初めての舞踏会は、レインにとっては何もかもが珍しいことばかりだった。こんなにたくさんの着飾った人々を見るのも初めてだったし、奏でられる音楽も、人々が踊るワルツもみな初めてだった。 「レイン。そんなに緊張しなくても大丈夫だ。私が側にいるから」 シーヴァスがそんなレインに気を使ってそう囁く。 レインはその声も聞こえぬげにホールの片隅にじっと身を寄せた。シーヴァスの姿は、着飾った人々の中でもひときわ目をひき、人々の視線が彼に注がれているのがレインにもわかった。確かに彼は、他の人々と比べても一際目立つ容貌をしていたし、舞踏会の主役といってもいいような華やかさを持っていた。彼はこういう世界に住む人間なのだな、と改めてレインはシーヴァスを見つめる。だが、彼女の視線の先にいるシーヴァスは、愉快そうに仲間と談笑し、貴婦人に微笑みかけながらも瞳はどことなく醒めてみえた。不思議な違和感。彼はどうして表に見せる表情を裏切るような瞳をいつもしているのだろう。レインはそんな事を考えながら、彼を見ている。そんな彼女の視線に気付いたのか、シーヴァスがレインを振り向いた。目があった瞬間、彼の表情がほころぶ。 「おいで、レイン。君をみなに紹介しよう。 無理を言ってついてきてもらったんだから、君にもぜひ楽しんでもらわなくては 私の立つ瀬がないからね」 レインはおずおずとシーヴァスの元へと歩み寄る。彼は彼女の手をとろうとして、ためらうように手をとめ、それからその手を下に降ろした。 「彼女がレイン。私が神より賜った女性ですよ。 もっとも彼女は神の乙女だけあって、私の誘惑などには耳を傾けてはくれないのですけれどね」 おどけたような口調でそういうと、彼はさらに苦笑しながら付け加えた。 「まあ、私でさえ、彼女に触れるのに遠慮しているのですからね。 今宵は彼女とダンスしようなどという考えはおやめになったほうがいい。 彼女が疲れない程度のお話をするくらいにしてやってください」 彼がそう言ったせいか、彼女に興味ありげに寄ってきた人々も不躾なことを言うことはなかった。もちろん、好奇心丸出しの様子は手に取るようにわかったけれども、レインの傍らに立つシーヴァスに遠慮してのことだろう、さしたることもなく、舞踏会は進んでいく。ずっと壁の花であるレインに付き合って、シーヴァスもホールの隅でやってくる人と談笑していた。レインにかまう訳ではなく、しかし、彼女の様子に気を配っているのは彼女にもわかった。 彼が、彼女の手をとろうとしない理由も。さっき、彼女が彼の手を拒んだからだ。彼女としてはそんなつもりはなくて、ただ、驚いただけだったのだけれど、でも彼はそれを彼女の拒否だと受け取ったのだ。だから、彼女に触れない。そう分かったときの、自分の心の苛立ちに、レインはとまどった。その怒りとも悲しみともとれる、ざわついた苛立ちは、いったいどうしたことだというのだろう。 彼女の廻りの人垣が少し減り、シーヴァスも手持ち無沙汰そうに壁際でワルツの輪を眺めていたころ、レインはシーヴァスの側へと歩みよった。 「踊らないんですか?」 「ああ、君が踊りたくなったのなら、おつき合いしよう。 今日の私は君以外の貴婦人とお付き合いするつもりはないからね」 「・・・それは、無理を言って私を連れだしたから、という義務ですか?」 どうして自分がこんなに苛立っているのか理由がわからず、自然と口調が堅くなるレインに、シーヴァスは苦笑して応える。 「それもある、けれど、それだけではないよ。 それとも、それだけの方がよかったかな」 レインはその問いには答えなかった。 「じゃあ、踊ってください。私と」 シーヴァスは、そのレインの申し出に少し驚いたようだった。が、彼女に手を差し出すと、こう言った。 「では、一曲お相手願えますか?」 レインがその手を取ると、シーヴァスは彼女をホールの中央へと導いた。 レインは、もちろんワルツの踊り方など知らない。ただ、彼が彼女以外とダンスするつもりはない、と言った言葉が彼女にそう言わせただけだ。踊らない彼のために、ではなく、彼の言葉に対する当てつけのような気持ちで彼女は彼にダンスを望んだ。 