「ビアンカ様、お洋服が届きました」 執事のロマーリオの声で、私はやっと部屋から出ることにしました。 昨夜、あまり眠れなかったこともあって、今朝は朝食さえ採りませんでした。 彼に、涙で腫れた目を見られたくなかったということも理由のひとつではありましたが。 「シーヴァス様が、心配しておられましたが、大丈夫ですか? お身体の具合は・・・」 「すみません、ご心配をおかけしてしまって・・・もう、大丈夫です」 私はそう言って笑ったつもりでしたが、上手くほほ笑むことができなかったのでしょう。 「しかし・・・まだお疲れのようですな。 もう少し、お休みになってからになさいますか?」 「いえ、大丈夫です。せっかく選んでいただいたものですし、見せていただきます」 私はそう言うと、部屋を出て服がおいてある居間へゆきました。彼が選んでくれた服は、どれも手触りだけで良い布を使ったものだとわかりました。けれど、淡い色合いが優しく、て、私はそのどれもを気に入っていました。 「よかった、気に入ってもらえたようだな」 その声に私は驚いて振り向きました。彼が、部屋の入り口にたたずんでいました。 「今日は・・・あの、お仕事は・・・」 彼がいるとは思っていなかった私はとても混乱してしまっていました。 「何、今日は午後からなのでね。気分がすぐれなかったようだが、もう大丈夫なのか?」 彼は、私の方へと近づきながらそう言いました。私は、逃げることもできず、彼から目をそらすこともできず、ただ曖昧にうなずくだけが精一杯でした。 「・・・すみません・・・ご心配をかけてしまいました・・・」 「ふむ、ロマーリオも言っていたが、まだ疲れているようだね。 それに・・・・」 彼があまりにじっと私を見つめるので、瞼が腫れているのがわかってしまうのではないかと思い、私はうつむきました。彼は、それ以上言葉を続けず、届いていた服を手に取ると満足そうに頷きました。 「思ったとおり、君にはこういう色合いが似合うな、優しい色が。 一着だけと言わず、気に入ったものがあればいくつか選ぶといい」 「そんな、そこまで甘えることはできません」 「これから、何度か夜会や舞踏会に出てもら機会もあるだろう。 その度に服を持ってこさせたり、いつも同じ服というのも困るからな。 何着か用意しておくことだ」 「な、何度か???」 私は、夜会に出るなど1回限りのことと思っていたので、彼の言葉に驚きました。しかし、彼はさも当然というように答えました。 「君にはわからないかもしれないが、夜会や舞踏会も仕事の一種のようなものでね。 ま、私に世話になって申し訳ないと思ってくれるなら、付き合ってもらいたいな」 「・・・それが、あなたのお役にたてるなら、わかりました」 「何、君のことを知っている人間もなかにはいるかもしれん。 外国の客人を迎えることも多々あるからな」 そう言って彼は笑いました。私は、その言葉を聞いて、本当は彼は私のために夜会に参加しようとしているのではないかと思いました。私の姿を見れば、私を知っていると言う人がいるかもしれません。彼は、私が気を使わないように、わざと皆が私を見たいと言ったから、という言い方をしたのかもしれません。 彼は、そんな不器用な優しさを持った人だと、私にはわかりました。優しいのに、そうと知られることを恐れているような、そんな人だと感じました。でも、私は、そんな彼を知れば知るほど、強く彼に惹かれるのでした。 その日の夜、馬車に乗り、彼に連れられて行ったのは彼の屋敷と同じくらい大きな邸宅でした。考えてみれば、私はずっと彼の屋敷の中に守られていたので、それ以外の多くの人々に囲まれるのは初めてのことで、とても緊張してしまっていました。けれど、彼が馬車を降り私に手を差し伸べてくれたとき、私はとても勇気づけられたのでした。彼が、そばにいてくれる、と。 「フォルクガング卿、その方が話題の姫君ですか。 なるほど、確かにいずこの姫君かと思われるたおやかな方ですな」 「本日はお招きに預かり、光栄です。 彼女は、こういう場所は初めてなので、お手柔らかに・・」 私は、どうしていいかわからず、ただ彼のそばについているだけでした。けれど、話しかけてくる人ひとり一人に、彼がていねいにあいさつをしてくれました。それだけで、私はずいぶんと気が楽になったものです。軽い食事会の後、音楽に合わせて人々がダンスを楽しむ中、私は部屋の隅でたたずんでいました。 「一曲、踊りませんか?」 何人かの方が私にそう声をかけてくださいましたが、私は自分が上手く踊れるとも思えず、踊る人々を見ていました。彼の方はといえば、幾人かの女性からダンスの申し込みを受けて踊りの輪の中にいました。そう、私は、人々の中の彼を見ていたのです。