「あら、随分と久しぶりじゃない?」 リイナはラルフに向かってそう言った。その言い方が妙によそよそしかったので、ラルフはたいがいは予想していたものの、少しげんなりしたように肩を竦めた。結局、朝、少年が店に仕事に向かう時には雨がやむかもしれないから、と粘りに粘って小屋に残り、やっと諦めて店にやってきたラルフであった。もうとうに昼はまわっており、それでもなんとか少年との約束もあってここまで来たものの、リイナになんと話をしたらいいか、いまだ心は定まっていなかった。そんなラルフの様子にリイナは、腰に手を当ててラルフを下からきつい目で見上げた。 「何か、あたしに言うことあるんでしょ? 他にいい店でも見つけた?」 リイナらしからぬ言い方にふと気づいてラルフは、リイナの顔を見つめた。そういえば、ずっと顔を出していなかったうしろめたさと、言わねばならないことに対する後込みから、今日リイナの顔をまともに見たのはそれが初めてだった。そうして、ラルフはリイナがそのきつい口調とは裏腹に、不安そうな顔をしていることに気づいた。 「・・・リイナ」 ラルフが呼びかけると、リイナは黙り込み、そして目を伏せた。畜生、とラルフは思った。誰に対してそう思ったのかは自分でもわからないが、多分、自分に対してだったのだろう。目の前のリイナが、いつものように突っ張った強いリイナは嘘なのだとラルフに告げていたからだ。 「・・リイナ、お前に言うことがあるんだ」 ラルフはやっとそれだけ言った。唇が乾いてしまって上手く話せず、また畜生、と思った。ふと視線を泳がせると厨房から少年が顔を出していて、ラルフに向かって拳を突き上げていた。バカ野郎、と口の中で呟いたラルフだったが、随分とそれで落ち着いたのがわかった。ラルフは一度、息を継ぐと 「なあ、久しぶりなんだしよ、もちっとゆっくりできるところへ行こうぜ?」 今度はリイナが少し驚いた顔をしてラルフを見上げる番だった。いつもと違う、奥歯に物の挟まったようなさっきまでのラルフの口振りはどこかへ消えていて、すっかりいつも通りのラルフになっていたからだ。それで、リイナも少しほっとしたような顔になってラルフの胸に拳を軽くぶつけてみせた。 「・・・たまにやってきて、偉そうな口、きくもんじゃないわよ」 「・・けどよ、そういう俺に惚れてるんだろ? リイナ」 にやりと笑っていうラルフに、リイナは溜息を一つつくと、くるりときびすを返して店の奥の階段へ向かう。それを追いかけたラルフがリイナにならんでその肩を抱いた。そして、厨房から顔を出している少年に向かって、一瞬だけ片目をつぶってみせた。 リイナの部屋に通されてラルフは、そういえばこの部屋も随分と見慣れたものだと考える。ベッドの端に腰掛けたラルフの隣には座らず、窓から外を眺めながらリイナが言う。 「それで、話って何? イーリスは私にも嬉しいことだ、なんて言っていたけど」 「いいことかどうかは、わからねえな」 肩を竦めてラルフが言う。リイナは窓の外から視線をラルフに戻した。 「リイナ、俺は・・・俺は、ずっと諦めていた。・・・・生きるってことを諦めていたんだ」 ラルフはそう言ってもう一度、肩を竦めた。リイナは黙ってその言葉を聞いていた。 「けどよ・・・けど、まだ、間に合うって坊主が言うんだ。 俺もまだ、自分の人生ってもんに夢を見たっていいってな」 リイナの窓辺に置かれた手がきゅっと握りしめられる。 「・・・リイナ。俺は仕事をしてるんだ。この俺が、働いているんだぜ? どう思うよ。 まあ、日雇いだけどな。けど、その分、金はいいし、ほら、町の水路を作ってるだろうがよ。 あれなんだ。期間はそう長くねえけど、たぶん、少しはまとまった金になるだろうし そうしたら、お前がこの店を出る足しにもなるだろう?」 思い切って一度にまくしたてるように言い切ったラルフの言葉の最後をリイナは聞いて、聞き間違いじゃなかったかと尋ね返す。 「なんですって? ・・・ラルフ、あなた、何て言ったの?」 「何って、なんだよ。俺が働いているって言ったんじゃねえか」 「そうじゃなくて・・・お金がまとまったら・・・」 少しリイナの声が震えた。 ラルフは、二度も言わせるなと言うように顔をしかめた。