「きみ、どうかしたのか? しっかりしたまえ」 それは、優しい声でした。その声で、私は自分の存在を確認しました。 そう、それまで、私はどこにも存在していなかったのです。 彼が私を見つけてくれたから、私はこの世に生まれてこれたのです。 私がこの世に生まれて初めて見たのは、彼のハシバミ色の瞳でした。 「良かった、気がついたようだな。名前は? 家はどこだね?」 彼は私にそう尋ねました。けれど、私には何もわかりませんでした。自分の名前も、住まいも。本当に、私は彼に声をかけられたとき、初めてこの世に生まれたような存在だったのです。 「・・・言葉は、わかるのか? 話すことはできるか?」 「・・・ええ、わかります。」 彼の言葉に答える私は、自分の声さえ初めて聞いたような気がしました。 「そうか、では、名前は?」 「・・・すみません、その問いには、答えられません。わからないんです」 「わからない?」 「・・はい、わからないんです」 彼は、私がそう答えるとしばらく黙ったまま考え込んでいましたが、やがて、おもしろそうに笑いました。 「・・おもしろい娘だな、君は。本当に思い出せないというのか? いいだろう、それが芝居か本気かわからないが、行くところがないというのなら 私の屋敷にくるといい」 「・・・いいのですか?」 「かまわんよ。私も人生に少し退屈していた所だ」 彼はそう言うと、私の手をとり立ち上がりました。 「名前がないとしかし、不便だな。そうだな・・・・ ビアンカ・・・ビアンカと呼ぼうか。記憶が白紙な君にふさわしい名だろう。 私は、シーヴァス・フォルクガング。 君は知らないかもしれないが、ヘブロン王国ではフォルクガング家といえば少しは知られた名家だ。 君一人のことくらい、なんとでもなる。気にせずにゆっくりしていくといい」 私は、他にどうしてよいか自分でもわからず、彼の言葉に甘えることにしました。 彼が私を連れていった邸宅は、彼の言葉に違わず、名家に相応しい屋敷でした。一瞬その門をくぐることを躊躇した私に、彼は言いました。 「どうした、この屋敷の主人は私だ。その私が君をここへ招いているのだから気にすることはない。 ま、一人ほど口うるさい執事がいるが、気にするほどでもない」 彼は私が不安に思っているだろうと、気を使ってくれたのでしょう。口調はけして優しくありませんでしたが、その気持ちが私にはとても嬉しかったのです。けれど、門をくぐり、屋敷を見た私は、不思議な感覚にみまわれました。私は、ここを知っている。そう、思ったのです。そんな私を不思議そうに彼は見つめていました。 この屋敷の主人である彼が私のことを知らないのですから、それは気のせいだったのかもしれません。 「ロマーリオ! ロマーリオ!」 屋敷に入ると彼は、そういって執事の方を呼びました。 「はい、若様・・・・・? 若様、その方は?」 「今日からしばらく、屋敷に滞在していただく」 「お客様ですか。かしこまりました。お部屋をご用意いたしましょう」 「あの、私、そんな・・」 「かまわん。さっきも言ったが、君は私が招待した客だ」 「けれど、私、お礼もできませんし・・・、そうだ、お仕事させていただければ・・・」 けれど、彼は私の手をとって言いました。 「それは、無理だろうな。ほら、見るといい、君の手はこんなに美しい。 町の娘のように、働いてきた手ではない。君は、そういう必要のない人間だったということだ」 そうなのかもしれませんが、私にできることは何もないのでしょうか? 彼は、私に屋敷でゆっくり休むようにと言ってくれました。けれど私は、何かを早く思い出さなくてはという焦燥感があり、なのに何をしてよいのかがわからないままでした。 屋敷の人たちは、自分たちの主人が連れて来た客人である私を大切に扱ってくれました。 そして、そのゆえに私は彼らの好意に甘えるだけではなく、自分にもできる事をしなくては、と思ったのです。 確かに私は今、自分について何も覚えていません。けれど、そんな私でもできることがあるはずです。それが、私に優しくしてくれる人へのお礼になります。そして、記憶をなくす前の私のことを思い出すきっかけになるかもしれません。 「君、中庭の手入れをしているそうだな。なんのつもりだ?」 夕食のとき、彼が私に問うてきました。そう、私は、屋敷の中庭のあいたところにハーブを植えさせてもらったのです。私は、そうやって植物の世話をすることが好きなのだとわかりました。太陽の光を浴びて緑に輝く草木に、潤う水を与え、蕾を育てることが、とても楽しかったのです。きっと、以前の私もこうして草木を愛していたに違いないと、そう思いました。 「あの、すみません、あなたに断りなく庭にハーブを植えてしまって・・・」 けれど、彼はあまり興味なさそうにこう答えました。 「まあ、いいさ。君の気が紛れるというなら好きにするといい。 私も公務が忙しく留守がちになることも多いからな」 彼は、そう言うと少しため息をついて、私にこう言いました。 「今日も公務でね、ま、つまらない会議だ。 ただ、多くの人に会う機会だったのでね、君を知る人がいるかと思って、それらしい人間を知っているか、聞いてみたのだが。 あいにく、誰もいないようだったよ」 「すみません・・・ありがとうございます。 