ワルツなど踊ったことのないレインは、シーヴァスのリードがあってもなお、ステップをうまく踏むことはできなかった。それでも、シーヴァスは出来る限り彼女をフォローし、彼女が踊りやすいようにしばしば口でテンポを数えた。レインにも、彼のリードが上手いということはよくわかった。確かにステップは間違いだらけではあっても、初めて踊るワルツであるのに、とても踊りやすかったからだ。けれども、やはり、上手に踊れないワルツは、楽しさにはほど遠く彼女には感じられて、彼女は途中で踊るのをやめた。シーヴァスも、それ以上彼女に無理強いはせず、ワルツの輪から彼女を連れ出した。 再び壁の花になった二人だったが、やがてレインは、シーヴァスに言った。 「・・・いつまで、私はここにいればいいんでしょう。 まだ、いなくちゃいけませんか?」 シーヴァスは、しばらく黙ったままだったが、やがてこう言った。 「・・・そうだね、つまらない思いをさせてしまったようだ。 無理を言ってすまなかった。それでは、そろそろ帰るとしようか」 そんな二人に向かって貴婦人方の中から誰とも知れぬ声がかかる。 「あら、もうお帰りですの? そうですわね、ワルツも踊れない方では、舞踏会も楽しみ様がありませんわよね」 半ば嘲笑まじりのその声に、シーヴァスが不愉快そうに眉をひそめて声を荒げる。 「彼女は私が無理を言って同行してもらったのだ。 彼女に対する侮辱は、私に、ひいてはフォルクガング家に対する侮辱ととらせて いただくが、それでいいんでしょうな」 シン・・・と静まったホールの人々をシーヴァスは見回し、レインを促す。 「・・・本当にすまなかった・・・帰ろう」 レインは、先ほどの自分に向けられた嘲笑を聞いて、頬を赤らめて俯いていたが、シーヴァスに声をかけられるとその顔をきっ、と上げ静かに、けれど強い調子で言った。 「私・・・私、自分で望んでここへ来たいって言ったわけじゃありません! 見せ物みたいに、不躾に眺め回されて、少しも楽しくなんてなかった。 こんなところ、こなければ良かった!」 そうして、シーヴァスも待たずに出口へ向かって駆け出す。シーヴァスは、後に残る人々を顧みもせずに、レインの後を追った。 玄関をも駆け抜けて外へと飛び出したレインは、シーヴァスの声を聞いて、立ち止まった。肩が震えて息が苦しいのは、何も走ったせいだけではないだろう。自分が何に傷ついているのかさえ、彼女にはわからなかった。シーヴァスの気配が背後にしたが、彼は声をかけることも、彼女にそれ以上近づくこともなかった。 それは、彼女にとっては幸いだった。彼が慰めの言葉をかけたりしたなら、今のレインは彼にもひどい事を言ってしまいそうだった。彼が来て欲しいといったから。彼がみなに紹介しよう、と言ったから。彼が自分としかワルツを踊らないなんて言ったから。 レインは、しばらくしてから、黙ってシーヴァスが待つ方へと歩き出す。彼は、ただ静かに彼女を待っていた。レインは、そんな彼の前を通り過ぎて、馬車のある方へと歩んでいった。今はもう、一刻も早く、この場所を離れてしまいたかった。シーヴァスは、だまったまま、そんな彼女の後を歩いていた。 屋敷について、部屋に引き取るまでずっとレインもシーヴァスも無言だった。ただ、レインを部屋まで送っていったシーヴァスは一言だけ 「すまない、君を傷つけてしまった」 そう言った。レインは、その言葉にも答えず、静かに部屋の扉を閉めた。一人になったレインは、ドレスを脱ぎ捨てるとベッドに体を投げ出した。 舞踏会もワルツも、美しいドレスも、どれもこれも自分には似合わない。 不釣り合いで、その場にいることさえ似つかわしくない。シ−ヴァスは違う。彼はあの場所にいることがふさわしい人間だ。あの場所で、あの中心でいることが似合う人間なのだ。今日、結局のところ、自分は独りだったのだ。舞踏会にまぎれこんだ、不似合いな独り。それに気が付いたから、あんなに傷付いた。やっぱり、ここは自分が本来還るべき場所ではない。 でも、シーヴァスは彼女をかばってくれた。レインは、そう思い出す。それが、彼の責任だとしても。そのお礼も言えなかった。彼が謝るばかりだった。レインは、そのまま枕に顔を埋める。いったい、自分はここで何をしているんだろう? |