一日目 「お〜!!!! ええねえ! 海じゃねえ!」 海岸に立ったイーリスが大きく伸びをしながら海を眺めてそう言った。季節はずれの海に行こうと思ったのは、ふと思い立ってのことだった。空を行く天使でありながら、イーリスは海が好きだった。夏の海、春の海、冬の海、秋の海、それぞれに表情が違い、波が違い、景色が違い、けれど、そのどれもが好きであった。海は彼にいろいろなことを教えてくれる。 潮の匂いを胸の奥まで吸い込んで、イーリスはてくてくと海岸を降りていった。波打ち際に立ち、足を波が洗ってゆく感触を楽しむ。照りつける日差しは今も暑いくらいであったけれど、足に触れる波は冷たくて、秋になったのだなあと感じた。 一日目は、そうやってずっと海の波を見つめていた。 寄せては引き、引いては寄せてくる波を飽きることなく見つめていた。ずっとそうやって波を見つめていると、時間の感覚がやがてなくなっていく。時間はここでは意味をなさない。時間を忘れるためにやってきたのだから、まずは、自分の中から時間を消してしまうのだ。日の出と日の入りと、それだけで十分ではないか。 朝と昼と夜と、それだけでいいではないか。 何をせねばならぬこともなく、何を考えねばならぬこともなく、ただ波を見つめてぼ〜っとしていればいい。そういう心持ちになりにきたのであるから。 ごろり、と浜に寝そべると目を閉じて、波の音に耳を澄ます。柔らかく、優しく、どこか激しくさざめく波の音に耳を澄ます。その音は果てることなく、始まりの時から終わりの時までずっとこうして響いているものであろう。変わることのないその営みを、海は退屈であると思うであろうか。苦痛であると思うだろうか。 海はそうは思わないだろう。変わることない波の動きをそれでよし、と繰り返すものであろう。 ふむ、とイーリスは目を開ける。 今の自分を受け入れることなくして、どうして違う自分を見つけることなどできるだろう。海がそう教えてくれたような気がした。 二日目 一日ごろごろのんびりしていたので、今日は海に出てみることにする。水は冷たいとはいえ、泳げないわけでもない。波は荒いが、だからこそ、どこまで泳げるか試してみたい気もする。 ざぶん、と海に飛び込むと波をかき分け沖へと向かう。波に流され、思うように進むにはかなり苦労せねばならなかった。どこへ泳ぎつきたいという目標があるわけでもなく、ただこの海はどこへつながっているのか、その先にあるであろう陸地を見てみたかった。さすがにイーリスでも泳ぎきれる距離ではないだろうという気もしていたけれども、いけるところまで行ってみるのも楽しいではないか。 空では役立つ翼も海では何の意味もなさない。飛んでゆけばこの海の先などさして苦労することもなく見ることができるのであろうけれども、この場合は泳いで渡ることに意味があるような気がしたのである。海に勝負を挑んでいるのだ。 自分はどこまでいける? 何ができる? 何を見ることができる? その問いを教えてもらいたいのかもしれない。ざぶざぶと夢中になって泳ぎながらふと見渡せば泳げども泳げども景色の変わらぬ水平線に、なおさら躍起になって波を掻く。いいかげん、腕も疲れてきたようなころ、それでもなお変わらぬ水平線に、イーリスはとうとう泳ぐのをやめ、ぷかぷかと波間に浮かんだ。ふいに、笑いがこみ上げてくる。 「にゃははは〜!! いやあ、負けたがよ〜! やはし、海のでっかさには、勝てんのう〜!!」 波と格闘して泳いでいたときには、あんなに激しく立ち向かってくるように思えた海に、今、身を任せて流されるままになったとたんに、穏やかに包み込まれているような気がした。 なんと、小さなものであろうか。自分という存在は。 どこまでいけるか、とか何ができるか、とか何を見れるか、とか、それを知ることに何の意味があるのだろう? そんなことは誰にもわからない。自分にだってわかるものではない。何かをしてやれる、なぐさめてやれる、元気づけてやれる、それはみんな、思い上がりだ。そうでありたいと、そうであってほしいと思う自分の心の有りようでしかなくて、結局は、自分の心を通してしか周りのものを見ることなどできていないに等しい。 水平線は果てしなく遠い。その先に何があるか知りたいと思う自分は、そこまで続く海を自分が越えることができると思いこんでいる。挑めば勝てると思っている。けれど、違う。ちっぽけな自分は海を越えることはできない。しかし、こうやって己の小ささを知り波間を漂えばいつか、波がその地へ自分を運んでくれるかもしれない。己の力には限界がある。それを知り、受け入れたとき違う道も見つかるものかもしれない。 自分の小ささを知る。それは、ある意味とても痛快なことだった。心のどこかが自由になった気がした。 その日はずっと、波にぷかぷか浮かんで過ごした。 三日目 「そういえば、土産を持って帰るっちゅうてたのう〜」 魚とタコを捕って帰る、とそう約束した。開いて一夜干しにしたら、立派なお土産になることだろう。ざぶん、と海に飛び込んで、今日は潜ってみる。荒い波に揉まれて育った魚は、身が引き締まって美味なのだという。人も魚もよう似たもんじゃな〜と、イーリスはそんな話を聞いたときに思ったのだった。 けれども、表面の波の荒々しさに反して、海の中は思ったよりも穏やかだった。こういう懐の深さもイーリスは好きだ。表面に見えるものが全てなのではなく、一つの事象が正しいわけでもなく。形にはまるものでもなく、始まりも終わりもなく。とらえどころがなく、けれども海は海であり、それですべての答えとなっているようで。 多くの命が住まい、命の数だけ死をも飲み込む。今の自分もまた、この海の命をいとしむように共に泳ぎながら、自らのためにそれを奪おうとしている。 自分が食べるためとお土産用に魚を捕って浜にあがったイーリスは、タコの吸盤に吸い付かれて模様ができてしまった手をみて笑う。この力、これが生きているということ。 生きるために食べる。そのために命を奪う。生きるということは、それだけで罪を背負うものかもしれない。木の実の一つでさえも、その木が次代へ繋ぐ命を貰っているということなのだから。けれど、生まれてきた、ということは、その罪を許されているということなのだと、イーリスは思う。生きることは罪ではなく、贖罪でもなく、生きよ、という赦しの元にあるものであろうと。魚を食べるということは、その魚が今まで食してきた小さな命も共に自らに背負うこと。自分の中に命を抱きしめること。 食べることを楽しむことは生きることを楽しむこと。食べることをいとしむことは、命をいとしむこと。たくさんの、小さな命を取り入れて生きている自分は、たくさんの小さな命の分も生きることを楽しむのだ。それが、産まれてきた者の背負った約束なのだと思う。 器用に魚を開いて木陰に吊したイーリスは、そろそろ帰るかな、と思った。明日になったら土産を持って、帰ることにしよう。待っている友達がいるということは、随分と幸せなことだ。 いつかまた、旅に出るだろうし、それは長い旅なのかもしれない。けれども、「帰る」と思う場所があるというのは、随分と幸せなことだ。自分にとってそれは、場所ではなく、人であり、心であるのだろうけれども、それゆえになおさらに幸せなことであると、そう思えた。 四日目 来たときと同じ、波の音にしばらく耳を澄ましていたイーリスは、 「おお〜!! 海よ〜! また来るがよ〜!!」 そう大きく叫ぶと、自らの帰る場所へと飛び立って行った。 END |