それからしばらくの日々は、変わり無く過ぎていった。シーヴァスは公務に忙しく、レインは顔をあわせることも少なかった。彼はいつも朝早くに出かけ、深夜遅くに戻るからだ。彼に避けられているような気がして、レインはますます自分がここにいていいのだろうか、という思いを募らせる。胸に深く刻まれた苛立ちは、なおもおさまることはなかった。 そんなある日、シーヴァスが彼女の部屋を訪れた。彼と間近く話をするのは、舞踏会の夜以来のことだった。彼は、何ごともなかったかのように、変わらぬ笑顔だったが、レインは、やっぱりその顔が寂し気に見えるのだった。 「レイン、今度視察でタンブールに行くんだが、君も一緒にいかないか? 屋敷にこもりがちになるよりも、気分転換になるし・・・ タンブールなら君の事を詮索するような連中もいないだろうから」 彼はそれだけを告げると、返事は執事にでも伝えてくれればいいから、と帰ろうとした。レインは、なぜかそんな彼の袖をつかんでひきとめた。自分の行動に一瞬驚いたレインは、彼の顔をまともに見ることができず、うつむく。 「? どうか、したのか?」 「あの・・・・あの、舞踏会のときは、ありがとうございました・・・・。 それから、ごめんなさい・・・・」 彼からの返事がなかったので、レインは彼がまだ怒っているのか、と一瞬思う。だが、しばらくしてシーヴァスは答えた。 「いや・・・君が謝ることなんて何一つない。 私が無理を言ったんだし、配慮が足りなかった。君を傷つけたことを、今でも後悔している」 シーヴァスはそう言うと、自分の袖を掴んだレインの手をそっと外し、彼女の部屋を後にした。レインは、彼の言葉に少し安心している自分に気付く。彼が自分を疎ましく思っていたのではないことを知って、ほっとしている。そして、胸の奥の苛立ちが治まってしまっている。レインは、彼が触れた自分の手を、そっと胸の前で握りしめた。 それからしばらくの後、レインはシーヴァスと彼の従者たちと共に船上の旅人となった。タンブールへ向かう船の中では、自然とシーヴァスと共に過ごすことも多くなり、いつも彼女の視界の中に彼の姿があった。とはいえ、シーヴァスは必要以上に彼女に接しようとはしなかったし、どちらかといえば、レインの方が彼の姿を追うことが多いように思えた。けれど、あの舞踏会の夜のように、シーヴァスが彼女を見守っていてくれているようにも思えた。ただ、レインは、彼の姿があることで不思議と安心することができた。 タンブールについたシーヴァスが向かったのは、小さな教会だった。つい最近たてられたばかりのようなその教会を、シーヴァスは良く知っているようだった。初老のシスターが、彼の姿を見ると笑顔で彼を迎え入れた。 「シーヴァス、良く来てくれましたね。 あなたには、教会再建の折にとてもお世話になりました。 本当に感謝していますよ」 「シスタ−エレン、お久しぶりです。 お元気そうで何よりです。先日、手紙でお願いした件を今日は・・・」 「ええ、わかっていますよ。あなたの頼みですからね。 喜んで力になりましょう。けれど、本当にいいのですか?」 「・・・・・ええ、かまいません。 私よりも、きっとシスターの方が彼女の力になれることでしょう」 レインは、二人の会話の意味がわからず、シーヴァスの後ろでどうしていいものかと黙って立っていた。シーヴァスがそんな彼女に気付いたのか、振り返ってシスターに彼女を紹介した。 「シスター、彼女がレインです。 よろしく、どうかお願いします」 レインは、シスターに向かっておじぎをする。慈愛深い瞳をした初老のシスターは、彼女の手をとってやさしく握ると、 「大変な苦労をしましたね。 けれども、大丈夫ですよ。天は、いつもあなたを見守ってくださっていますよ」 と言った。その言葉を聞いたとたん、レインの瞳から涙がこぼれた。 理由もなく、ぽろぽろと流れ落ちる涙に、彼女自身が戸惑いをかくせない。けれど、そのシスターの言葉は、彼女の心に深く、深く響いたのだった。 