時の船 6

聖乙女を譲位する日、アシャンは聖女宮の部屋の窓から 街を見渡した。
今日で、この窓からこの風景を見るのも最後。
大好きな風景だった。
大好きな人がいる街だった。
だけど、今日からは、違う窓から、 大好きな人と一緒にこの街を眺めるのだ。

聖乙女の就任式とその後の晩餐会のの一方の主役は、 アシャンであるとも言えたが、 彼女の心はすでにここにはなかった。
彼が、まだ少し早い時間に王宮を辞したのはわかった。
彼女もまた、その姿を追いかけて王宮を出る。
出掛けに、ロテールが軽くウインクを飛ばしたのが見えた。

遠く、街を歩くカインの姿が見える。
追いつけそうな気もしたが、しばらく彼の後ろ姿を見つめていたくて、 そっとその後をついていく。
ずっと、彼の後ろ姿を見ていた気がする。
この距離が、彼とアシャンの5年間の距離だった。
でも、すぐにそんな距離、なくしてみせる。
そのために、彼女は選んだのだから。

カインは宮廷広場に入ったところで、立ち止まった。
何かを考えているようだ。
アシャンは彼に近づく。
「ここにいらっしゃったんですか?」
そう、声をかける。彼は驚いたように振り向いた。
ふと、アシャンは思い出す。
彼の驚いた顔が見たくて、よく突然声をかけた。
いつも表情の動きの少ない彼が、彼女にだけは素直な反応を返してくれて、 それが嬉しかったのだ。
「アシャンティさま・・・」
彼がそう応える。
けれど、アシャンは彼にそう呼ばれたかったわけではない。
「もう、聖乙女ではないんですから、アシャンティ様はやめてください」
そうアシャンは言った。もう一度、彼に呼ばれたい。
「以前のように・・・アシャンって・・・呼んでください」
そう言って、彼に近づく。彼に思いが届くといいと思いながら。
彼との距離を縮めたくて。
「・・・アシャン」
彼がそうささやく。アシャンは胸の鼓動が早くなるのを感じた。
「はい・・・カイン様」
やっと、そう答える。彼の名を、そう呼べることが嬉しくて。
「アシャン・・・・アシャン・・俺は・・」
カインがアシャンの名を繰り返す。
それだけではなくて、彼がアシャンとの間を埋めようとしてくれているのがわかって、 アシャンは、だまって彼の次の言葉を待つ。
「・・・・すまん、アシャン・・・俺はお前に言いたいことがある・・・だが・・
 少し、待ってくれ・・・・言葉が出ない」
アシャンは彼の心に触れた気がして、だまって待つ。
彼もまた、ずっと自分を待っていてくれたのだと、わかって。
「ええ、カイン様・・・私、待ちます。
 カイン様は、私のためにずっと待ってくださったのですもの」
そう答えて、そっと彼の手を取る。
ずっと、触れることが許されなかった手だ。
でも、あの頃と変わらず、少し体温の低い手。
「アシャン・・・」
ふいに、カインはアシャンの名を呼ぶと、彼女を引き寄せ抱き締める。
強く抱き締められて、アシャンはカインの腕の中で息をすることさえ忘れそうになる。
「アシャン・・・・愛している、お前を。ずっと・・・」
「・・・・はい・・・・カイン様、私も、ずっとカイン様のこと・・・」
彼の腕の中で目を閉じる。ずっと、こんなふうに抱き締めてほしかった。
ずっと、そうささやいてほしかった。
アシャンは、カインの背中に腕をまわした。彼にもっと触れたくて。
「アシャン・・・・俺は、お前に伝えるために、5年もかかった・・・」
「いいえ、カイン様は、私を待ってくださったんです。
 私がどちらも捨てられないことをご存じだったんですよね。
 私、カイン様を好きで好きで、聖乙女であることが辛かった。
 でも、聖乙女になる夢が叶えられて幸せでもあった。」
「すまない、アシャン・・・」
「私、幸せです、カイン様。
 夢が二つとも、叶いました」
それは、本心だった。知らず、涙が溢れていた。
カインの唇がその涙をぬぐってくれる。まぶたに、頬に、彼の唇を感じて
アシャンは酔いそうになる。
やがて、彼の唇がそっと、アシャンの唇に触れる。
その口づけが、カインの思いの激しさを映すように激しさをましてゆく。
アシャンは、それでも彼の溢れる思いを受け止めて応えようとする。
けれど、息をすることも惜しむような激しさに、抱き締められていなければ、 くずおれそうになる。
「カインさま、苦しい・・・」
やっと吐息を漏らすと、カインの腕が少しゆるめられた。
「・・・・すまない。」
そう言う彼にアシャンは微笑みかける。そっと彼の頬を両手で挟む。
ずっと、こうして彼のきれいで、寂しくて優しい瞳を見つめたかった。
「いつも、私を見守ってくださっていましたね。
 私、カイン様がずっと側で見てくださっているとわかっていました。
 だから、私、いつも、安心できました。
 元気になれました。勇気が出せました。
 全部、カイン様に、いただきました」
「違う、アシャン、俺はそんな偉い男ではない・・・
 俺は何度も、お前が聖乙女になどならなければいいと思った。」
「でも、私は嬉しかったんです。
 カイン様が私を守ってくださっていることが」
ずっと、彼に伝えたかった。自分の気持ちを知ってほしかった。
そっとアシャンからカインに口づける。
「カイン様、私・・・・・」
続けようとするアシャンの言葉をカインが止める。
「俺に・・・・言わせてくれ、アシャン。」
やがて、彼がアシャンに告げる。
「俺の、側にいてくれ、アシャン。これから、ずっと・・・・」
それは、アシャンが言いたかったことと同じだった。
アシャンは、心からの笑顔をカインに向ける。
「はい、カイン様・・・・・・はい。」
そして、どちらからともなく口づけをかわす。
やっと、彼に、彼の後ろ姿に追いついた。
そうアシャンは思った。
やっと、彼との時が重なったのだと。






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