出来るほど薄い酒ではない。少年は次の瞬間むせかえっていた。ごほごほとせきこむ少年の背中を笑いながらラルフがさする。
「なんだよ、お前、酒も初めてかよ。
 俺みたいに飲みなれた人間じゃあるまいし、そんな飲み方を最初からする奴があるか。
 もっとちびちびとやれよ」
言われて少年はまだむせながらも何度も頷いた。そうして、やっとコップを持って背を伸ばすと今度はゆっくりと口をつけて舐めるようにゆっくりと口の中に入れた。ラルフはその様子をしばらく面白そうに眺めていたが、やがて自分も残りの酒を少年に合わせるかのように、いつもよりゆっくりめに飲み始めた。
「・・・なんか、辛い・・」
少年がそう呟くのにラルフは苦笑した。確かに酒の初心者に飲ませるような優しい酒ではない。それでも少年はちびちびとコップの中の液体を飲んでいた。
「飲ませておいて、なんだがよ、あんまり無理はすんなよ?」
既に少年の顔は火照っていて、ラルフのその言葉に頷いてはみたもののあまり今からでは意味はないかのようにも思えた。
「俺がお前くらいのころには、もう酒も覚えちまってたなあ」
ラルフは苦笑しながらそう言った。家を出たのが少年より少し幼いくらいだったかもしれない。どこへいくとも当てもなく町から町を流れていた。少年はそういうラルフの言葉に顔を上げた。ラルフはそのころを思い出すかのように見るともなく地面を見つめ、少年に聞かせるともなく先を続けた。
「酒を飲むと、嫌なことも忘れられるんだ。
 味なんて、美味いの不味いのなんてどうでも良かったのさ。
 酔えりゃ、なんでもよかった。
 でもなあ、だんだん、酔えなくなっちまうんだよな。
 今じゃ、こんな酒でも忘れるほどには酔えりゃしないんだ」
そんなラルフの言葉にしばらく黙ったままだった少年は、やがて小さく囁くようにラルフに尋ねた。
「・・・おっちゃんは、寂しかったん?
 それを、忘れたかったん?」
「そうだな、そうかもしれねえ。けど、結局は忘いつになっても忘れることなんてできやしねえのさ。
 坊主、お前はどうなんだ? お前は寂しくなんか、ねえのか?」
しかし、ラルフのその問いには少年は首を横に振った。
「・・僕は、僕は寂しいなんて思うたこと・・ない。
 旅は楽しいよ、誰かにいつも会える。」
「ほんとかよ? 俺には坊主、お前こそが寂しさを忘れたふりをしているように思えるぞ?」 「そんなこと・・・ないって」
ラルフは顔をあげて少年の顔を見つめた。まだ頬に酔いの残る少年がラルフをじっと見つめている。そのとき、ふいに少年の瞳から一粒の涙がこぼれた。
驚いたのは二人同時だったように思えた。ラルフは驚いて言葉をなくし、少年はどうしていいかわからないようにしばらく動作がとまってしまったようだった。
やっとラルフが少年の濡れた頬に手を伸ばし、
「坊主、お前・・・」
と声をかけようとした瞬間、はじかれたように少年は立ち上がると小屋を駈けでていった。ラルフも慌てて外へ出る。どこへ行ったかと探すまでもなく、少年は井戸端に立っていた。ラルフが声をかけようとしたとき、少年は頭から水をかぶった。
「! おい、風邪引くだろうが!」
ラルフが駆け寄り、少年の手から水桶を奪う。水に濡れた少年の顔は何が涙でどれが水かといった有様で、ラルフには少年が涙を見せたくない故に水をかぶったと見て取れた。それでも、やはり少年の瞳からこぼれる涙は隠しようもなくて、ラルフは少年の頭をなでた。
「坊主、いいじゃねえか、泣いたって、いいじゃねえかよ」
だが、少年は頭を横に懸命にふって涙を振り払うかのように言う。
「違う、違う! これは、僕の涙やない、僕が悲しいんやないんや。
 これは、おっちゃんの涙や・・・」
そういう少年をラルフは抱き寄せた。そうして、たぶん、自分があのとき、行き場を無くしたあのときに誰かにそうしてほしかったように、きつく抱きしめた。
「ばかやろう、それは、坊主、お前の涙だ。
 俺のためでも、誰かのためのものでも、流した涙はお前のもんだ!
 それで、いいんだ」
わかったのか、それともわかりたくないのか、少年はただおとなしくしていた。彼の涙のわけをラルフは知らない。でも、きっと少年が今まで、こうやって泣いたことなどなかったのだろうということが察っせられて、ラルフは少し切なかった。泣いてもいいんだと、そう言ってやりたかった。そうして、こうして泣かせてやれたことが、たとえそれが酒のせいだとしても、それでもよかったと思っていた。