シスターはそんなレインの肩を優しく抱きしめてくれた。 「すみません・・・もう、大丈夫ですから」 レインは、彼女が落ち着くのを待っていたシーヴァスにそう言った。 聖堂の椅子に座るレインから少し離れた場所にいたシーヴァスは、彼女のその言葉に何か考え事を遮られたように、彼女の方を振り向いた。 彼は、彼女の涙の跡の残る顔を見つめ、それから視線を聖堂の正面の天使像に移した。 「私がどうしてここのシスターと親しいか、不思議に思っただろう?」 彼は何気ない調子でレインにそう言った。彼がその問いに答えを求めているわけではなさそうだったので、レインは黙ったまま彼の次の言葉を待った。 「この教会は少し前に火事で焼け落ちてしまったんだが・・・ 以前、ここには私の父が描いた母の絵があったんだ。 私の両親は私が幼い頃に亡くなっていたし、両親の結婚は祖父に疎まれていたのでね、 私にとっては最後に残された両親の想い出の品だったんだが・・・ それも、もうなくなってしまった。」 レインは、そう語るシーヴァスの横顔を見つめた。彼の顔にかかる長い金の髪に阻まれて、彼の表情は彼女からは見ることはできなかったが、彼女には彼が今どんな顔をしているのかが、わかるような気がした。 「両親は私を愛してくれていたし、私は幸せな子供時代を送っていたと思う。 けれど、今になっては、もう両親の姿を思い出すこともできないのだ。 あんなに大好きだったというのに、もう、その姿も、声も、ぼんやりとしか 思い出すことができない。 母の姿だけは、絵の中に見ることができたのに、その絵ももう今はない。 どんなに大切なものも、そうやって時とともに風化してしまうのだな」 シーヴァスは、それきり、しばらくの間黙っていたが、やがてレインを振り向くと言葉を続けた。 「大切なものを失うことの恐ろしさを、私は知っていると思う。 だから、君の不安な思いも苦痛も、少しなら理解できると思う。 けれど、君が、私の屋敷では幸せでないこともわかっている。 故郷を忘れた小鳥であっても、籠に閉じ込めるよりは空に返してやるほうが 小鳥にとっては幸せというものなのだろうな」 レインは、シーヴァスが何を言おうとしているのかわからずに彼の瞳を見つめ返した。 「シスターエレンに、君のことをお願いした。 私の屋敷にいるよりは、ここの方が君も落ち着いて暮らせるだろう。 もちろん、君の身元を探す援助は続けるつもりだから、それは安心してくれていい。 でも万が一、記憶が戻らないとしても、ここでなら、一人の普通の人間として 暮らすことができる」 シーヴァスは、静かにそう言った。レインは、シーヴァスのその言葉に少なからずショックを受けていた。まるで、見捨てられた子供のように。 「・・・・私が、あなたの期待に添えるような人間じゃなかったからですか? 舞踏会や貴族社会の付き合いができないから、ですか?」 それは、あの舞踏会の夜のみじめな気分と良く似ていた。ただ、あの時はシーヴァスは、彼女の側にいてくれた。けれど、今、彼すらも彼女から遠ざかろうとしている。 「そうじゃない、そうではないよ、レイン。 君は、私といても幸せそうじゃない。屋敷の中でいつも君は居づらい様子じゃないか。 ここでなら、君は使用人のことも、私のことも気兼ねすることなく暮らせる。 もう一度、新しい暮らしを始めることができる」 シーヴァスは静かにそう言う。レインには彼の言うことはわかったし、それが彼の優しさだともわかった。それでも、彼に見捨てられたような悲しい気分がどうしてもぬぐえなかった。 「・・・・わかりました。 あなたが、それが一番いいとおっしゃるなら、そうします。 ここに、残ります、私」 レインは、そう言うと、立ち上がり、聖堂を出ていった。側にいてほしいのは、シーヴァスではない、とそう思っていたはずなのに、今、彼が彼女の元を離れると言ったとき、彼女の心は言い様のない寂しさに締め付けられるようだった。 