「冗談だ、悪いな。 しかし、君は本当に恋を知らぬ、初心な乙女なのだな」 彼は、笑ってそう言いました。 私は、その言葉を聞いて、ひどく傷ついた自分に驚いていました。 もし、彼が本気だったなら・・・ 『君に、触れてもいいか?』 その言葉に込められた思いが本気であったなら、私はやはり困ったことでしょう。 今の私には彼の気持ちに応えることなどできはしないのですから。 それなのに、彼の言葉が軽い冗談だとわかったとき、 その言葉は私の胸を鋭く刺し貫きました。 彼は勇者で、私は天使なのです。 私は彼の言葉に笑ってこう応えるべきでした。 『天使をからかうものではありませんよ、シーヴァス。 本当にあなたは、困った人ですね』 けれど、私は彼にそう笑いかけることもできず、彼の行為を許すこともできませんでした。 ただ、私は本当に傷ついた子供のように、彼の元を離れることしかできなかったのです。 それ以来、私は他の勇者の元を訪れることが多くなりました。 けれど、そんな私の動揺が他の勇者に伝わらないはずもなく、 却って私を気遣わせてしまうことになってしまったのです。 「君を信頼していなくちゃ、勇者なんてならないだろう?」 友人として私を励ましてくれたリュドラルのその言葉は、私にもう一度、天使としての自覚をもたらしてくれました。 私は、天使として、シーヴァスの信頼を得るために尽くさなくてはなりません。 ペテル宮へ戻った私にシェリーが告げました。 「天使さま、勇者さまから面会の申し出があります。 勇者シーヴァスさまが面会を望んでおられます」 私は、深く呼吸をすると、その声に答えました。 「わかりました、シーヴァスの元へまいります」 「やあ、来てくれたのだな」 シーヴァスは笑顔で私を迎えてくれました。 けれど、その笑顔が少し緊張して見えたのは、気のせいではなかったでしょう。 彼は自分の他愛ない冗談に私が過敏に反応したことを気にかけていたのでしょう。 「どうかしましたか? 何か悩み事でも?」 私はつとめて平静を装い、彼に語りかけました。 彼は、私がいつもと変わりないことに安心したようでした。 そして、手にもっていたものを私に差し出したのです。 「これを君に。少し、いいものが手に入ったのでね」 それは彼が好みそうなシャトーワインでした。 「ありがとうございます、シーヴァス。大切にしますね」 私は、彼に対しても変わらず天使としての務めを果たすことができたと思います。 やはり、彼の姿を見ると、胸が痛み不安になりましたが、 それでも、彼に不安を与えることなく彼と話すことができたと思います。 そもそも彼と出会ったのは、彼が自分の屋敷でメイドの女性を口説いているときでした。 口からすらすらと並べられる甘い言葉に、そばで見ていても感心したものです。 ところが、私の姿に気づいた彼は、それまでと一変した冷静な態度を見せました。 『君は魔物か?』 彼は鋭い視線と言葉で私を迎えました。 けして人に心を許さない、そんな雰囲気が彼を包んでいました。 けれど、彼の中から勇者としての片鱗が見えていました。 傷つきやすい、やわらかな心の奥に、光る魂が見えていました。 彼は、貴婦人に優しい言葉を並べる浮ついたプレイボーイでしたが、 私には常に厳しい態度を崩しませんでした。 けれど、それは却って私には、飾らない彼自身を見ているようで、 彼が私を信頼してくれていると思うにつながったのでした。 一度、彼が仕事を放棄したことがありました。 彼の母親の姿を描いた絵がある教会へ彼が出掛けたときのことです。 私は、彼の後をついていきました。 そして、そこで見た彼は、貴婦人に甘い言葉を並べる彼でも、 私に対して冷徹な態度を見せる彼でもなく、 そのもっともっと奥に柔らかな心をかくしもった人間でした。 真摯に、絵を見つめ続ける彼を、私はその背後から見守ることしかできませんでした。 彼の真実を知る、信頼される存在にならなければ。 そう私はそのときに思ったのです。 けれども彼は、私にも本心を見せてくれることはありませんでした。 私は天使として、彼の心を癒すことができない自分がとても歯痒かったのです。 彼が真剣な面持ちで私に語りかけてきたとき、 私はやっと、自分が彼の信頼を得ることができたのだと、そう思ったのでしょう。 それが、彼らしいからかいだとわかったとき、 だからあれほどに私は落胆し、傷ついたのでしょう。 そうでなくては、なぜ、私があれほど心を乱されたのかわかりません。 シーヴァスが彼の両親を失うことになった原因となる大火災。 その元凶となったのが、堕天使の手先、アドラメレクでした。 一度は彼とシーヴァスは戦いましたが決着がつかず、 再度アドラメレクが姿を現したとき、私はその討伐をシーヴァスに依頼することを 躊躇しました。 それでも彼に依頼をするために、一度、彼の元を訪問しました。 食事どきの彼は不思議と大変機嫌がよくて、楽しそうなのでした。 そんな時の彼の笑顔は、貴婦人を前に気取った台詞を言う彼でも、 皮肉を並べる彼でもなく、本来の彼はこんな人間なのだろうと思わせるような、ただ幸せを知る素直な少年のようでした。 