「悪い、急いでんだ」 グリフィンは、港でぶつかった娘にそう言って謝った。 きらびやかではないが、上等な生地を使った服を着ていて、結構な身分らしい青年に手をひかれていた。お高くとまった貴族のバカどもだろう、と思い財布の一つでもすってやれば良かった、と思ったが、その娘が振り向いて彼のことを目で探している様子を見た瞬間、胸が痛んだ。 その娘はしばらくグリフィンの姿を探していたようだったが、やがて連れの青年に促され、寄り添って歩いていった。その後ろ姿を眺めてグリフィンは、なんとも言えない苛立ちを感じた。 「ちっ、貴族なんて野郎どもがこんな所をウロウロしてやがると思うだけで虫酸が走るぜ」 彼はそう呟くと、彼を待つ人間のいる家へと向かった。 「グリフィンさま、お帰りなさい」 イダヴェルが、家に帰ってきたグリフィンにそう声をかける。 「さま、は止せっつったろうが」 グリフィンは、そっけなくそう答え、彼女が作ってテーブルに並べたばかりの昼食をつまみ食いする。イダヴェルは、グリフィンの嫌いな貴族階級の娘だったし、彼にとっては憎むべき相手の血縁者でもあったが、彼は身よりもなくなった彼女をどうしても放っておけず、共に暮らしていた。当初は彼女を嫌っていたグリフィンではあったけれど、彼女の真摯さには打たれるものがあったのだ。 (まあ、貴族っていっても、コイツは苦労してやがるしな) 育ちも良く、ずっと使用人にかしずかれるような暮らしをしていたはずの彼女が、グリフィンのために食事を作り、平民と変わらぬ暮らしをしている。それでも文句一つ言わず、笑顔のままの彼女を、グリフィンは仕方ないというような面もちで側に置いていたけれども、このところ時々言いようのない寂しさに襲われることの多い彼にとっては、彼女の存在は救いでもあった。 「今日は港でなんだか知らねえけど、貴族の奴らが船を出してたぜ。 あの服装は、ここいらのじゃねえからなあ、北の国の奴っぽかったけど」 言うともなし、港でぶつかった娘の事を思い出してグリフィンはそう言う。 イダヴェルは、それに応えてこういった。 「ええ、なんでもヘブロンの貴族さまがタンブールの教会に来ておられたそうですわ。 ほら、先だって火事で焼けてしまった教会を再建するのに随分とお力添えされたという・・・」 「はっ、物好きな話だな。ま、そんなけ金が余ってるってんなら好きにすりゃあいいのさ」 そう言いながら、港でみた娘の事を思っている。彼女がその貴族の娘なのだろうか。 「・・・どこの奴なんだろうな」 つぶやくともなしにつぶやいたその言葉をイダヴェルが聞いていて答える。 「ヘブロンのヨーストの領主様らしいですよ。かの国でも大貴族のうちに入る方なのだそうです。まだお若いのに、評判なのですって」 へえ、と生返事をしたグリフィンだったが、心の中ではヨーストか、と考えている。船で来たらしかったから、あながち間違いというわけでもないだろう。 「グリフィンさま?」 昼食を並べ終えたイダヴェルが、考え込んでいるグリフィンに声をかける。グリフィンは、それに気づくとちょっと怒ったような顔をして、彼女の料理にがっつき始めた。 「だから、さま、は止せって言ってるだろう。じゃねえと俺も名前で呼んでやらねえぞ」 その言葉にイダヴェルは、しばらく頬を染めてもじもじとしていたが、やがて小さい声で彼の名を呼んだ。 「はい、わかりました・・・・グリフィン」 「ヨーストっていやあ、お前と一緒にヨーストの近くまで行ったことがなかったか?」 グリフィンは、食事を終えた後、後かたづけをするイダヴェルの後ろ姿を食堂の椅子に座って眺めながらそう言った。一時期、彼は盗賊の仕事もそこそこに、あちこちを旅してまわってモンスターを退治したり、魔物退治や悪徳貴族を倒したりしていたのだった。どうして自分がそんなことをする気になったのか、今でも不思議なのだが、まあ、あれはあれで結構いい金になったのだった。イダヴェルとも、その途中で出会った。あちこち旅する間、彼は誰かと一緒にいた記憶があり、それが誰であったかはぼんやりとしか思い出せないのだが、女だったような気がして、それならイダヴェルだったのだろう、と思っている。 しかし、イダヴェルはそんなグリフィンの問いに不思議そうに首を振った。 「?いいえ、ヨーストへご一緒したことはありませんわ?」 そうだったろうか、とグリフィンは思い、ではあれは誰だったのだろう、と思い返す。だが、思い出そうとすると余計に頭の中に靄がかかったようになるのだった。 『グリフィン』 そういえば、一緒に旅していた女は、彼をそう呼んでいたような気がする。優しい声で。だが、それはいったい、誰だ? 「大丈夫ですか? なんだか、今日はお疲れのようです」 イダヴェルが心配そうに彼を覗きこむ。熱でもあるのか、と彼の額に伸ばされた手をグリフィンはとった。苦労を知らなかった白い指が、今では慣れない家事に傷だらけになっている。グリフィンがその指を見ようとすると、恥ずかしそうにイダヴェルは手を隠した。それが少し、胸に痛い。 「ヨーストっていえば、大国ヘブロン第2の都市って評判だよな。いろいろと珍しいものも多いっていうぜ。 ちょうど、この季節はうまいものもたくさんあるらしいし、行ってみるか?」 「え?! 行くんですか? ヨーストに?」 あまりにも突然なグリフィンの提案にイダヴェルが驚いてそう言う。 「ああ、どうせお前、俺を家で待ってるだけでさして用事があるわけじゃないだろう。 こういうことは、思い立ったらすぐ、っていうのが鉄則なんだよ。 ヘブロンの御貴族様から、いただくものをいただいてくるってのもおもしろそうだしな」 グリフィンは、そう言うと椅子を立った。ヨーストへ。彼自身は気づいていなかったが、その心の片隅に、港で出会った娘の姿があった。 ヨーストはヘブロン第2の街というだけあってにぎやかで見所も多い街だった。 宿をとって落ち着くと、グリフィンは、改めて自分がここへ何をしに来たのか不思議に思った。イダヴェルに何かしてやりたい、と思ったのは確かだが、それがなぜヨーストなのか。どうにも我ながら不思議で仕方がない。 しかし、元来そう深く物事を考え込まない質のグリフィンはともあれ食事でも、と宿の食堂にイダヴェルと降りた。 「今は、ちょうど街の外の領地から出来のいいワインが届くからお勧めですよ」 宿の主人がそういう。ワインなどという洒落た酒はグリフィンには、あまり縁がないものだったが、そう言われると頼んでみようと言う気にもなる 。 「遊び人だったシーヴァス様が本腰を入れて政務に取り組まれるようになって ワイン作りにもいろいろと工夫をされてるんですよ。 ヨーストのワインは、きっとこれからヘブロン1、いや、世界1にだってなりますよ!」 主人がにこにこしながらそう言う。 「シーヴァス様?」 グリフィンがそう問うと主人は笑いながら答えた。 「ヨーストを治めるフォルクガング家の若きご当主さまですよ。 先日、ご婚約がお決まりになって、早く御結婚されるといいんですがねえ。 お祝にたくさんの人がやってきますし、商売繁昌にもなりますからね」 その言葉にグリフィンは、港で見た娘と青年がそうだろうか、と考える。それきり、黙って考え込んでしまったふうのグリフィンを、イダヴェルは不安そうに見つめていた。 |