虹の彼方に<1>

シーヴァス・フォルクガングの屋敷に若い女性が身を寄せているという噂は、春の終わりには、かなり有名なものとなっていた。
その女性は、記憶を失っているということで、シーヴァス・フォルクガングが朝の遠乗りに出かける途中に助けたという。彼は、彼女を大切な客人として扱っており、彼女の身元を明らかにすべく、援助を行っているという。
それが、このような噂となるには理由があった。
シーヴァス・フォルクガングといえば、かつては舞踏会の花形、貴婦人たちの憧れの的であった。しかし、そんな彼がモンスター退治と称して各地を旅するようになり、舞踏会を訪れることが減り、やがて舞踏会を訪れても貴婦人と語らうことが減るにつれて、彼には想い人ができたのではないかと囁かれはじめていた。
彼がそれまでなおざりだった公務に熱心に取り組むようになり、その噂はますます信憑性を増し、そして今回の女性が登場したのである。
つまり、物見高い人々は、記憶喪失の女性、というもの自体がウソで、本当はシーヴァス・フォルクガングの想い人が彼女なのだと思っているのである。身分違いの恋ゆえに、まことしやかなウソでもって彼女を屋敷へ呼び寄せたのではないか、というのが彼らの見解なのだ。
しかし、当のシーヴァスは何も語ろうとはしなかった。
公務に出てきた折りに、誰彼となく尋ねられても、曖昧な微笑を頬に浮かべるだけで、それ以上何を語ろうともしなかった。
事実、シーヴァスには、他人に語ることなど何一つなかったのだった。
なぜなら、本当のところ、彼女は記憶を失っていたし、彼がそんな彼女を放っておけず、屋敷に連れ帰ったという点に間違いはなかったからだ。しかし、もっともらしい推測にも、一片の真実はあった。つまり、シーヴァスはこの記憶をなくした女性に恋をしていたのである。
その思いには、シーヴァス自身もとまどっていた。今まで、こんな感情を女性に対して抱いたことなどない。甘い言葉も、優しい態度も、求められるままの演技だったりゲームだったりしただけだった。だが、彼女には、そんなものは何一つ通用しない。この世の事を何一つ知らぬ無垢なる乙女に、甘いささやきが一体どんな効果があるというのか? それ故に、その思いを誰にも漏らしたことはなかったが、それでも彼は自らの屋敷に庇護しているこの女性を深く愛していたのである。それは、まさしく魂が惹かれるというにふさわしい強い思いで、自分自身でもとまどいを覚えるほどではあったが、彼がそれを彼女に伝えることを躊躇う理由に、かつて記憶を失う前の彼女には、思い人がいたのではないか、ということがあった。
なぜ、そう思うのかと問われれば、彼女が何かを探しているから、としか言いようがない。だが、すべてを忘れてなお、彼女は自分の帰るべき場所がどこかにあると強く思っているのだ。だから、いつになっても、彼にも、彼の屋敷の者にも心からうち解けることがない。それでも・・・・不思議なことにシーヴァスは、それでもかまわない、と思っていたのだった。

「レイン!」
そう呼ばれて、彼女は振り向いた。
レイン、という名前も本当の自分の名前ではない。この屋敷の主人であるシーヴァスが彼女につけてくれた名前だ。彼女を見つけたのは、美しい雨上がりの朝だったという。だから、異国の言葉で「雨」という意味だという此の名を彼は彼女に与えてくれたのだった。
彼の屋敷に来て以来、彼女は屋敷の中で過ごしていたが、本当はずっとこの屋敷を出ていきたいと思っていた。もちろん、自分がこのような状態では、何をすることもできず、生活する術すら持たないことはわかっている。しかし、それでも、ここが自分のいるべき場所ではないような気がして、彼女はいつも焦燥感に覆われていた。けれど、屋敷の主であるシーヴァスは、そんな彼女の気持ちを察してか、平日も屋敷の者を使って彼女の身元を明らかにすべく様々な土地を調べさせていたし、休みの日には、彼女を連れて彼自らが、彼女に見覚えのある土地はないかと出かけたりしていた。しかし、成果は一向にあがることはなく、レインは物思いに沈むばかりだった。
屋敷の者も、シーヴァスも、もちろん彼女に対してとても良くしてくれており、それは彼女自身もよくわかっていたが、時にはそれが彼女にとって重荷にもなった。思い出すこともできないけれど、誰か自分はとても大切に思っていた人がいる、と彼女の心がそう思わせていた。だから、シーヴァスが彼女に優しくしてくれればしてくれるほどに、時に理不尽とわかっていても、『私が側にいてほしいのは、あなたではないのに』という感情が彼女の内にわき上がってくるのだった。そのせいか、いつまでたっても自分自身、彼にも、彼の屋敷の者にも一線を画して接していると感じてはいる。おそらくは、シーヴァスもそれに気づいているだろうと思う。それでも、彼女は自分自身のやり場のない思いを、どうすることもできないのだった。

