告白<1>

果たすことのできない約束を交わすのは、嘘をつくのに似ている。
果たすことができない約束だとわかっているのに、私はずっとその約束を覚えている。
あなたは私のことを忘れてしまっているのに、私は約束さえも忘れることができないでいる。

「長い間、どうもありがとうございました、ローザ、シェリー。
 あなたたちの協力のおかげで、インフォスが救われました」
妖精たちに向かって天使は頭を下げた。その顔はしかし、任務を果たしたという充実感とは別の感情に支配されているようだった。心配そうに妖精たちがその顔を見つめる。天使はその表情を読み取って、笑顔を見せた。しかし、その笑顔はどこかよそよそしくて、妖精たちの心が晴れることはなかった。
ベテル宮が片付けられ、天使が天界へと去った後、妖精たちは彼女たちの長たるティタニアの元を訪れていた。
「よくがんばったようね、ローザ、シェリー。私も嬉しいわ」
にっこり笑うティタニアだったが、ローザとシェリーは互いに顔を見合わせた。
「ティタニアさま・・・・」
シェリーが泣きそうな顔でティタニアの顔を見上げる。ティタニアはその顔を見てため息をついた。
「・・・天使のことね?」
「ごぞんじなのですか?」
とローザが驚いたようにティタニアを見つめる。
「あなたたちが心を痛めているのはよくわかるわ。
 でも、天使が選んだことに、あなたたちが口出しすることはできないわよ?」
「でも・・・天使さまはそれが天界の決まりだからって・・・
 本当はとってもお辛いんです」
シェリーが泣き声になって言う。しかし、ティタニアは
「天界に宮殿を持つ私が言ってはいけないかもしれないけれど・・・
 本当に天使が彼を思うなら、天界の決まりごとなど破ることができたはず。
 自分の想いを間違いだと否定している彼女に、あなたたちが何を言っても無駄でしょう」
そう言い放った。
「ですが、ティタニア様、私たちは天使さまと共に働いて、とても良くしていただいたのです。
 天使さまと共に過ごすことができたのが、自分の中の誇りなのです。
 その天使さまが苦しんでおられるのなら、お力になりたいのです。駄目なのでしょうか?」
任務に忠実であり、規律に厳しいはずのローザでさえもが必死に言う。その姿にティタニアも少し心を動かされたようだった。
「・・・もし、天使の心を動かすことができる者がいるとしたら、それは他ならぬ勇者でしょうね。
 でも、あなたたちも知っているように、彼の記憶は封印されているわよ?
 そして、天界の規律が二人の間に存在する以上、あなたたちの望む結果は訪れないかもしれないわ」
「それでも、天使さまのために何かしたいんです。
 もう一度、シーヴァスさまに逢わせてさしあげたいんです!」
シェリーが叫ぶように言う。ティタニアはそれを聞くと微笑んだ。そして、二人の妖精に言う。
「では、特別にしばらくの間、あなたたちにインフォスに滞在することを許可しましょう。
 けれど、繰り返しますが必ずしも良い結果が生まれるとは限らないことを覚えておきなさい。」
シェリーとローザはその言葉に神妙な顔をして頷く。それから二人はお互いの顔を見あわせると、小さな羽根を羽ばたかせて地上へ続く空を飛んで行った。
「・・・私はね、天使じゃないから・・・恋をしたっていいと思うのよね。」
その姿を見送りながらティタニアが呟く。心のどこかでそう思っていたから、二人を地上へ送ったのかもしれない。だが、その結果がどうなればいいのかはティタニアにもわからない。規律を侵した天使への罰がどんなものであるのか、ティタニアは知っていたから。


久しぶりの夜会でシーヴァスは貴婦人に囲まれていた。
「このところ、シーヴァス様ったら夜会にいらっしゃらなくて、私たちがどれほど寂しい想いをしたことか」
「申し訳ない、このところ、公務が忙しくて。今夜はそのかわりゆっくりお相手させていただきますよ」
爽やかに笑顔を見せて彼はそう答えた。いつもの夜会、いつものセリフ。だが、奇妙な違和感をシーヴァスは感じていた。なにかが違う。そんな気がしていた。
しばらくの談笑の後、彼はベランダに出る。その後を一人の貴婦人が付いていった。
「なんだか今日はあまりお元気じゃありませんのね」
「いや・・・そんなことはありませんよ」
いつものように薄く微笑む。なら、いいんですけど、と貴婦人が小さく呟く。
「あなたのような美しい方にそんなふうに心配していただけるとは、光栄です」
そんな言葉を紡ぎながら、この貴婦人がどこの家の令嬢だったかなどと考えている。
「私ではシーヴァス様のお力には慣れないんでしょうかしら?」
そんな言葉にシーヴァスは小さく微笑むと貴婦人の手をとって口づけた。柔らかな手。だが・・・・
うっとりとしたような貴婦人が、シーヴァスに囁く。
「口づけてくださるのは、手だけ、なんですの?」
ふと考えこみそうになったシーヴァスはその言葉に我にかえると、薄く笑って貴婦人の唇に自らのそれを重ねていった。

