時の船 3

月明かりがあまりに美しくて、 そのまま眠ってしまうのがもったいなく思える夜だった。
聖乙女になって以来、あまりのびのびと外出したこともないアシャンは、 そっと部屋を抜け出す。
『たまには、こんなふうにひとりで散歩したいものね』
夜の月は、冷たく青白く、孤独で、 あの日、海を見つめていた彼の姿を思い起こさせる。
彼の事を思うと、胸が痛い。けれど、そんな自分を愛おしいと思う。
聖乙女ではない、一人のアシャンティ・リイスという人間として、 彼を思う気持ちを、大切にしていたいと、そう思うようになっていた。
いつか、彼に伝えることができる日がくるかもしれない。
そう思うと、少しは心が軽くなる。前向きなのが、自分のとりえだ。
それまでは、聖乙女と聖騎士団長、それでいい。

だから、宮廷広場で彼に声をかけられたときは、胸がときめいた。
「ア、アシャンティ様?」
まさか、こんなところでこんなふうに出会うとは思いもしなかった。
「眠れないのですか?」
胸の鼓動が彼に聞こえてはいないだろうかと思いながら、彼女はそう言った。
「アシャンティ様こそ・・・こんな時間にこんな所におられてはなりません」
「月に誘われたんです。でも、出会ったのがあなたで良かった」
それは、本当だ。カインに出会えたことが嬉しい。
カインと二人というだけで、どうして心が 聖乙女からアシャンティに戻ってしまうのか。
「ふふっ、でも、そうね、もう帰ります。聖女宮まで、送ってくださいます?」
そんな言葉も、カインを好きなアシャンティという自分のものだ。
黙ってしまったカインに、
「それとも、ひとりで帰らなくちゃだめかしら?」
と言う。聖乙女の言葉に彼が逆らえないのはわかっていてちょっと意地悪を言ってみる。
「・・・いえ、お送りします。何があるとも限りませんから」
あくまでも、聖乙女に対する態度を崩さない彼に、それでいいと思っていたのに、 寂しさを感じずにはいられない。
二人で歩くことは、嬉しいのに、 聖乙女と聖騎士、それだけの関係と思い知らされるようで ちょっと悲しい。
どんなにきれいな言葉でかざっても、 どんなに明るくふるまっても、 彼の側にいると、彼の声を聞くと、溢れる思いをごまかせない。

「また、国境付近が少し騒がしくなってきているようです」
街を歩きながら、カインが言う。どんな事でも、彼が話してくれるなら、 彼の声が聞けるなら、黙って歩いているよりも嬉しい。
「そのようですね。どこの国の者か、わかっているのでしょうか」
「それは、まだ不明なようですが・・・。
 野盗の類いが増えているということも聞いております。
 何にせよ、少し我々も警戒せねばなりません。」
もちろん、聖乙女としても彼の話を真剣に聞いている。
確かにここしばらく、国境で小さな事件が頻発していると嵐雷聖騎士団からも 報告されている。隊商が襲われるとか、盗賊が街道に巣食うとか、 そんなことの裏にも、何が隠されているかはわからない。
そのために、何を探り、どう対処してゆくかも聖乙女の職務だ。
「そうですね。また、二年前のように、戦になるのでしょうか」
初めての戦は、勝利に終わったが、 国を救うかわりに、多くの人の命を奪ったのも確かだった。
「できれば、そのような大事になる前に、なんとかしたいものです」
「たよりにしています」
聖騎士といえども、けして戦を肯定しているわけではない。
一方的な正義などありえない。そう思っているカインだからこそ、信頼できる。
候補生のころ、ギアール軍との闘いで、彼は敵の女将軍を見のがした。
聖騎士団長としては、甘い処置といえるが、 アシャンは、彼のそんなところが好きだった。
早くなったり、遅くなったり、何かに迷うようなカインの歩調にあわせて 歩きながら、 こんなふうに二人で歩くのも3年ぶりかな、とアシャンは薄く微笑む。
そんなアシャンに気付かないように、カインが呟くように言った。
「戦になったとしても、命に代えてもお守りします。」
それを聞いて、アシャンは立ち止まる。そして、ふいに腹立たしさが沸き立つ。
私の気持ちも知らないで、どうして、こんなことを言うんだろう?
自分が助かるかわりに彼が死んで、それでもいいと思えるなんて、 私が思っているとでもいうのかしら?
「そんなこと、言わないでください。 命に代えてもなんて。
 もし、戦に勝利しても、私自身が無傷であっても、
 あなたの命が失われてはなんの意味もありません。
 生きているからこそ、大切なものを守れるのでしょう?
 私を守ると言うなら・・・・どんなことがあっても
 戦場から生きて戻ってください」
まだ言い足りないくらいに、心の中は乱れていたが、 これ以上言うと、涙がでてしまいそうだった。
「・・・・それが、アシャンティ様の望みなら。」
アシャンのあまりの激しさに驚いたようなカインが、そう言う。
聖乙女の願いだから、聞いてくれるんだろうか。
それでもいい。彼が、簡単に命を賭けるなんて事がなくなるなら。
「じゃあ。約束のしるしに、ゆびきりです。小さい頃、やりませんでした?」
アシャンティは、ちょっと笑いながら小指を差し出した。
彼の優しい指に触れてみたかった。
これくらいの望みは、叶えられてもいいと、そう思う。
だって、月が赦してくれたのだから。彼との出会いを。
「ア、アシャンティ様、それは・・・」
慌てたようなカイン。今は薄暗くてよくわからないけれど、 いつも彼はこんな事を言うと、頬を染めていたものだ。
それが見たくて、いつも、自分もとてもどきどきしているのに、 なにもないかのように振る舞っては、彼の腕に触れたりしていた。
「大丈夫、月だけしか、見ていません。」
アシャンはそう言うと、彼の蒼い瞳を覗き込んだ。
今の自分は、聖乙女ではない、アシャンティだ。そう、自分でわかっていた。
カインがゆっくりとアシャンの小指に自分の指を絡ませる。
本当は、肩を抱いてほしい、彼の胸に顔を埋めてしまいたい。
でも、今は、この指を通して伝わる彼の温もりで十分だった。
彼が、指をほどくと、アシャンは彼から離れる。
もう、聖女宮はすぐそこだ。
「どうも、ありがとう。ここからはもう大丈夫です。」
精一杯の強がりのように、にっこりと笑いかけると、 駆けるように聖女宮への道を急いだ。
彼の指が触れた小指に唇を寄せる。そして胸に抱き締める。
その頬を濡らす涙を、月明かりだけが知っていた。





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