「あんた、そこの井戸はもう使えないよ」 旅人らしい男が、このあたりに住む女にそう声をかけられて振り向いた。浅黒い肌にくしゃくしゃの黒髪、長い旅のせいか無精髭が伸びている。男は人なつこい笑顔を女に返すと水のある場所を尋ねた。 「その道を抜けたら川の水をひいた水路があるよ。みんなそこから水を汲み上げてるんさね。 街の中心を通ってこの外れまで水路が届くのに100年かかったっていうけどねえ。 確かに、このあたりまで水路が来たのはついこないだのことなんだけど、随分便利になったよ。」 男は礼をすると、女に言われた通りの道を歩いていった。その姿を物陰から見つめる影がいくつか。 「なあ、どう思う?」 「中途半端にこの街に詳しいってことは、アレだよ、昔、この街に来たことがあるってヤツだ」 「子供のころかな?」 「いや・・どうだろう? 井戸があったころだろ、5年以上は前だよな。ちょっとつけてみようぜ」 こそこそと物陰から物陰へ小さな影が移動する。男が水路で顔を洗い、歩いていくのを追いかける。男は下町の繁華街を抜け、ある建物の前で立ち止まった。そうして懐かしそうにその建物を見上げる。 「・・・ありゃ、決まりだよ」 「そうだよなあ、あれをあんな顔して見上げるってことは、馴染みの女がいたんだ、きっと」 「よし、じゃあ、オレが行く。 待ってろよ、たんまり貰ってくるぜ」 「上手くやれよ?」 「大丈夫、あいつ、どう見たってタダの田舎もんだ、ころっとだまされてくれるぜ?」 イーリスは、それだけが今も変わらず残っていた建物を見上げていた。人の賑わいもあの頃と変わらないといえば変わらないが、ただ、この街にもう、彼の知る人間はいない。そんな自分の感傷めいた気分に可笑しくなり、ぽりぽりと頭をかくと歩き出そうとした。そのとき。 「お父さん!!!!」 そんな声とともに、イーリスの足にぶつかってきた小さな影があった。驚いて見下ろすと、いまだ10才にも満たないような幼い子供がイーリスにすがりついていた。 「・・・お父さん・・・??」 イーリスは思わず自分を指さして子供が言った言葉を繰り返す。 子供はイーリスを潤んだ目で見上げる。 「あ・・・ごめんなさい・・・もしかしたら、オレの父さんじゃないかって・・ 母ちゃんが死ぬ前に、オレの父さんは黒髪に優しい顔した旅人だったって言ってて・・・ さっきあなたが見上げてた宿の娼婦をしてたんだ・・・だから、もしかしたらって思って・・・」 寂しげに俯いてしまった子供に、イーリスは目線の高さを合わせるようにしゃがみこんで顔をのぞき込んだ。そうして、その大きな手で子供の髪をくしゃりと撫でる。 「そうじゃねえ・・・この黒い髪も黒い瞳もわしに似ておるかねえ」 笑いながらそう言う。ちょっと驚いたように子供が顔をあげてイーリスの顔を見つめた。 「名前はなんというがよ?」 尋ねられて、少しおずおずと子供が答える。 「・・・・ディー」 「ディーかよ! 母さんがつけてくれたんかよ~」 そう言うより早いか、立ち上がるとイーリスは子供を肩に担ぎ上げた。驚いて落ちそうになった子供がイーリスの頭にしがみつく。肩車してもらっていつもより随分と高い視界を目にした子供は、一瞬言葉をなくした。 「家はあるんかよ~?」 言われて、はっと気が付いて答える。 「町外れの小屋に住んでるんだ・・・小さくてボロっちいけど」 「わっはっは、屋根さえありゃあ、上等じゃ! 案内しとうせ」 「え・・・? え~と・・・・」 自分のことをどう呼んでいいか考えあぐねているらしい子供にイーリスは言った。 「お父さん、じゃろが~」 「・・・・お、父さん・・小屋に来るの?」 「おお、親子じゃろうが、一緒に過ごすが当たり前じゃな!」 悠々と笑いながら歩きだすイーリスに、肩の上の子供がちょっと困ったような焦ったような声をかける。 「あの、あの、オレ、一人暮らしじゃないんだ。ほら、オレと同じような友だちと一緒に住んでて・・・」 「かまわんがよ~! 一人やなかったんじゃったら、良かったのう! 友だちがおるっちゃあ、ええことやがよ。大切にせんといかんがよ~!」 「いや、でも、オレ、別にあんた・・・父さんに無理言うつもりはなくて 父さんはこれからまだ旅があるんだろうし、オレはただ、飯だけでも・・・・」 「何を遠慮するかよ~! たった二人の親子じゃろが。