その夜、グリフィンは賑やかな街を見て歩こうと宿の外に出た。イダヴェルは長旅に疲れたらしく、もう休んでいる。彼の育った街は賑やかであったが、ヨーストのような洗練された雰囲気というものはなかったような気がする。 『こういうお高くとまった街は俺にはいけすかねえな』 グリフィンはそんな事を思う。そして、昼間に聞いたこの町の領主とかいうフォルクガング家の屋敷を見に行ってやろう、といういたずら心を起こした。市民の集まる町の中心を抜け、緑に囲まれた公園を渡り、閑静な森を通り抜けると高い塀に囲まれた広い屋敷が見えてくる。大きな門とその門の中に続く緑の木々と草花に彩られた道。その道の先に小さく屋敷が見える。グリフィンは、こういう屋敷ならお手のものとばかりに塀を越えて庭の中に入った。綺麗に手入れされた庭は、住んでいる人間の趣味を反映しているのかもしれない。珍重な草花を趣味悪く植えこんでいる成り金貴族と違って、季節の草花が自然に近い様子で咲いていた。しかし、グリフィンにしてみるとそれさえもが、気に入らない。 『だいたい、門から屋敷までが公園くらいあるじゃねえかよ。 自然に近いったって、自然じゃねえなら偽善じゃねえのか?』 グリフィンは一つ一つに心の中で文句をつけながら屋敷へ向かっていく。屋敷に近付いていくと改めてその大きさに腹立たしくなる。この屋敷一つでグリフィンの住んでいる家がいったいいくつくらい入るものだろう。一階の居間らしい部屋に明かりがついていた。グリフィンはそっとその部屋が見えるあたりへ移動する。豪奢なカーペットがひかれた広い居間に、かの青年と娘がいた。 『やっぱりな・・・』 どうしてこんなに彼等が気になるのかわからないが、どうしても確かめずにはいられなかった。グリフィンは彼等の様子を見る。青年と娘は二人向き合って、どうもダンスの練習をしているらしかった。娘のほうが上手くできないらしく、青年が教えているらしい。娘がとまどったようにステップを踏むのを青年が微笑みながらリードしている。その足を勢いあまって踏んでしまった娘が慌てて青年にあやまり、顔を赤くして恐縮している。青年は、面白そうに笑い、申し訳なさそうにうつむく娘を抱き締める。どこから見ても、幸せそうな恋人たちに見えた。 それがますますグリフィンには腹立たしく思えた。 おずおずと娘の腕が青年の背中にまわされる。その行為に青年は少し驚いたように一瞬娘の顔を見つめ、それから柔らかな笑顔でもう一度娘をきつく抱き締めた。 それを見ていたグリフィンは、自分でもどうしてかわからないほどにこの二人が憎くなった。そのまま、帰ることなどできそうもなかった。彼はしばらくの間、その場に留まり、時を待った。やがて、娘と青年は居間を出ていった。屋敷の異なる部屋に明かりがともる。彼等が部屋に戻ったのだろう。グリフィンはそっと屋敷に近付くと、明かりのついた部屋へと近付く。二階の端の部屋。グリフィンは、手近な木をするすると登ると二階のベランダに移った。そして器用に部屋から部屋へとベランダを移り進むとその部屋の前まであっと言う間に辿り着いた。 そっと窓から中を覗く。 入り口の扉の中に娘がいて、青年と話をしていた。調度品を見てみるかぎり、ここは娘の部屋らしい。見事な彫刻に彩られた化粧机に、クローゼット、美しい花模様が描かれたカーペット。どれをとっても、一流のものであるのに疑いはない。グリフィンはその豪華な調度品に「けっ」と吐き捨てるように呟くと、なおも娘たちの様子を伺う。 娘を部屋に送り届けた青年が、娘の頬に触れ、そっとその頬に口付けた。娘の顔が朱に染まるのが、ここからでもわかりそうだった。 やがて、青年が部屋を去り、娘は一人になってほっと息をついたようだった。窓辺に近付いてくるのをグリフィンは息をつめて待った。娘の手が窓にかかり、風を通そうと戸を開けた瞬間、グリフィンは娘の手を掴んだ。 「!!」 娘が息をのむのがわかった。