その夜、レインたちは教会で一晩を過ごした。シーヴァスたちはあくる日、その教会を立ち、レインはそこに残る。朝、目覚めたレインは、朝食の間にシーヴァスの姿を探したが彼が見えなかったので、もしやもう彼が行ってしまったのだろうかと不安な気持ちに襲われた。シスターに尋ねてみると、未だに部屋から出てきていないのだという。常の彼には珍しいことにレインは驚いた。シスターが仕方ないわねえ、とつぶやきながら、誰か彼の様子を見てくるように、と言うのに、レインは自分が行く、と言った。 シーヴァスが眠っているはずの奥の客間をレインはノックする。返事はない。レインはしばらく待ったが、そっとドアノブを回し、部屋の扉を開けた。少しきしんだ音がして扉が開く。カーテンの隙間から光が差し込み、ほの明るい部屋の片隅にあるベッドで、シーヴァスはいまだ、眠っているようだった。 「・・・シーヴァス?」 レインは、彼の名を呼ぶ。返事はない。彼女はおずおずと部屋の中へ入ると彼のベッドに近付いた。彼女はもう一度、彼の名前を呼ぶ。 「・・・シーヴァス? どうか、したんですか?」 その声にシーヴァスの瞳がうっすらと開いた。しかし、やがて苦し気にその端正な顔が歪む。良く見ると、その額には汗が浮かび、顔色も青い。レインは驚いてその額に手をあてる。熱い。高熱があるようで、その熱さにレインは手を反射的に引く。 「・・・レイン・・? 君は・・・?」 うなされたようなシーヴァスの声。レインは、部屋を駆け出すとシスターを呼ぶ。 「シーヴァスが・・・・! シーヴァスが!」 その声に驚いたシスターや従者たちが駆けてくる。レインは、部屋を出た廊下で、立つこともできず、くずおれた。シーヴァスが。あんな蒼い顔をして。まるで死んでしまうかのように。 「早く、早くお医者さまを呼んで・・・シーヴァスが・・・・シーヴァスが!」 レインは、泣きそうになりながら、そう言った。そう言うしかできなかった。 医者がやってきてシーヴァスの部屋に入るのをレインは廊下に座り込んだまま、見ていた。シスターエレンが、そんなレインの側にきて、彼女を支えて立ち上がらせた。 「大丈夫、今、お医者様がみてくださっていますからね。 わたしたちは、彼のために天に祈りましょう。 彼の病がよくなるように、とね」 レインは、その言葉にやっとその場を離れる。シスターは彼女とともに聖堂に行くと、天使の像の前にひざまづいて祈りだした。 レインは、改めて、天使の像を見上げる。慈愛深く美しい天使の像は、彼女にとても懐かしく思えた。そして、その像を見つめているうちに、レインの瞳から涙がこぼれた。 自分は、いったい何をしていたのだろう。何を見ていたのだろう。 なくしてしまったものを追い掛けてばかりで 目の前にあるものさえ、見ようとしていなかった。 シーヴァスのことも。自分のことも。 帰る場所は他にあると思っていた。彼のことを知ろうともしなかった。 彼は、いつも自分の帰る場所を用意してくれようとしていたのに。 彼は、いつも彼女を知ろうとしていてくれたのに。 自分も、彼を信じていたのに。 彼なら甘えてもいいと思えた。彼なら、自分を見放さないと思っていた。 彼なら、何もかもを許してくれると思っていた。 一番、愚かなのは自分だ。 また、大切なものをなくそうとしている。 なくさなくては、それがかけがえのないものだと気付かないのか。 レインは、天使の像に祈った。 シーヴァスのために。そして、自分が二度と大切なものを見失うことがないように。 医者にもシーヴァスの高熱の原因はさだかではない様子だったが、一応与えられた薬がきいたのか、夕方には彼の容態も落ち着いたようだった。レインは、その夜をシーヴァスの看病をして彼の部屋で過ごした。静かな寝息をたてる彼の様子にレインは安心する。そっと彼の手をとり、頬にあてる。 彼が目覚めたら、伝えたいことがある。 彼が目覚めたときに、一番最初に伝えたいことが。 「レイン?」 