その日の夜、ラルフは浅い眠りを微かな物音で遮られた。目を薄く開くが暗い小屋の中に目が慣れるのにしばらくかかった。だが、少年がこっそりと起き上がり足音を忍ばせてラルフの横を通り過ぎて扉へ向かうのが感じられた。ここから出ていくのだろうか、とラルフはしばらく息を潜めていた。だが、少年が扉を開け、外へ出たと同時に起き上がり、自分も扉へ向かう。そっと音をたてないように苦労しながら扉を開けると、気づかれないようにと屈んで扉の間から顔をだし、少年の後姿を探した。
満月には少し足りない月が小屋の中よりも明るく外をうっすらと照らしていた。少年は井戸の傍に立っていた。
・・なんだ、水を飲みに行ったのか
ほっとしたような気持ちでラルフがまた小屋の中に戻って寝なおそうとしたそのとき、少年は水桶に汲んだ水を頭からかぶった。驚いたラルフは、再び慌てて少年の様子を伺う。風邪をひくと言っただろうに、と埒もないことをつい感じてしまう。だが、次にラルフが目にしたのは、そんな思いをどこかへやってしまうほどのものだった。
水を浴びた少年はそれをぬぐおうともせず、天を仰いだ。そうして、次の瞬間。
少年の背には真っ白な翼が広がった。
ラルフは目を疑ったが、それはまぎれもなく現実のことだった。驚いて、驚いてしかしラルフは自分が妙にそれを納得してしまっているのに気づいた。
少年が、人ではないということ。それに、ああ、そうか、と不思議に納得している自分がいた。 そして、忌まわしさや恐ろしさを感じず、ただ、その翼の白さに、月光の元に天を見上げるその姿を美しいとそう思った。
それは孤高の存在なのかもしれなかった。
人の世界にあって、人ではないもの。
少年はもう一度、水桶に水を汲んで頭からそれを浴びた。白い翼がはためき、月光に水がはじけるのが見えた。翼から白い羽が何枚か散り、天に舞い上がる。それは夢の世界のように幻想的で美しい光景だった。見てはいけないものを見ているようなそんな気分にさせられた。知ってはいけないものを知ってしまったような気分だった。
もちろん、少年に声をかけることなどできるはずもなく、ただ、彼の心の頑なさがどこにあるのかわかったような気がして心が痛かった。
そうなんだな、坊主、お前、そうなんだな。
立ち上がり、扉を開け、歩いて少年の傍まで行くのにどれほども時間時はかからないだろう。だが、その距離はあまりにも遠く思えた。少年と同じ場所へ行ける人間などいないのだろう。それが心の底に染みた。だが、同時に、たとえそれが何であっても、ラルフにとって少年は少年で、それ以上もそれ以下もなく、人であろうと人でなかろうとどうでもいいのだといことも感じていた。
ラルフが救いたかったのはそれがどんな存在でもかまわない、少年だったのだから。
少年が水桶を井戸端に下ろし、もう一度白い翼を羽ばたかせた。そして次の瞬間、白い翼は幻のように消えた。ラルフは慌てて扉を閉め、元の場所に戻って横たわる。しばらくして、静かに扉が開き、また少年が静かにラルフの横を通って小屋の奥に戻っていく気配がした。ごそごそと少年が身体を動かす気配がするのを、背中でラルフは感じていた。息を潜め寝たふりをしながら、ラルフは少年が静かになるまで待っていた。そうして、やがて再び規則正しい呼吸が少年から聞こえてくると、やっと少し安心したように、再び目を閉じたのだった。


つづく




一応、あと二回?? な予定のはずですが。
今回の話は京都のホテルで夜景を見ながら書きました、というと
なんとなく豪華というか、風情あるというか(?)ですけども
明日結婚式を控えた妹と同室で(笑)明日に備えて早く眠っている妹を横目に
せっせとパソコンにむかっている姉ってちょっとイヤですな(^_^;;)





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