「とっとと運べよ、おっさん」 怒声があちこちで響きわたる。ラルフは顔をあげてその声の方を見やった。仕事場は土煙と砂埃と汗に充ちている。こういう仕事に手慣れた男たちも見えるが、ラルフのようにまとまった金ほしさに集まった柄の悪そうな男や、仕事がなくて暮らしに困ってどうしようもなくやってきたような男も見える。中にはこんな仕事はどうしても向いていないとしか言えないような痩せこけた年寄りもいる。所詮、こんなところで働いている者に何かあったところで、誰も気にしないのだ。その日一日分の給金が見舞い金として出るくらいで。働けなくなればそれで首を切られておしまいだ。金が欲しければ働き続けるしかない。 ラルフは重い砂袋を肩に担ぎ上げると歩き出す。この砂袋を積み上げるのが今の仕事だ。やがて水路になるはずの深く広い溝の底をラルフたちは砂袋を背負って歩いている。 (ちっ・・・こんなことなら、少しは真面目に体を鍛えておくんだったぜ) 酒と長い間の不摂生な生活のせいで、ラルフの体にはきつい仕事だった。それでも、自分よりも若造な見張り番が嫌いなので意地になって仕事をしている。苦労も知らないような小役人の若造が、鞭をふるって怒鳴り散らしている。あれで自分はここではいっぱしのつもりなんだよな、とラルフは冷笑する。所詮、こんなところで鞭を振るっている程度のヤツは、ヤツが自分が属していると思っている役人どもの世界では下の下なのさ。普段は頭を下げるしか能がないから、ここで偉そうに振る舞うんだ。砂袋をどさっと下に降ろしてラルフは一つ息をつぐ。肩を回して新しい砂袋を運ぶため戻ろうとしたとき、また怒鳴り声と鞭の音が響いた。 ドサッと何かが倒れる音がする。ラルフは振り向いた。痩せた男が砂袋を取り落とし地面にはいつくばっていた。その男を容赦なく鞭が叩きのめしている。ラルフは低く舌打ちをした。別に倒れた男に義理が有るわけではないが、鞭を振るう役人が気にくわなかった。うずくまり、頭を手で覆い鞭から逃れようと身を竦める男をむち打つ音が響く。ラルフはずかずかとその現場に近づくと振り下ろされた鞭の前に腕を差し出した。びしっという乾いた音がしてラルフの腕に鞭が巻き付く。さすがにラルフも痛みに顔をしかめたが、腹立たしいのでそんなそぶりは微塵も見せずに、倒れた男の傍らに落ちた砂袋を担ぎ上げた。 「こんなところで道を塞がれちゃ、邪魔でしょーがねー」 むち打つ若い役人に向かってラルフはそう言った。 「だいたい、こんなもん振り回されちゃ、起きあがろうにも起きあがれねえだろうがよ。 あんた、仕事して欲しいのか、それともただ鞭打ちたい変態野郎かどっちなんだよ?」 どっと周囲から笑い声があがるのと、役人の顔にどす黒く血が上るのとが同時だった。わなわなと手が震え怒りに燃えた瞳がラルフをねめつける。だが、ラルフはそれを無視して砂袋を担いで背を向けると歩いていった。倒れていた男もよろよろと立ち上がって列に戻る。 ラルフは内心、バカなことをしたものだと思わないでもなかったが、少しは溜飲が下がったのも確かだった。だが、明日からあの男はラルフにより厳しく当たり散らすだろう。そう思うと少しげんなりする。いっそ、叩きのめしてやった方が早いような気もするな、と考えて苦笑する。そんなことをした日には即座にこの職を失うだろう。この工事もさして長い期間、行われているものではない。たぶん、季節が変わるころには終わってしまうだろう。そう思えば長い間の辛抱でもない。まとまった金が得られれば、それを元手に違う仕事も始められる。 たぶん。 そう思ってラルフは苦笑する。本当にそんなふうに上手くいくんだろうか。そんなふうに物事が上手に運ぶはずがない。どこかでそう思っている。今までのラルフの人生で自分の思ったように物事が運んだことなどない。あきらめにも似た気分が心の奥底に溜まっている。だが、それでも、やってみなくては始まらないのだと、踏み出した足に力を込めた。 リイナは最近迎えの遅いラルフを待つ少年を店の中に手招いて呼んだ。 最初の日はどこか心配そうに通りを眺めていた少年も、このごろはラルフが遅いのが普通になったように、待つ時間を楽しんでいるようだった。 「ね、ラルフ、最近どうして遅いわけ? 店にも寄らないしさ」 リイナは駆け寄ってきた少年の前に立ってそう尋ねた。少年はリイナを見上げ、嬉しそうに笑い、それからまるで口がむずむずするのを我慢するかのように口を押さえた。 「何よ?」 リイナが尋ねると少年は笑いながら言った。 「いかんの〜! おっちゃんと約束したんじゃもん。 リイナには、内緒〜!!」 「なんですって〜? ちょっと待ちなさいよ、イーリス!」 あはははは、と笑い声をあげて走って逃げる少年をリイナが後から追いかける。