そうして小さく口の中でああ、畜生、と呟いてもう一度言う。 「お前が、この店を出る少しは足しになるだろうって言ったんだ!」 「ほ、本気で言ってるの?」 リイナは窓辺を離れ、落ち着かない様子で部屋の中を歩き回った。ラルフはそんなリイナを見て肩を竦める。 「嘘言ってどうするんだよ。そりゃ、まあ、お前には信じられねえかもしれねえけどよ。 まあ、俺も長続きするかどうかわかんねーとは思っちゃいるけどな!」 茶化したようにそう言うラルフをリイナは振り向いた。そうして、じっとラルフを見つめて・・・そうしてその不真面目な態度がポーズだと見抜く。リイナは黙ってラルフに近づくとその隣に腰を下ろした。そうしてその肩に自分の頭を預ける。 「・・・ラルフ・・・」 「なんだよ、嬉しかねえのかよ。迷惑か?」 リイナは首を横に振る。そうして目を閉じた。 「・・・嬉しいより、恐いわ、ラルフ。 本当に、本当のことなのか、信じることが恐いわ。」 「・・・俺もだ、リイナ。俺も本当はまだ信じられねえよ。 もう、本当は間にあわねえんじゃねえかって半分はまだ信じられねえんだ。」 「ラルフ・・」 リイナは目を開けてラルフの顔を見上げた。けれど、ラルフの顔は不思議と落ち着いた表情で。 「けど、リイナ。俺はもう、いいような気がしたんだ。 間に合おうが間に合うまいが・・・踏み出しちまった足は元へは戻せねえ。 ただの夢で終わるかもしれねえけど、リイナ、お前も俺に付き合えよ」 そう言ってラルフはリイナに向かって笑った。リイナはそんなラルフを見て、一瞬考えるように眉を顰め、それから笑い出す。 「・・・あんたらしいわよ、ラルフ。夢を見るときまでいい加減なのね!」 「・・・けどよ、そういう俺に惚れてるだろう? リイナ」 その言葉にリイナは少し悔しそうに応えた。 「・・・そうよ、ラルフ。あたし、あんたに惚れてるんだわ・・・」 その夜、少年は一人、小屋へ帰る道を歩いていた。見上げると月と星が群青色の空に瞬いている。澄んだ星空に向かって少年は深く目を閉じる。祈りを捧げるかのように。 ラルフのいない小屋の中は、いつもよりどこか寒々としていて。少年はふと入り口で足を止める。 そうして苦笑していつもの自分の定位置へ腰を下ろし、懐からパンを取りだして囓りだした。今頃、ラルフはリイナと温めあっていることだろう。それは少年が望んだことでもあった。 ラルフにとっての救いはリイナだ。リイナだけがラルフの心を温めることができる。 ・・お前、ここに居ろ、坊主 その約束は自分には守ることはできない。それが、少年の心に少し辛かった。だが、その辛さが誰のためにそう感じるのか、そのときの少年にはわからなかった。 「リイナ、俺は・・・」 ラルフは傍らのリイナにむかって囁いた。リイナの髪に指を絡ませ、その柔らかな感触を楽しみながら、ラルフは続ける。 「・・俺はずっと諦めていた。生きることを諦めていた。 それは・・・・俺が、捨てられた人間だからだ。生まれてこなければ良かったと言われた人間だからだ」 心が軋んだ。それでも、リイナに言いたいと、そう思った。リイナの腕が伸ばされて、少し心配そうにラルフの頬に触れる。 「・・・リイナ・・俺は・・・俺は」 リイナに言いたかった。だが、言う勇気が持てなかった。諦めていた。だが。 「リイナ、俺は・・・自分の親父を殺した・・・」 言ってしまってから、ラルフは脱力したように黙り込んだ。ラルフの頬に触れていたリイナの手が止まる。 「リイナ、それでもお前、俺に付き合って叶うかどうかもわからねえ夢を見てくれるか?」 やっとのことでそう呟く。止まっていたリイナの手が優しくラルフの頬を撫でた。 「・・・ねえ、ラルフ」 リイナが囁く。 「あたしがこの店に来たときはまだ10代で。 あたし、田舎の農家の娘だったわ。 家族を助けるためだって思っていた。そう思っていなければやっていけなかった。 相手が誰だって同じ。相手のことなんて見ていなかった。 あたしをここから出してくれる男が欲しかったときもあったわ。 そんな男を好きになったこともある。 あたしを、助けてくれる男。あたしを温めてくれる男。 でもね・・・・でも、ラルフ。 