何時の間にか、ベッドにうつ伏せて眠っていたレインは、自分の名を呼ぶ声に目を覚ました。シ−ヴァスの手が、レインの髪をなでている。レインは、はっと身を起こすと、シーヴァスの様子を見る。彼はまだ、疲れた様子で起き上がれないようだったが、意識ははっきりとしているようだった。 「君が、看病してくれたのか?」 囁くような声で彼が言う。レインは、瞳が潤むのを感じながら、うなずいた。 「良かった、シーヴァス・・・。本当に良かった・・・」 「・・・すまない、心配をかけたな。我ながら腑甲斐無い」 シーヴァスが力なく苦笑する。レインは、首を横にふる。 「いいえ、いいえ、シーヴァス。 ・・・・ごめんなさい、シーヴァス。私は、あなたにひどいことばかりしました。 あなたの優しさを見ようともしなかった。 自分の不幸しか、見ようともしなかった。 ごめんなさい・・・・・」 「・・・いいんだ。 君は私に多くのものを与えてくれたよ。」 「いいえ、いいえ。与えてくれたのは、あなたです。 私はあなたのために、なにもしようとはしなかった。」 「いや、違うよ。君が忘れているだけで、君は私に多くのことを教えてくれた」 シーヴァスはそう言うと、レインの頬に触れた。 レインは、そのシーヴァスの手を取ると彼に伝えようと思っていた言葉を口にする。 「シーヴァス・・・私、あなたと一緒にヨーストに帰ります・・・」 その言葉にシーヴァスは少し驚いたように目を見張った。 「・・・レイン・・いいのかい? 君がそんな事を言うと 私は君が私とともに生きることを選んでくれたと自惚れてしまうよ?」 レインは、そのシーヴァスの言葉に頷く。 「・・・シーヴァス・・・私はもう、失われた過去を追うのはやめました。 あなたが私に与えてくれた未来を、これからは歩みます。 あなたが、私に与えてくれた還る場所が、私の生きるところです」 シーヴァスは、その言葉を聞いて微笑んだ。 「・・・ありがとう、レイン。・・・ありがとう・・・」 「・・もう少し、眠ってください、シーヴァス。 わたし、側にいますから。」 シーヴァスは、そのレインの言葉に安心したかのように、瞳を閉じた。レインは、そっとベッドの側を離れると朝の光が差し込む窓辺によった。朝露が木々を濡らし、青い空にうっすらと大きな虹がかかっていた。 レイン。 異国の言葉で「雨」を意味するという名前。 雨上がりの空にかかる虹のように、未来へ続く橋を歩いていこう。 シーヴァスが、彼女の心にかけてくれた橋を、渡っていこう。 レインは、そう思った。 思い出せない過去には、別れを告げよう。 新しい未来を、彼と築いていこう。 思い出せない大好きだった人のために、今だけ、涙を流そう。 数日後、レインは体調の良くなったシーヴァスと共にヨーストへ還る船に乗るために港へやってきていた。多くの人がごった返す港で、レインはシーヴァスに手を引かれて歩いていた。彼の手が彼女を導いてくれる。 なんとなく嬉しくて彼女は彼の手を少し力をこめて握りかえす。 少し人が少なくなってほっとしたとき、レインは向かいから走ってきた男とぶつかった。 「悪い、急いでんだ」 その男はそう言って、駆けていった。 レインは、その声を聞いて男がかけていった方を振り向いた。知っている声だと思った。懐かしい、と思った。切ない想いが胸にこみあげる。 だが、人混みにまぎれて、その男の姿はもうわからなかった。 「レイン?」 立ち止まったレインに心配そうにシーヴァスが声をかける。レインは、その声にシーヴァスを振り返ると、 「なんでもありません。行きましょうか」 と微笑んだ。そして、もう一度、彼の手を握り返す。 今ぶつかった彼は、自分がかつて知っていた人間だったのかもしれない。 でも、もう今では関係のないことだ。私は、彼と生きていくと決めたのだから。 レインは、シーヴァスの肩に寄り添った。 雨上がりの空にかかる虹の橋を渡るように。 新しい未来を、私は彼と歩いていこう。 |