とても本気で逃げているとは思えない少年は本当は言いたくて仕方ないのを我慢しているような様子で、リイナが腕を捕まえ後ろから抱きすくめると、くすぐったそうに逃げようとしたが、それもじゃれているようなものだった。 「さあ、言いなさいよ、何してるの?」 「いかん〜内緒内緒! おっちゃんと秘密にする言うて決めたん〜。 けんど、おっちゃんからそのうち、リイナにええこと発表するんや〜! それまで内緒〜〜」 もごもごと手で口を押さえて体をよじる少年をリイナはつまらなそうに離した。それにちょっと心配そうな顔をして少年がリイナをのぞき込む。リイナは少し怒ったような照れたような顔をして少年を見つめた。 「なんだか、悔しいわ。イーリスはラルフのこと何でも知ってるっていうのに。」 もうずっと長く側にいるのに。なのに、目の前の少年の方がラルフにずっとずっと近いところにいるような気がして。馬鹿馬鹿しいと思いながらも時々、この少年がうらやましくなる。 「でも、でもな、リイナ!」 少年が慌てたようにリイナに向かって手を広げて言う。 「おっちゃん、リイナのためにがんばってるんや、ほいじゃけ、内緒なん!!」 言ってしまってから口を押さえ、それからバツが悪そうに肩を竦めてリイナにむかって頼む。 「い、今の僕が言うたこと、おっちゃんには内緒な??」 その様子にリイナは声を出して笑った。 「いいわ、今度ラルフが来たら問いつめてやるから。」 うんうん、と少年が頷く。 「絶対、絶対、リイナも嬉しいことやと思う〜!」 少年はそう言って店の外に出ていった。ラルフが通るのを待つつもりなのだろう。リイナはその後ろ姿を見送ってから店の奥へ向かう。酔客が一人、リイナを呼んでいた。このところ、ラルフは店に現れない。この店はリイナの仕事場であると同時に緩やかな牢獄だ。少年は気づいていないかもしれないが。ラルフが来てくれるまでは、リイナから会いにいくことはできないし、店を出ることはできない。そんなことはとっくの昔に割り切っているつもりでいたが、今更ながらに自分とラルフのつながりなど、細く切れやすいものなのだと考える。 「なあ、おっちゃん」 少年はその夜、ラルフに向かって呼びかけた。料理長からもらったパンをラルフと分け合い、ラルフが帰りに店で買ってきた塩のきつい薄いハムを挟んで少年は囓っていた。 「リイナに、いつ言うのん?? リイナ、おっちゃんのこと心配してるし。 僕、早う言いとうて口がむずむずするし〜」 嬉しそうにそう少年が言うのに、ラルフは少年の頭を軽くこづく。 「ばかやろ、まだ働きだしたばかりで金もねえのに言えるか、そんなこと。」 「けんど、けんど、リイナと一緒に住むんじゃろ?? リイナが家に来るんじゃろ?」 そう少年に言われて、ラルフは黙り込む。確かにそういう事なのだ。金を貯めて、リイナを店から身請けして、小さくてもいいからもう少しマシな家を探して。そう、この町を出てもっと田舎に行ってもいい。まともに働いて。 「・・・・・・」 黙り込んでしまったラルフに少年が心配そうにその腕を掴む。 「・・・おっちゃん?」 「・・そうだ、そうだな。だが・・・」 「?」 「本当にそんなことが出来るのか? 今更間にあわねえんじゃねえのか? 坊主、俺は手が届くはずのねえ夢を見てるんじゃねえのか?」 「そんなことない、おっちゃん!!」 少年は大きな声でそう言った。ラルフが驚くくらいの声だった。 「そねいなこと、ない、おっちゃん。 おっちゃんと、リイナと一緒に暮らすんや。 僕には、わかる。小さいけんどあったかい家で、 おっちゃんが働いて帰ってきたら、リイナが家の扉を開けてくれるんや。 リイナが作ってくれるスープは・・・スープはどんなやろ?? やっぱり、塩味かもしれんけんど・・・けんどおっちゃんは〜文句言いつつ美味しそうに食べるんや」 それは、この前の朝の風景のような描写だった。家族がどんなものかあのとき少しだけ解ったような気がしたって言ってたっけな。ラルフはそう思い出す。 「・・・坊主、お前の言う俺とリイナの家には足りねえものがあるぞ」 少年は顔をあげて不思議そうにラルフを見つめた。 「お前がいねえじゃねえかよ」 そうラルフが言うと、少年は驚いたような顔をした。それから首を横に振る。 「僕は・・・僕は、そんな・・・」 その頭を引き寄せてラルフは抱え込むように押さえつけ言う。 「バカ野郎、今更逃げようなんて言うな。お前が俺をその気にさせたんだぞ? いいか、お前、もうここにいろ。どこも行くな。」 「けんど、けんど、僕は・・・・」 人じゃないんだろう? ラルフは内心でそう呟く。月光を浴びて白い翼を広げた少年の姿。 だが、そんなことはどうだっていいんだ、俺は。 