あんたは違ったのよ、ラルフ」 「あんたは、あたしが初めて、心から温めてやりたいと思った男なのよ」 だから、あんたが何だろうと、過去がどうであろうと関係ないのよ。 そうリイナが呟いた。リイナを抱きしめるラルフの腕に力が籠もる。そう言って欲しかった、リイナに。リイナに許して欲しかった。リイナに温めて欲しかった。そう気づいてラルフはリイナの髪に口づける。 「・・・今、気づいたんだけどよ、リイナ・・・」 なあに? とリイナが尋ねる。 「・・・俺は、お前に惚れていたみたいだぜ?」 「・・・バカね、今更気が付くなんて」 そう言うとリイナはラルフにそっと口づけた。 雨の後のぬかるみが、足に絡んで動きにくい。ラルフは常にも増して重く感じる砂袋を抱え上げて舌打ちをした。鞭を持った小役人は昨日の休みの分までも取り返そうというのか、いつにも増して怒声をあげている。積み上げられた砂袋はかなり高くなっていた。何人かが積み上げられた砂袋の上に立ち、ラルフたちから砂袋を受け取ってさらに積み上げていく。これを土台にして土手を作っていくらしい。ラルフは砂袋を上に立つ男に渡して、一息つく。見れば、先日の痩せた男がそれでもまだ砂袋を運んでいた。ラルフに気づくと、黙礼をする。気にするな、と言いたげにラルフは肩を竦めると次の袋を運ぶために歩きだした。しばらく歩くと、男が後から追いついてきてラルフに並んだ。 「こないだは、悪かった。」 そういう男にラルフは苦笑する。 「別に、あんたのためじゃねえ。あの役人が気にくわなかっただけだ」 そう言うと男は、にやりと笑って答える。 「ああ、まったく気にいらねえよな。けど、あいつをやめさせるなんざ、簡単なことだ」 「?」 「こういうものは、期限通りにあげるのがあいつらの仕事なんだ。だから、昨日の遅れを取り戻させようと今日は躍起になってやがるだろう? じゃあ、期限通りにあがらないようなことになったら? たとえば、今、あの積み上げられた砂袋が崩れたら? あいつの首が飛ぶってわけだ」 「そんなことが思う通りに起きるわけねえだろうが」 ラルフは笑って男の肩を叩く。こいつも相当キてるらしい。 「そう思うか? 言っただろう、簡単なことだってな。積み上げる砂袋に穴を開けておくか、口を緩めてやるんだ。一つじゃ足りねえだろうが、自分の運ぶ砂袋を全部そうしておいてみろ。 砂が流れて土台が崩れる」 お前、まさかそれを本気でやったわけじゃねえだろうな、とラルフが尋ねようとしたとき、役人から二人の足下に鞭が飛んだ。 「何をくっちゃべってやがる! とっとと運べ!!」 男はそそくさと進んで行き、他の男たちに紛れて見えなくなった。まさかな、とラルフは思って次の砂袋を担ぎ上げる。 ラルフが再び袋を運んで行くと、また怒声が聞こえた。 「バカ野郎! 口が緩んでるじゃねえか!!」 舌打ちをして見上げると、案の定、さっきの男だ。やめりゃいいのに、やってやがったか。とラルフは溜息をつく。成り行き上、行き過ぎることもできず、ラルフは土手を上がる。 「不注意だろ、それくらいにしてやれよ」 担いだ袋を降ろしながらラルフがそう言う。 「不注意で済むと思ってるのかよ! これが崩れたら、俺もお前たちだってただじゃ終わらねえんだぞ? ただでさえ、昨日の雨で緩みかけてるってのにだな・・・!」 「ああ、充分コイツもわかったろうさ、だからそれくらいにしてやれ」 舌打ちをして突き飛ばすようにラルフに男を引き渡す。ラルフは仕方ねえというように、口の端に血が滲む男を引きずるように土手を降りた。 男が何かを呟いている。それに気づいたラルフが、なんだ? と問い返そうとすると。 「・・・もうすぐだ・・・もうすぐ」 お前、まさか、とラルフが言おうとしたそのとき。上から怒声が響いた。 「逃げろ!! 崩れるぞ!!」 振り向いたラルフの目には土手の上にいたはずの男が宙に泳ぐ姿と、目の前に広がる茶色い塊が映った。横へ飛ぼうと思ったが、傍らの男を突き飛ばすのが精一杯で。目の前が真っ暗になった。 がしゃーーん!! 皿の割れる音が響いて料理長は振り向いた。 白い皿が割れて床に破片が散らばっている。そこにいるはずの少年の姿がなく、料理長は片眉をつりあげた。しばらくの間何かを考えていたような料理長だったが、やがて黙って割れた皿を片づけはじめた。 つづく |