私は、そんな彼の笑顔を見て、アドラメレクについて彼に告げることができませんでした。 話を告げれば、シーヴァスは、自身の手でアドラメレクを倒したいと願うでしょう。 けれど、私は、彼の心の奥底の弱い部分が傷つくことを惧れました。 本来なら、この事件は、シーヴァスに依頼するべきなのです。 そうとわかりながらも、私はそれをしませんでした。 その理由を、自分でも明確に説明することもできないままに。 そして、他の勇者にその仕事を依頼したのでした。 私を友人と呼んでくれる、心優しい勇者に。 シーヴァスから面会の依頼があったのは、アドラメレクが倒されたと報告のあった後のことでした。 私が出向いていくと、彼は不機嫌な様子で私を出迎えました。 「君は、アドラメレクの討伐を私以外の勇者に依頼したそうだな」 彼は、そう言いました。 私は、彼がその事で私に対する信頼を損ない、怒りを抱いているのだと感じました。 「シーヴァス・・・あなたに黙っていたことはあやまります。 けれど・・」 「そうだ、確かにどの事件を誰に依頼しようと、それは天使である君に選択権がある。 だが、君は、私と奴の間の因縁を知っていたはずだ。 なのに、なぜ私に奴を倒させてくれなかった」 「シーヴァス、それは・・・」 「私は、そんなに頼りないか。奴ごときに倒されるような勇者なのか」 「いいえ、いいえ、違います、そうではなくて」 どうして、私は彼の前では自分がこんなにも至らないと思うのでしょう。 結局、私のしたことは、彼を傷つけたにすぎませんでした。 「私は・・・」 ただ、あなたを傷つけたくなかった。そう、言えるはずもなく。 けれど、シーヴァスは仕方ないというように小さくため息をついて私に言いました。 「・・・せめて、最後の決着くらいは私につけさせてくれ。 私は、自分自身の手でけりをつけたいのだ」 彼を包んでいた怒りの雰囲気は消えていました。 「わかりました、シーヴァス。必ず、そのときはあなたに依頼しましょう」 私はそう答えました。 そして、帰り際に私は彼がもはや私に怒りを抱いていないと確かめるように尋ねました。 「また、来てもいいですか?」 彼は少し驚いたようでした。 「ああ、たまになら君との会話も悪くないからな」 その彼の言葉に、私自身の心が軽くなったのを感じました。 彼の言葉は、いつも私を変えてしまうのです。 平静な天使としての私を、どこかへやってしまうのです。 それが・・・私が彼と同行することが怖かった理由なのです。 そのことに、初めて気づいたのでした。 そして、そんな自分に気づいたとき、私は自分も素直にならなくてはと思ったのです。 シーヴァスから少し話さないかと誘われたとき、自然に答えることができたのも、 そのころには自分の心を見つめることができていたからでしょう。 シーヴァスが、私に、いつかの冗談についてあやまったとき、 あのときはとても傷ついたと、私も言うことができました。 彼は、そんな私に自分の心の奥を見せてくれました。 彼が話したいと思うことを、私はただ、聞いていました。 彼が、私に話したいと思うことがある。それが嬉しかったのです。 「君は、この戦いが終わったあと、どうするか決まっているのか?」 彼のその問いは、私がそれまで考えてもいなかったことを思い起こさせました。 そう、もうすぐ、この戦いは終わることでしょう。 それは、私が天界へ戻るということです。 戻りたくない。そう強く思う自分自身に私はとまどいました。 「たとえ、君が天界へ戻ることになったとしても、私に黙って行かないでくれ」 シーヴァスはそう言ってくれました。 彼が、私に対してそれだけ深く信頼を寄せてくれていたと、 そう思うだけで、私は嬉しかった。 「ええ、黙って帰ったりしません。必ず、あなたの所へ来ますよ」 彼が言わなくとも、私は最後に彼に会いに行ったことでしょう。 彼は、私が初めて見つけた勇者でした。私に初めて応えてくれた勇者だったのですから。 「私のために、地上に留まってもらえないか、ルーチェ」 彼が私にそう告げたとき、私にはもう自分がどうしたいのかわかっていました。 彼は、私にとっていつも、特別でした。 地上は愛すべき世界でした。 木々も草花も、鳥も、獣も、生きとし生けるものが、懸命に生命を紡いでいました。 その営みをいとおしいといつも思っていました。 けれども、この地上の何よりも、私にとって特別な、それがシーヴァスでした。 彼だけが、天使の私を不安にさせ、傷つけ、あるいは気づかせました。 それが何故なのか、それはわかりません。 ただ、わかっていることは、私もまた、彼の元にとどまりたいと そう望んでいるということだけです。 「ええ、シーヴァス。私の思いも、あなたと同じですから」 そう、応えた私の手を握った彼の手の温もりを、私は忘れないことでしょう。 私の・・・天使である私の中に、涙があるということを、 私はその夜、初めて知ったのでした。 |