私のこと、気にかけてくださっていたのですね」 彼は、私の言葉を聞くと少し怒ったような顔になりました。でも、私にはそれが彼の少し照れた顔だとなぜかわかったのです。 「いつまでも、ここにいるわけにもいかないだろうしな。 君を探している人間もいるかもしれない」 ですから、彼のその言葉も私にはとても嬉しかったのです。嬉しくて、私は自然と笑顔になっていたのでしょう。彼は、そんな私を見てぶっきらぼうに言いました。 「君は、まったく変わっているな。 君のような女性は、初めてだよ」 「そうですか?」 「そうだ。どう見たって良家の姫君というのに、土いじりが好きで それに、宝石や、ドレスや、そんなものにあまり興味がないようだ」 そういえば、彼は、私に着るものを用意しようと、様々な布地や金糸銀糸に彩られた美しい服を持った仕立て屋を屋敷に呼んでくれました。けれど、私はそれらきらびやかな服はどれも自分にはそぐわないような気がして、結局、最小限のものだけをお願いしました。もちろん、彼にそこまで甘える訳にはいかないと、そういう気持ちもありましたが、美しくきらびやかな服や宝石に、私がさして興味を覚えないことも確かでした。 「もっとも、あまりに当たり前にそんなものに接していたがゆえに その価値に興味がないということもありえるがね。 そうなると君は、もしかしたら私になど手の届かぬ姫君なのかもしれんな」 「そんなこと、ないです!」 なぜか私は、彼のそんな言葉にむきになってしまいました。彼もそれには、少し驚いたようでした。 「なぜ、そう言い切れる? 何か、思い出したのか?」 「そうではありません。・・・そうじゃ、ありませんけど・・・」 何が私にとって悲しいのかわかりませんでしたが、私はとても寂しく悲しい気持ちになってしまいました。 「・・すまないな。君は、本当に何も覚えていなくて、君が知る人間は今は私と屋敷の者しかいないというのに、軽々しく君のことについて推測するべきではなかったな。 けして、君のことをうとましく思っているわけではない。むしろ・・・」 むしろ・・・彼はそのあと、何と言うつもりだったのでしょうか。けれど、そのまま彼は言葉を続けることなく、黙ってしまいました。 彼は、昼間は屋敷にいることはほとんどありませんでした。屋敷の人によると、以前はそうでもなかったということなのですが、公務が忙しいということなのでした。 ヘブロンでの有力な家系であるフォルクガング家の当主として、期待されることも多いのでしょう。そんな忙しい中であっても彼は毎日、私と朝食だけは一緒に取り、さまざまな話をしてくれました。彼の仕事の話、古い友人のこと、彼が旅で言った場所のこと。きっと彼は、そんな自分の話の中で、私が何か思い出すことがあるのかもしれないと、そう思ってくれていたのでしょう。けれど、私にとって彼が話してくれる事は、自分を知る手掛かりというよりも、彼自身を知ることでした。そして、私にとっては、自分の失われた過去を知ることも、彼を知ることも同じくらいに大切なこととなっていました。いえ、むしろ正直に言えば、彼を知ることの方が私にとって大切なことになっていたのです。そして、その思いが強くなるにつれて、私は自分の過去を知ることが恐ろしくもなっていました。私が自分自身を思い出すこと、それは、彼と別れることを意味するかもしれません。それが、何よりこわかったのです。思い出さなくてはならないという気持ちと、思い出したくないという気持ちの間で私は揺れていました。 そんな私を見て彼は、私が沈んでいると感じたのでしょう。ある日の夜、いつもより早く帰ってきた彼は、私の部屋を訪れました。 「遅くにすまないな。次の休日の夜に、夜会に招かれているのだが、それはパートナー同伴が条件でね。君さえよければ、一緒に行ってはもらえないだろうか」 「私が、ですか? でも、私などが、そんな所へご一緒していいのですか?」 すると彼は、少し困ったような顔をして苦笑いしながら言いました。 「いや、実は私が君の事を尋ねてまわっていたものでね。 物見高い連中が、君と会ってみたいと言い出してね。 君としては迷惑かもしれないが、私と一緒に行ってもらえるとありがたいのだが」 「いえ、私でお役に立てるなら・・・」 すると彼はほっとしたような顔をして、にっこりと笑いました。 「そうか、良かった。 では、明日にでも夜会用の服を用意させよう。 布地はいくつか私が選んでおいたので、その中から気に入ったものを選んでくれればいい。 まあ、形式張った夜会ではないので、そんなに肩肘はらずとも大丈夫だ」 けれど、私はその彼の言葉より、彼の笑顔に目を奪われていました。 それは、彼に惹かれているからという理由ではなくて、ただとても懐かしく、いとおしい。そんな気持ちが私の心に湧いていました。何の根拠もなく、自分が何者かも知らず、ふいに私の心に浮かんだのは、私は、彼を知っているという事でした。彼のこの笑顔を、彼を知っている、と。 彼が私の部屋を辞した後、私は流れる涙を止めることができませんでした。 せつなく、胸が痛く。 彼の優しい笑顔を見ることがなぜこんなに悲しいのか。 その理由もわからず、ただ、ひとり、涙を止めることができずにいました。 CONTINUE |