「レイン、君にお願いがあるんだが、今度、私とともに夜会に出席してはもらえないだろうか?」
シーヴァスのこの申し出は、レインを困惑させるのに十分なものだった。彼が貴族であり、それ故に様々なつきあいがあるということは薄々感じ取ってはいたが、それに自分を同伴する意味がよくわからない。自分は、彼の家の者でもないし、貴族の一員でもない。単なる居候にすぎないというのに。
そんな彼女の表情に気づいたのだろう、シーヴァスが申し訳なさそうな顔で、付け足した。
「貴族というのは、物見高い連中が多くてね。
 私が君の様な女性を屋敷に住まわせているというだけで、どんな女性か会ってみたいという者が後を立たないのだ。
 まあ、あまりに隠しだてして、いらぬ噂をたてられるのも、君にとっては迷惑かもしれないし、今度の夜会は遠方からの来客も多い。
 君も何か得るところがあるかもしれないから、迷惑かとは思うが出席してもらえるとありがたいな。」
「・・・わかりました。 
 お世話になっているのですから、あなたのおっしゃる通りにします」
感情のこもらない声でレインは答えた。シーヴァスは、それを聞いて、いつもと変わらぬ少し皮肉っぽい笑顔を見せた。一瞬、寂し気な顔に見えたのは見間違いだったのだろうと、レインは考えた。シーヴァスは、いつも彼女に本気とも冗談ともつかぬ態度で接してきたし、時に彼女に向かって「このまま私の元に留まらないか」と言うこともあったが、屋敷の者の話を聞く限りでは彼はプレイボーイらしかったから、それも冗談なのだろうと、彼女は考えていた。・・・考えるようにしていた、という方が正しいのかもしれなかったが。

夜会の日、レインはシンプルながらも美しいドレスに身を包み、自室で時間を待っていた。彼女の着付けを手伝ったメイドは、
『シーヴァスさまのエスコートで夜会に出られるなんて、きっと貴婦人方がうらやましがりますよ。
 素敵な夜になるといいですわね、楽しんで来てくださいね』
と言っていたが、彼女は夜会の楽しみ方など知らなかった。それゆえに、楽しみに思う気持ちもなかった。むしろ、義務感の方が強かったといえるだろう。
やがて、部屋の扉を軽くノックする音がして、シーヴァスが現れた。常にも増して洗練された衣装に身を包んだ彼は、確かに夜会の花形にふさわしいといえた。一瞬見れば女性とも見えそうな流れる金髪と端正な顔立ち。しかし、一見華奢に見えるその体躯に秘められたしなやかな筋肉と意志を秘めた瞳の輝きが、彼を女性に見せることを拒否している。一瞬、彼にみとれてしまった自分をレインは首を振ってどこかへと追いやる。・・・私は、彼にみとれたりしない。みとれるはずがない。
「やあ、すっかり準備はいいみたいだね。
 それでは、エスコートさせていただこうかな」
少しはしゃいだような彼の態度に、レインはとまどいを覚える。レインの知っている彼は、こんな子供のような表情を一瞬でも見せる人間ではないはずだ。
「どうか、したかな?」
彼はそういうと、彼女に向かって右手を差し出す。
「お手をどうぞ、姫君。今宵は私が騎士を勤めさせていだたこう。
 もっとも、役不足と言われるかもしれないけれどね」
彼はそう言って苦笑する。また、一瞬、その表情が寂しげに見えて、レインはとまどう。だが、もう一度見上げた彼の表情は完璧な笑顔で、レインにはその奥は見通せない。彼女は、仕方なく、彼の差し出された手をとった。白くて美しい手袋を通してさえ、彼の手のぬくもりが伝わってきて、レインは反射的に自分の手をひっこめる。
シーヴァスは、不思議そうな顔をして、レインの顔を見つめ、それから苦笑すると自分の手を下ろした。
「じゃあ、行こうか。馬車が待っているから」
シーヴァスはそういうと、レインの前を歩きだした。レインは、結局つなぐことのなくなった自分の手を胸の前で握りしめていた。背中を向けてしまった彼の表情を伺うことは彼女にはできない。彼は怒ってしまったのだろうか?
「あの・・・・」
思い切って声をかけたレインをシーヴァスが振り向く。その顔は、いつものように優しい笑顔で。レインは自分の心配が思い過ごしだとほっとするとともに、それでも拭いきれない不安を感じる。彼の笑顔は、私を不安にする。どうして?
「・・・今日はよろしくお願いします。」
彼女はやっとそう言うとシーヴァスの後ろをついて歩いていった。彼女からは、シーヴァスがその言葉を聞いて浮かべた微笑みを見ることはできなかった。






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