気にせんでもええがよ!」 こんなつもりじゃなかったのに、と子供はイーリスの肩の上でどうやって逃れようかと考えていた。金をくれればそれでよかったのに。田舎ものだから、きっとすぐに悪かった、でも、お前をひきとる余裕はないから、これで勘弁してくれ、とか言うと思っていたのに。もしくは、身に覚えがなくとも、可哀想だから飯くらいおごってくれるとか。それが、いったい、なんでこんなことになってる??? イーリスは子供を肩車したまま水路の土手を鼻歌を歌いながら歩いていた。 この水路は、あのころ、まだなかった。そして、ちりりと胸の奥が痛む。 もぞもぞと肩の上の子供が居心地悪そうに動きながら 「ね、ねえ、重いだろう? 降ろしていいよ」 と言うのに、イーリスは笑って答えた。 「にゃっはっは、大丈夫じゃよん。小屋はまだもっと向こうじゃな、走るがよ~!!」 「う、うわわ・・・わ~!!」 思い出を振り払うようにそう言うとイーリスは走り出した。あわよくば下に降ろされると同時にずらかろうと思っていた子供は、そのスピードに思わずイーリスにしがみつく。そして。どうせこの男だって一生この街にいるわけじゃなし、この際だから、しばらくコイツにたかってみるか、と心を決めたのだった。 その小さな小屋は、イーリスがかつてこの街にいたころに転がり込んでいた小屋とよく似ていた。一回りくらい小さいものだったけれども、今にも倒れそうなあたりもよく似ている。 「お~・・なかなか立派なもんじゃねえ」 笑って言うイーリスがその小屋に手をかけようとしたとき。 「ディーを放せ!」 その背中に石つぶてが投げつけられた。 「おわ!」 「放せ~! ディーを放せ~!」 次々と石が投げつけられる。もっとも、大きな石ではないし、子供の投げるものでさして威力はないものの、肩にのせた子供に当たってはいけないと、イーリスは子供を降ろすと背中で庇う。 「お~い、何もせんがよ、石投げるのやめんかよ~。ディーにも当たってしまうがよ~」 「お前たち、やめろ、オレは大丈夫だから! オレの父さんだぞ!」 イーリスとディーの言葉に、ぴたり、と石が止む。しばらくして、出てきたのは3人の子供たちだった。彼らはディーの仲間だ。カモにとっつかまったディーを助けるつもりだったのだが、ディーには何か考えがあるらしい。それに、この男も、なんだか怒ってるわけでもなさそうだし。 「お~。これが一緒に住んでおる友だちかよ。ピンチじゃあ思うて助けてくれたんじゃねえ。 ええ友だちじゃな!」 イーリスはにこにこと笑ってそう言うと、一人ずつの頭をくしゃくしゃと撫でた。そんなことをされたことのない子供達は、驚いたようなくすぐったいような顔をして不思議そうにイーリスを見上げる。ディーはそれを少し面白くなさそうに見ていたが、イーリスの袖を引いて言う。 「父さん、腹減ったよ。」 「おお、そういえば、そうじゃのう!」 言われてイーリスも自分の腹を押さえる。しばらく考えた後、イーリスは言った。 「おし、ほいだら、飯を捕まえに行くかよ~!」 「・・・・捕まえに・・・?」 しばらくの後、水路を遡り川との合流点でざばざばと水の中に入っているイーリスの姿があった。 子供達は川縁で手を振ったり、大声を出したり。足下にはどこで拾ってきたのか、古ぼけた桶。水中に手を下ろしていたイーリスが素早く動いたかと思うと、両手を頭上にあげる。その手にはびちびちと跳ねる魚がいた。 「すっげ~! 5匹目!!」 水の中を歩いてきたイーリスが桶の中に魚を入れる。 「ひのふのみい・・・おっしゃ、これで一人一匹ずつじゃねえ♪」 そう言うと、岸へ上がってぷるぷると水滴を飛ばした。 「服、びしょぬれだよ?」 子供がそう言ってイーリスの服の裾を絞る。 「にゃっはあ、今日は天気がええさけ、じきに乾くがよ~」 気にする風もなくイーリスはそう答えると、子供の頭を撫でた。それから土手のあたりを見回して今度は地面を這う蔓をたぐりよせる。 「む~・・・うむ、これこれ! これを辿っていくがよ~」 言われて子供たちは不思議そうにではあったけれども、蔓の先を辿っていく。長く伸びた蔓の根元、土に埋まっている場所がわかるとイーリスはこれまたきょろきょろと辺りを見回して、適当な木の枝を拾い上げた。 