「どうせ行くところなんざ、ないんだろうが。 俺は、お前が何だって、構わねえんだ、気にしねえ」 「おっちゃん・・??」 「俺は、お前が・・・・・」 人じゃなくたって構わないんだ。そう言いかけた言葉をラルフは飲み込んだ。そのことをラルフが知っていると知れば、少年は何をどう言おうと姿を消してしまうような気がした。 「お前が・・・人殺しだって構やしねえんだ」 そうだ。人でなかろうと、人を殺していようと、なんだろうと構うもんか。 「だから、お前、俺やリイナの側にいろよ」 少年は黙ったままだった。ラルフは押さえ込む腕に少し力を入れてなおも言い募る。 「いるって言うまで締めるぞ」 「お、おっちゃん、そんな〜・・・」 途端に情けない声をあげて少年が手をばたばたさせる。 「だったら、言えよ。ここにいるって」 さらに力を込める。やけくそに近いような少年の声がした。 「わかった〜!! おっちゃん、わかったさけ〜。 僕、おっちゃんの側におる・・・!」 それを聞いてラルフは腕を緩めた。少年がけほけほと小さく咳き込みながら顔をあげてラルフから体を離す。 「う〜・・・おっちゃん、ひどい〜!」 「うるせえよ、とにかく、約束だからな、お前、これからもずっとここにいろよ!!」 少年は困ったような顔をしていたけれど渋々というように頷いた。こんな約束は何の足しにもならないかもしれないけれど。 「そんかわり〜、おっちゃんも約束してやあ。リイナに、ちゃあんと話してやあ」 途端に今度はラルフが顔をしかめた。しかし、少年も負けじとラルフを下からじ〜っと上目使いに見つめる。 「・・・・ちっ。わかったよ。今度、今度仕事が休みんなったらリイナんとこに行って言うさ」 ラルフは少しめんどくさそうにそう言った。しかし、それが照れ隠しだとわかっているかのように、それを聞いた少年が嬉しげになる。ラルフは悔しそうになおも舌打ちをした。 その夜。 昼間にむち打たれた腕が痛んでラルフは寝返りを打った。腕が腫れて熱を持っているような気がする。体も暑くてたまらない。もう、そんな暑さで寝苦しい季節などとうに過ぎたというのに。寝苦しいと思っているにも関わらず、体が疲れているので半分眠っているようなふわふわした状態にいた。夢なのか目が覚めているのか、その境界線が判然としない。息苦しさを感じて大きく息を継ぐと、もう一度ラルフは寝返りをうった。 ひたひたと忍び寄る足音がして、それがラルフの枕元にそっとかがみ込んだ気配がした。 ・・坊主か? 大丈夫だ、心配すんな そう言ったつもりだったが声になったかどうかはわからない。 ひんやりとした手がラルフの額に触れる。うっすらと目をあけるとぼんやりと少年の姿が見えた。その背に翼は見えなかったが、少年の手がぼうっと明るく光っていた。まぶしい明るさではなく、温かく柔らかな光がその手から発されていた。 その手をラルフの額に近づけていたのだ。すうっと暑さが引いていくような気がしてラルフはもう一度息をつぐ。 これが、坊主の持っている力なんだな。人じゃない力なんだな。 そう感じた。少年の手が次にラルフの腫れた腕に触れる。ラルフはその腕を引こうとした。だが、体が動かなかった。しかし、その気配を感じたのか少年の動きが一瞬止まる。しばらくの後、ラルフが眠っていると感じたのか少年が再びラルフの腕に触れた。痛みが引いていく感覚とは別にラルフは心の中で少年に向かって言っていた。 ダメだ、坊主。お前は、その力を使っちゃいけねえ。 ここで、人に紛れて生きて行くんだろう? そんな力は使っちゃいけねえんだ。 俺やリイナにだって使っちゃいけねえ・・・ だが、もちろんそれは少年の耳に聞こえる言葉にはならず。ラルフは楽になったと同時に眠りの底に落ちていった。 明くる朝、ラルフが起きてみると腕はすっかり傷跡もなく、痛みもなくなっていた。鞭打たれたとは思えないものだった。しげしげと腕を見つめているラルフに、少年がそしらぬふりで尋ねてくる。 「おっちゃん、どうかしたん??」 ラルフは少年の顔を見つめて何かを言いかけ、そして肩を竦める。 「いや、別になんでもねえ。」 それから立ち上がって伸びをして言う。 「さて、今日も仕事か、めんどくせえけど仕方ねえな!」 だが、そんなラルフにむかって少年は笑いかけた。 「にゃはは〜、おっちゃん、聞こえん?? この音!!」 少年の指が上を指す。言われてラルフは小屋の屋根を打つ音に気づいて少年の顔を見た。 坊主、まさか天気まで操れるわけじゃねえよな?? しとしとと冷たく雨が降っていた。これでは仕事は中止だ。 そしてラルフは少年に昨晩約束をしていた。 つまり。 今度仕事が休みになったらリイナに会ってちゃんと話す、と。 つづく |