彼の踊りは優雅で、軽やかで、まるで翼を持っているかのようでした。 そんな彼を見ていると、まるで私が彼と踊っているかのように、自然と心が踊ってくるのでした。しばらくして、彼は踊りの輪を離れて私の元へとやってきました。 「君は、踊らないのか?」 「え、ええ。きっと、上手く踊れないでしょうし・・・どうしていいかわからないものですから。でも、見ているだけでもとても楽しかったですわ」 「そうか・・・。」 彼は、そう言ってしばらく黙っていましたが、やがて口を開きました。 「もし、良ければ、少し二人で、外を歩かないか?」 彼のその言葉は少し意外でしたが、少し人の多さに疲れていた私は喜んでその申し出を受けました。彼と、ゆっくり話したいという気持ちもあったのでしょう。 月明かりの中の庭園は、昼間の姿と違ってどこか幻想的な雰囲気でした。彼はゆっくりと私の前を歩き、私は彼の背中を見ながらその後ろを歩いていました。何かを考えているような、少しうつむき加減な彼の後ろ姿を、やはり私はどこかで見たような、そんな気がするのでした。ふいに彼は立ち止まり、私を振り向きました。 「ビアンカ・・・今日は疲れなかったか?」 「いえ、大丈夫です。楽しかったですよ」 「そうか、では良かった。 ・・・私も以前は、こういう集まりも楽しいものだと思っていたが・・」 「・・・どうかしたのですか?」 「貴婦人との甘い会話、夜な夜な催される舞踏会、どれもこれもあるとき興味がなくなった。 どれもこれもウソだと思った。 なぜかな・・・おそらく、自分が一番嘘つきだったからだろうな」 そういう彼はどこか寂しげでもありました。 「・・私は、どんなウソにでも、一片の真実があると思います。 あなたは自分を嘘つきだとおっしゃいますけれど・・・その嘘の中にも真実はあったと思いますよ」 「・・・君は、疑うことを知らないんだな」 「・・・私は、自分に何もありませんから・・・信じることしかできませんから。 それが嘘だと言われても、その嘘の中に真実があると信じます」 「不思議だな、私がどんな嘘をついたとしても、君の瞳に映る私は真実の姿をしていると思えるよ」 そう言って彼は笑いました。 「ごめんなさい、なんだかえらそうなこと言いました」 「なぜ、あやまるんだ? 私の方こそ変な話をしてしまった。 誤解してもらいたくはないんだが・・・私は誰にでもこんなことを言うわけではないし むしろ自分について語るのは嫌いなのだが・・・ 君には、なぜか聞いてほしいと思ってしまうんだ」 そう言う彼の真摯な瞳に私はどう答えていいかわかりませんでした。 私もまた、彼に自分自身を知ってほしいと思いながらも、その自分を私は持ち合わせていなかったのですから。今、彼の前にいる私自身が、すべてだったのですから。けれど、だからこそ、彼が求めるなら・・・私は彼の思いを受け止めたいと思ったでしょう。彼が私に語りたいと思うことを、ただ聞こうと思ったでしょう。 「君と話していると・・・何か大切なものを思い出せそうな気がするんだ。ビアンカ。 私が失ってしまった、大切な何かを」 そう言って彼は私の手をとりました。私はただ、黙って彼の瞳を見つめていました。 「私は以前から君を知っているような気がする。 そう、まるでうまれる以前から君を知っているような、ね」 私は彼が私と同じようにそう感じていると知って驚きました。 そして、私は、私の手を握る彼の手に力がこめられたことに気付きました。彼はじっと私を見つめ、そしてこう囁いたのです。 「ビアンカ、私はときどき、君に記憶が戻らなければいいと、そう思う。 君にもし、記憶が戻らなければ、ずっと私のそばでこうして私とともに生きてくれるのではないかと、そう期待してしまうんだ。 ビアンカ、もし、君の記憶が戻らなければ・・・いや。記憶が戻ったとしても君さえ良ければ・・・ 私の側に、いてくれないか?」 私はゆっくりと頷きました。それこそ、私が望んでいたことだったのですから。 これまでの記憶のすべてを引き換えても、彼がそばにいてくれるなら、それでいいとそう思ってしまうほどに。ふいに、私の瞳から涙がこぼれました。 「・・なんだか、君の弱みにつけこんでいるようで、卑怯な気もしたのだが だが、どうしても伝えたかったんだ・・ こんな少年のような真摯な気持ちなど、もう自分にはないと思っていたんだがね」 彼はそう言って笑いました。そして、私のこぼれる涙をそっと指でぬぐい取り、ゆっくりと私を抱き締めてくれました。彼の腕の中で、私は幸せでした。けれど、この幸せが脆いものに思えて、ただ、彼にしがみついていました。ずっと、このまま時が止まってしまえばいいとそう思いながら。 CONTINUE |