夜会の帰り、シーヴァスはずっと考えこんでいた。違和感はまだ続いている。貴婦人と口づけを交わしたとき、それは決定的なものになった。
---私の覚えている口づけは・・・もっと切なく、私の知っている唇はもっと柔らかく・・・
記憶にもなければ心当たりもないというのに、身体が覚えているかのようだった。何かが違うとそう感じた。
久々の夜会で調子が出ないだけかもしれない。
公務続きで疲れてもいたからな。シーヴァスはそう思い直すと、大きく息をついた。ときどきはやはり、息抜きも必要だということだ。
屋敷に帰り、自分の部屋に戻るとシーヴァスは机の上に一枚のメモが置かれていることに気づいた。目をやって、不思議そうな顔をする。それは、この前の朝に彼が屑入れに捨てた詩のための言葉が羅列してあるメモだった。捨てたはずがどうしてこんなところに、と不思議に思ったが、執事が気をきかしたつもりなのかもしれないと思い、もう一度屑入れに入れようとした。だが、そこで少し考えるように首をひねると気を取り直したようにそのメモを机に置き直した。今日知り合った貴婦人宛の手紙にでも使えそうだと思ったこともあるが、捨ててはいけないような気がふいにしたのも確かだった。
シーヴァスはその夜、いつもより早く床についた。
夢の中で彼は一人だった。誰かを捜しているのだが、それが誰かわからない。だが、自分はその誰かを一生懸命捜しているのだ。名前を呼んで叫んでいるのだが、自分がなんという名前を呼んでいるのかさえわからない。
随分と長く長くその誰かを捜して歩いてきたような気がする。胸が痛く、ただ、その誰かに会いたかった。夢の中のシーヴァスは、逢いたい誰かを捜して一人、暗闇を彷徨っていた。


天界に戻った天使は、インフォス守護の任を解かれ、しばらくの休養をとっていた。休養が明ければ、新しい任務が彼女を待っている。だが、一人、部屋で佇んでいるとどうしても考えがインフォスへと戻っていってしまう。何度と無くインフォスの様子を見に地上へ降りようかと思ったりもした。だが、その度に思いをこらえた。シーヴァスの姿を間近で見てしまったら、また、もっと辛くなる。それでも我慢できずに、こっそりとインフォスの様子を遠見の部屋で覗いてみたこともある。シーヴァスは元気そうだった。あいかわらず、夜会で女性たちに囲まれていた。胸が痛んだけれど、でも、少しでも彼の姿を見れて嬉しかった。彼が公務にも熱心に取り組みだしたこともわかって、それも嬉しかった。彼はきっと、自分の理想を実現していくだろう。迷いのない瞳で、未来を築いていくだろう。
---あなたとインフォスが新しい未来を歩き出すとき、もう、天使は必要ないんです。
それは、とても哀しい現実。傍らに彼女の姿がなくとも、彼は自分の未来を切り開いていくだろう。
天界と地上とでは時間の流れが異なる。天使が新しい任務を命じられ、任地に赴いて帰ってきたころにはインフォスでは長い時間がたってしまっているだろう。もう、シーヴァスと逢うことはないに違いない。
覚えていることが辛くて、泣きたくなることがある。だが、覚えていることが慰めにもなった。シーヴァスの声、瞳、指、寂しさを紛らわすように一つずつ思い出した。そして時々、恐ろしくもなった。彼をこれほどに強く想い続ける自分は、やはり、天界の決まりに背いているのだろうと。それでも、心の大半はシーヴァスの元に置いてきたままで、天界の日々は過ぎていった。