「おっしゃ、これで地面を掘るがよ~」 がしがしと地面を掘り出したイーリスを、最初はまじまじと見ているだけだった子供たちが、やがて同じように尖った枝や石で地面を掘り出す。やがて、蔓の先に大きな固まりが見えた。 「あ! 芋だ~!!」 その正体に気付いた子供から歓声があがる。 「おっしゃ~! これで、魚焼いて、芋蒸して、飯にできるがよ~♪」 はしゃいだ子供たちが芋を掲げ、魚の入った桶を持って走り出す。イーリスはその後をゆっくりと着いていきながら、途中途中で何かを拾い集めていた。ディーは、それを横目で見つめながら、みなの後を追っていた。 その夜。 結局、子供たちといっしょの小さな小屋に落ち着いたイーリスは子供達が寝入った後も窓際で差し込む月明かりを頼りにごそごそと何かを作っていた。背後に気配を感じて、呼び掛ける。 「ディーかよ?」 「・・・うん・・・なんでわかったの?」 少し驚いたようにディーがイーリスの横にしゃがんで、何を作っているのかとその手許を覗き込む。 「にゃはは、そりゃ、わかるがよ。父さんじゃけなあ」 「・・・・」 黙り込んでしまったディーをちらりと見ると、イーリスは今自分が作っているものをディーに見せた。 「これな、魚を取る仕掛けじゃよ」 今日の帰りに集めてきた、藁や枝や蔓で、細長い筒が編まれていた。既に出来上がったものもあり、ディーはそれを手に取って見た。 「これをな、川の中に仕掛けておくがよ~。ほいだら、魚が中に入って、出れんようになるがよ。 手でつかまんでも、魚が捕まえられるがよ。 これならディーたちでも魚つかまえられるじゃろう」 言われて、ディーはイーリスの顔を見上げる。にこにこと笑って自分の顔を見返してくるイーリスに、ディーはいたたまれず、つい目を逸らしてしまった。 「どうしたよ~、ディー、なんぞ元気ないがよ」 くしゃくしゃと頭を撫でる大きな手。うつむいたディーは、つい、言ってしまった。 「・・・本当は、わかってるんだろ? オレがあんたの子供じゃないってことくらい」 「・・・なんして? わしのこと、父さん言うたじゃろうがよ」 イーリスはそう言ってディーを抱き寄せた。 「金をくれるか、飯を喰わせてくれるかでよかったんだ。それを・・・あんた、おかしいよ。 あんたみたいな人、いるわけない」 「なんねえ、ここにおるがよ。わしがおるじゃろうがよ」 イーリスは笑ってくしゃくしゃとディーの頭を撫でた。 「これでなあ、魚をみなで取るがよ。自分達が食べる以外のものはなあ、ほれ、あそこの宿屋に持っていくとええが。買い取ってくれるやら、店で出した食事の残りと交換してくれるやらするじゃろう。 あと、今日、掘った芋なあ、ちゃあんと葉の形やら、堀り方やら覚えておるかよ? あれは長もちするさけ、今の季節に掘っておいてなあ、食べきれん分はここの隅にでも残しておくがよ。」 そうして、また淡々と作業に戻るイーリスに、ディーが呟いた。 「・・・あんたが、本当にオレの父ちゃんだったら良かったのに・・」 イーリスは黙って手をとめると、ディーの頭をもう一度撫でた。 「それでもなあ、ディーよ、本当の父さんがどこかにちゃあんとおると思うだけで ちくと安心できるもんやないかいねえ。」 「会ったこともないのに、父さんがいるなんてわかんないよ・・」 「にゃっはっは、自分の顔を見てみるとええがよ」 「・・・顔?」 「母さんと似ておらんところは、父さんに似ておるっちゅうことじゃあ。 ディーの中には、父さんがちゃあんとおるんじゃよ?」 「・・・・オレの母さんはきれいな金髪だったよ。 オレの黒い髪は、本当に父さん譲りなんだって。オレのこの黒髪が父さんみたいだって いつも、母さんが言ってたさ・・」 「ディーのこの、きれいな黒い髪は父さんにもろうたもんなんじゃ~。」 「・・・オレ、母さんにそう言われるの、嬉しかったよ。 オレは、会ったこともないけど、父さんに似てるんだって思うのが嬉しかった」 つい、胸がつかえて鼻をすすりあげるディーの背中をイーリスの大きな手が優しく叩いた。 「・・・本当は、いつも、ああやって旅人に声をかけて。 生きるためにお金も欲しかったけど、本当は、もしかしたら、本当にオレの父さんに 会えたりするんじゃないかって、そう、思ってたんだ・・・」 だって、もう、会ったことのない父さんしかオレにはいないんだから。 