その日、イーリスは朝早くから家を出た。その手には小さなスコップ、そしてその背にはリュック。 すっかり温かくなった日差しが、その横顔を照らす。少し眠そうな顔をしながらも、でがけに小屋の前の川で顔を洗い、立ち上がる。 今日は、ちょっと遠出をするつもりだった。 春を、探しに。 少しずつ、少しずつ暖かくなってきて、遠くの雪山が青くなってきて。きっと、もう、春はそこまできているのだ。そして、きっと、そんな春を感じ取れたら、気分も明るくなるはずで。毎年のことだから、だいたいこのあたりで春が一番早くやってくる場所はわかっていた。そこを目指していくつもりだ。 春の息吹は、風の中に感じ取れたらすぐに出かけないと、その成長は早い。 大きく息をついてイーリスは歩きだした。 目的地は決まっているけれど、一目散に歩いているわけではない。それだけを目指して、それだけを見ていたら、見逃すものがあることを、知っている。そして、今は、今こそそうする必要があると思っている。時々立ち止まって遠くの山々を眺めた。旅に出ることは好きだ。未知なる場所、未知なるものとの出会い。けれど、今、あの山々の向こう、この空の果てに行きたいと思う気持ちは、旅を求めているわけではないのもわかっている。だから、今は山の向こうへ旅に出ない。 そして再び歩き出す。 川沿いに歩いていく途中、目に付いた緑を摘んでいく。これが今日の目的だからだ。そして、ついでにあたりの様子も見ておく。 「夏にはこのあたりで茗荷が取れそうじゃねえ〜」 ふむふむと頷いて胸の奥まで空気を吸い込む。 川辺を外れて山裾の野原へ向かう。足元に揺れる草が冬の枯草から春の新芽に変わっていく。その野原についたイーリスは、大きく伸びをして、空を見上げた。 そして、そのままごろりと野原に寝転ぶ。大の字になって、目を閉じた。鼻腔をくすぐる土の匂い、風に揺れて頬を撫でていく草の感触、それらが、しっくりと心に染みていく。そのまま、しばらく、イーリスはその場所で眠った。 小屋に帰ってきたときは、もう夜も遅く、星が空に瞬いていた。暖かくなったとはいえ、夜はまだ肌寒い。行きと異なりいっぱいに詰まったリュックを玄関先に置くと、中身を取り出す。とりどりの春の草。長い冬を越え、その中に生命の力を育んでいる緑たち。 種類ごとに分けて地面に並べる。 そして、何やら頷きながら並べ替えたり組み合わせたり。やっと納得いくものになったのか、イーリスは並べた草を見て、その日初めて、少しだけ笑みを浮かべると立ち上がった。そして、その日は、そのまま眠った。 あくる日は朝から昨日摘んできた草を手に台所で作業を進めていたイーリスであるが、出来上がったものを、適当に器に入れて小屋を出た。 向かったのは友達の家だった。家にいるかどうかはわからなかったが、いてほしいと思っている。理由はいろいろあるけれど、とりあえずはこの、できたものを食べてほしいからだ。 玄関の扉をノックすると、中から声が聞こえた。 「は〜い、誰?」 ぱたぱたと足音がして扉が開く。金色の髪をなびかせて顔を出したのは、フレアだった。 「あれっ、イーリス? どうしたの?」 普段、あまり自分から友達を訪れたりすることがないイーリスなので、フレアはちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうな顔になった。 「嬉しいな、来てくれたの? 中に入って」 「フレア、昼飯もう、食うた?」 唐突にイーリスがそう尋ねるのに、フレアは笑いながら答える。 「ううん? まだ、これから。なあに、お昼ご飯食べにきたの?」 イーリスの手を掴んで家の奥に引っ張っていこうとして、やっとイーリスの手にあるものに気付く。 「なあに、それ。」 「うん、これ、食うてくれんかと思うて」 イーリスは手にしたものをフレアに差し出した。それを受け取ってやっぱり、少し不思議そうな顔をしたフレアは、にっこり笑うと 「ん、いいよ、イーリスも、一緒に食べよう?」 そう言って、再びイーリスを奥へ引っ張っていった。何度か来たことのあるフレアの家の台所で、イーリスは椅子に座らされる。イーリスの大きな身体のせいで、普通の大きさのはずの台所の椅子が、なんだか少し小さく見えた。 「待ってね、今、お茶入れるから」 楽しそうにフレアはそう言って、湯を沸かす。ポットに茶葉を用意してから、沸騰するまでに時間がかかるので、イーリスに向き直り、手渡されたものをあける。ふたを開けると、目に入ったのは緑色。 「・・・わあ、これ、えっと、全部、草・・・?」 「うむ、春の野草なんじゃよ〜。 あのな、もうじきあったこうなったら、花が咲くじゃろう? 皆で、花見をしようっちゅうて言うておったよな、きっと楽しいと思うんよ。 ほいでな、そのときに、わし、弁当でこれをもっていこうと思うんじゃけんど、 味がどうじゃろうかと思うて〜フレアに味見してほしゅうてな〜」 にゃはは、と小さく笑ったイーリスに、フレアはおかしそうに笑った。 「なあんだ。わたし、毒見役? ん、いいよ。