シーヴァスは、最近よく眠れなかった。眠りにつくといつも見るのは決まって同じ夢だ。
誰かを捜す夢。大切な大切な誰か。名前を叫んで闇雲に探し回って居る自分。どんな名前を呼んでいるのか、自分の声さえ聞こえない。それがもどかしくて、せめて名前だけでも知りたいと思うのに、自分が叫んでいる名前さえもわからないのだ。そして、いつも同じように、シーヴァスは探し求める誰かと会うことなく目が覚める。起きたときに感じるのは心に穴が開いたような喪失感だけだ。
「悪い魔物にでも憑かれたかな・・・」
苦笑してシーヴァスはそう呟く。久しぶりの休日ということもあって、彼は半ばまじないにも似た気持ちで教会へ赴くことにした。魔物に憑かれているのなら、聖水でも使えば祓うこともできるだろうと、ふと思ったりしたせいもある。
シーヴァスがヨーストの教会を訪れるのは、礼拝のためよりもその所蔵している豊富な書物の閲覧のためのことが多かった。だから、聖堂に入ったことは数えるくらいしかない。ひんやりとした空気が満ちた聖堂は、温かな雰囲気のタンブールの教会とは違って、どこか冷たい印象があった。
礼拝日ともなると、この聖堂が人に埋め尽くされる。だが、今日は誰の姿もなく、シーヴァスは祭壇へ近づいていった。天使の絵がかけられている。誰が描いたのだろう、ずいぶんと旧いものだ。黄金色の巻き毛、金色に輝く瞳、微笑みを浮かべた口元。
----違う・・・
その絵を見てそう呟いた自分に、シーヴァスは驚いた。確かに、シーヴァスの父が描いた天使の姿とは異なる絵ではある。だが、そうではなく。シーヴァスは自分がこの絵の天使を自分の父が描いた天使と比べて「違う」と言ったのではないことを知っていた。
---私の知っている天使は・・・・
脂汗が額に浮き出て、シーヴァスはよろよろと後ずさると傍らの椅子に手をついてうずくまった。
思い出せない。思い出せない。思い出せない。
ただ、頭の中で「違う」「私の知っている天使は・・・」その言葉だけが繰り返される。私の知っている天使は・・・天使はいったいどうだと言うのだ? どんな天使だと言うのだ?
思い出せない。思い出せない。思い出せない。
私は、何を知っていたんだ? 私は何を忘れているのだ? 私は何を奪われたんだ!?
つかめそうでつかめないもどかしさ。思い出さなくてはならないと思う焦燥感。
シーヴァスはよろめくように教会を出ると、焦るように屋敷へと戻った。部屋に帰ると自分の机をひっくり返す。引き出しをあけ、中にあるものをすべて出し、机の上のものを広げる。何か、自分が忘れている何かを知る手がかりはないのかと。だが、公務用の書類や貴婦人から来た手紙や、読みかけの書物に、覚え書き。そんなものしか見つかりはしなかった。怒りにまかせたように、シーヴァスは手にした書類を床にぶちまける。思い違いなのか? 何も忘れてなどいないのか? ではあの夢は。あの違和感は。
そうしてシーヴァスははっと気づいたように、もう一度、机の上を探した。そして、一度は捨てたあのメモを手にとる。
---光、翼、天使、光・・・・
じっとその文字を見つめる。光、翼、天使、光。何かを思い出すかのように、じっとその文字を見つめる。・・・だが、その言葉は、言葉の持つ以上の意味をシーヴァスに示してくれなかった。違う、きっとこれには何か意味があったはずなのだ。シーヴァスは床を殴った。痛みよりも怒りの方が大きかった。自分は、誰かに何かを奪われたのだ。記憶ごと、奪われたのだ。
---奪われたものなら、取り戻す・・・それがどんな記憶であろうと、忘れることを強制されるなど許せるものか・・・!


「ルーチェ、明日の午後、あなたに新しい任務を命じます。
 ミカエルの元を訪れなさい」
呼び出しを受け、ガブリエルの元を訪れた天使は、そう言われて小さくはい、と返事をすると深くお辞儀をした。
「最近、あまり元気がないようですが、どうかしたのですか?」
ガブリエルは心配そうに天使の顔をそっとのぞき込む。その優しい瞳を天使は見つめ返すことができなかった。
後ろめたい気持ちが胸に滲んでいる。瞳を伏せた天使を見て、ガブリエルは何か言いたげな顔をしたが、小さく溜息をつくと、
「立派にインフォスを守ったあなたにならきっとできる任務だと思います。
 明日の午後、忘れないで」
そう告げた。
ガブリエルの元を辞した天使は、戻る途中、ふと足を止めた。新しい任務が始まればもう二度とインフォスに戻ることも、シーヴァスの姿を見ることもなくなるだろう。そう思っただけで足が震えた。迷うように地を見つめ、手を握りしめる。やがて、天使は意を決したように走り出すと翼を広げインフォスの空へと飛び立った。
これで最後だから。姿を見せなければきっと、シーヴァスにも気づかれることなどないから。
自分に言いきかせるかのようにそう繰り返しながら。






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