そうディーが呟いた。本当に、あんたがオレの父さんだったら良かったのに。あんたみたいな人がオレの父さんだったら、いいのに。 「ディーよ、会いたいんじゃったら、会いに行くがよ」 しばらくの沈黙の後に、イーリスがそう言った。ディーはその言葉の意味が見えずに、顔を上げてイーリスを見上げる。 「旅に出るがよ、探しに行くがよ。見つかるか、見つからぬか、それはわからぬ。 けんど、もっとようけいのことに出会うこともできるがよ。 ほいじゃけなあ、大きいなれな。強うなれなあ。 父さんを待つだけやのうて、迎えに行ってくるがよ」 どこに。どうやって。そんな無茶な。そういう言葉が頭を掠めた。けれど、なぜか、ディーは、そのイーリスの言葉に頷いた。まだ見ぬ父に、会いにこいと言われているような気がしたのだ。 真摯に頷くディーに、イーリスはにっこりと笑った。そして、まだ小さなその肩を励ますように叩く。 「さて、明日の朝には、皆の分、仕掛けを作っておくがよ。 もう、遅いさけ、ディーは寝るとええが」 「・・・うん」 本当はもっと側にいたかったけれど。ディーはしぶしぶながらも頷いて、寝床へ戻っていった。 なんとなく、予感はしていた。きっと、明日の朝、目覚めたら・・・・。 明くる朝。 目覚めたディーたちが見つけたのは、大小形の揃わない、魚を取る仕掛け。そして、何時の間に掘ってきたのか、昨日食べたのと同じ芋が転がっていた。けれど、それを用意してくれた人の姿はもう既になく。 「チェっ。こんなものより、金を置いて行ってくれた方が、助かったのによ」 口ではそう言いながらも、どこか嬉し気なディーが、どこかいびつな形の仕掛けを手にする。他の子供もそれにならって銘々手にとって珍しそうにそれを眺める。 「ま、仕方ねえよな、せっかくだし。川に、仕掛けにいってみようぜ」 イーリスは、自分を父さんと呼んだ子供のことを思い、ふと苦笑をもらした。 確かに自分はこの街を訪れたのは二度目になる。以前、訪れたとき、自分はまだ少年といっていい年齢だった。だが、自分が今の姿になるまでに、この地上ではもっとずっと長い時間が流れていたのだ。自分がこの街を訪れたころ、まだ、街に水路はできてもいなかった。水路を引くための工事が行われはじめたくらいのころだった。完成するのに、100年近くかかったと、町の住人も言っていたではないか。 だから、今のこの街に、イーリスが知る者はもう、誰もいない。イーリスの知る者を覚えている者もいないだろう。だが、あの子供を見たとき。その黒い髪とまなざしをみたとき、かつてイーリスがこの街で出会った人をふと、連想したのも事実だった。 かのひとは、あれから、もう一度誰かを愛することができただろうか。亡くした人と同じくらい、あるいはその次でも、誰か、人生をともに歩もうと思える人と出会えただろうか。あのころ、自分は幼くて。大切な人を亡くした人をなぐさめる術を知らなかった。ただ、できたことといえば・・・・。思い返して、苦笑する。甘くて苦くて痛い思い出だ。今は。今は少しはマシになったのだろうか、自分は。だが、やはり、苦笑してしまう。今も、自分は人をなぐさめる術を持たないと。他人の淋しさも悲しさも、所詮自分の物差でしか計ることはできない。ならば、自分は。愛する人を持たぬと決めた自分は、それを亡くす痛みも悲しみも、理解することはできないのだろう。それを、幸せだと言う人もいれば、不幸だと言う人もいるだろう。だが、それも自分が選んだ道で。 「・・・そう、決めて、そう生きるなら。そう言うたよなあ、おっちゃん?」 ふと、小指にはめた指輪を見つめて呟いてみる。 ただ、自分にすがりついてきたあの小さい手は。自分が捨ててきたものが形になったもののような気がして。どこか後ろめたさがつきまとう。そのまま一介の旅人として記憶を残して戻ってきたのも、そのせいかもしれない。 「・・・わしも~まだまだ、じゃのう」 笑ってイーリスは、伸びをした。いつか、ディーは旅に出るのだろうか。自分の血筋を求めて、旅に出るだろうか。その旅が自分の旅と違って辿り着く場所のあるものであればいいと。そう願いながら、イーリスはその街を後にしたのだった。 おわり |