食べてみたいな。ありがと。 あ、お湯、わいたかな?」 ぱたぱたとポットを持ってやかんの元へ運び、再び、ポットに湯を満たして戻ってくると、それをカップに注いでイーリスの目の前に置く。 「はい、どうぞ」 そうして、やっと落ち着いたようにフレアも椅子に腰を下ろす。そして、改めて受け取った野草料理をまじまじと見つめる。 「これ、イーリスが作ったの?」 「うむ、そうじゃよ、昨日、野原に行って取ってきたんじゃ」 「ふうん、いつも思うけど、ホントにイーリスって物知りだよね」 面白そうに、その中の一つを指でつまんで口に入れる。 「ん、美味しい。これ、なあに?」 「ええと、それは、ハコベのひたし」 「ハコベって、ええと、あの野原や道端に生えてるやつ?」 「うむ、そうじゃよん」 「へえ〜! 食べられるんだね。知らなかったなあ」 興味を示したフレアは次は違うものを口に運ぶ。 「これは、なあに?」 「たんぽぽのサラダじゃけんど、ちっと苦いかもしれん〜」 「・・・・うん、ちょっと苦い・・。 でも、食べられないほどじゃないし、なんだろ、えっと大人の味ってかんじ、かな」 くるくるとその瞳を輝かせてフレアがそう言う。ちょっとそれでも無理していそうなそのコメントにイーリスは苦笑した。その表情に気付いたのか、フレアが重ねて言う。 「ほんとだよ! ほんとに、おいしいってば」 「わかった、わかった、他のも食べてみるがよ〜」 「うん♪」 美味しそうに食べるフレアを前にして、イーリスは黙ってそれを見ていた。一つずつ、質問を繰り返すフレアに、一つずつ答えながら、イーリスは美味しそうにそれを食べてくれる友達を見ていた。 「土筆が食べられるのは知ってたけど、スギナも食べるんだね〜。」 「ぺんぺん草の天ぷらか〜。なんだか不思議だなあ」 「えっ、これ、レンゲってあの、お花のレンゲ? 葉っぱ、食べるんだ〜」 一つ一つに感動したように驚いてくれる友達を見ていた。 「は〜、ごちそうさま♪ おいしかったよ、イーリス、ありがと」 「美味かったかよ〜?」 「うん、なんかね、春を食べた〜!! ってかんじ。 元気になったぞ〜! って気分になっちゃう」 笑いながらそう言った友達に、イーリスは嬉しそうに答える。 「そうかよ〜、元気になったっちゅうて思えるか〜そうか〜」 「・・・イーリス?」 ふいに手が伸びてきて、イーリスの髪に触れる。ちょっと驚いて一瞬身体を引こうとしたイーリスだったが、なんだか急に真剣そうな顔になってしまったフレアに身体を動かせずにいた。 「えーと。なにか、あった?」 「何も、ないがよ〜? なんして。。。わしは、大丈夫じゃよ〜?」 「ほんとに?」 「ほんと、じゃよ?」 多分、それは嘘だということはお互いに知っているのだけれども。でも、本当だと言う間は、本当だと信じるとも、お互いに決めてもいた。別に口にだしあったわけではないけれども。 「え〜と、ただな、なんしか、最近、あまし皆元気ないような気がしてな〜 花見して、こういうもん食うたら元気もでるかと思うて。。。 ほいじゃけ、フレアが元気出たような気がしたっちゅうて言うてくれて、嬉しかったがよ〜」 「うん、元気出たよ。お花見、しようね、皆で。 ベリーちゃんや、ハナちゃんや、アリスお兄ちゃんや、ルシエルや、 ヴィスティでしょ、ジャスティでしょ、カーディでしょ、 オルツァにユイエに、ルーチェも来ないかなあ・・えっと、それから・・・」 指折り数えはじめるフレアに、イーリスはちょっと笑みを浮かべる。 「きっと楽しいよ♪ みんなで、お花見。 お弁当持って、集まって。イーリスのこのお弁当も美味しいし! わたしも、がんばってお料理作っていくから、お花見、しようね」 そして、そこで一呼吸置いてから、フレアは言った。 「だから、イーリスも、元気、出さなくちゃ駄目だよ?」 「・・・なんね〜、わしゃ、いっつも元気じゃよ〜」 そう答えたイーリスに、フレアはちょっといたずらっぽく笑いながら「ふ〜ん、そう?」と答え、そしてまた不意に手を伸ばすとイーリスの髪をくしゃくしゃとかき回した。 「なんね、なんね〜いきなり何をするっちゃ〜」 「だって、イーリスの髪、やわらかくって触り心地いいんだもの。。 だからね、こうしちゃうの!!」 そう言って更に髪をかきまわす。 「ぬおお〜やめんかよ〜からまってしまうがよ〜」 そう言いながらも、それが彼女の励ましの表れなのだとイーリスにはわかっていた。だから、友達のその優しい手の感触にちょっとだけ、安心もしていた。 帰り道、イーリスはもう一度空を見上げる。ちょっと、今日は友達に甘えてしまったな、と少し反省する。本当に元気になりたかったのは、やっぱり自分だったような気がする。 「はよう、花が咲かんかねえ・・・花見に行って、みなで行って、楽しゅう、過ごすんよ。 みなで、弁当食って元気に楽しゅう、過ごさんと、なあ」 そうして、再び歩き出す。 花開く春は、近いようにも遠いようにも思われたけれど、それでも、いつか必ず訪れるものであるから。 END |