グリフィンは、娘の口を片手でふさぐ。 「声を出すんじゃねえ。 大人しくしてりゃ、何もしねえよ。 金目のものを出しな」 グリフィンは、そう言った。いつもの彼ならこんな危険な真似はしない。気付かれないうちに屋敷へ入り込み、いただくものだけをいただいて帰る。それが彼のやり方だった。だが、どうしてもそれができなかった。どうしてこの二人がこんなに気になるのかわからない。けれど、幸せそうな二人の姿を見るにつけ、グリフィンの心は痛み、苛立ち、彼等を傷つけたくなるのだ。めちゃくちゃに壊したくなるのだ。 「・・・何も、ないんです。私のものは、なにも。」 娘が震える声でそう言う。 「嘘をつけ。この屋敷の偽善者なご領主さまにたんまり戴いたものがあるだろうが。 それを出せよ」 「シーヴァスは、偽善者なんかじゃありません」 「黙れ、そんな事言ってんじゃねえ。 金目のものを、出せって言ってんだよ」 娘は震えながらも、強い視線でもってグリフィンを睨んだ。 「何でも、欲しいものがあるなら、部屋を探して持っていくといいです。 でも、シーヴァスは、偽善者なんかじゃありませんから!」 グリフィンは、その娘の言葉にかっとなると、拳を強く壁にたたきつけた。 「黙れ!」 その剣幕に娘がびくっと体を小さくする。グリフィンは、胸の前で握りしめられた娘の手を見て、嘲笑の笑いを口の端に浮かべた。 「そういや、ご婚約が決まったんだってな。 あんたの指にはめられたその御大層な指輪はなんなんだ? なんでも欲しいものを持っていけって言ったよな。 ・・・その指輪を寄越せ」 瞬間、娘はその指輪を守るかのようにぎゅっと手を握りしめ、グリフィンから逃げようとした。それを強い力で引き止めると、娘の手をとり、無理矢理にその細い指から指輪を抜きとった。 娘は、必死にグリフィンからその指輪を取り戻そうと手を伸ばすが、グリフィンはそんな娘を振払う。 「!」 床に倒れこんだ娘は、涙の滲んだ目でグリフィンを見上げると震える声で彼に言った。 「なぜ、そんなことをするんですか。 どうして」 大きな瞳に見つめられ、グリフィンは言葉に詰まる。 『どうして、そんな事を・・・グリフィン』 誰かの声がする。グリフィンは、それを振り切るように声を荒げた。 「うるせえ! お前たちを見てるとムカムカするのさ。 何も知らねえような顔して、幸せそうに笑ってやがる」 それを聞いて娘がおそるおそるといった風情で尋ねる。 「・・・もしかして、あなたは、私を知っているんですか? 私の事を、知っているんですか?」 「? 何を言ってやがんだ、お前。 俺は、お前の事なんざ金輪際、知らねえ。 言っただろ、お前ら見てると苛つくんだよ!」 責めるような、おびえるような瞳で彼を見つめる娘を見ていると、グリフィンは益々この娘を、娘に関わるもの総てをめちゃくちゃにしてやりたくなった。憎しみか、痛みか、どうしてこんなにもこの娘が気に入らないのか。 『グリフィン』 頭にかかる靄の向こうで声がする。息が上がって、頭が痛んだ。こめかみを押さえて苦痛に耐えようとするグリフィンを娘が不思議そうに見つめる。 「・・・・? どうかしたんですか」 自分の立場も忘れて、心配そうに彼を覗き込もうとする娘を、グリフィンは乱暴に押し退けた。 「うるさい!」 そこへ、娘の部屋をノックする音が聞こえた。 「レイン? 何か大きな音がしたが・・・ 大丈夫なのかい?」 さきほどの青年のものであろう声がした。 「シーヴァス!」 その声に娘はグリフィンが押しとどめる間もなく扉に駆け寄る。 グリフィンは、低く舌打ちをすると、娘から奪った指輪を握りしめ、窓からその身を外へと踊らせた。 ひどく頭が痛んだ。グリフィンは、自分でもどこをどう通って宿へ戻ったのかわからないくらいだった。痛みに朦朧としながら宿の部屋の扉をあけると、イダヴェルが心配そうに起きて待っていた。 「なんだ、起きてたのかよ。 眠ってるとばかり思っていたのに」 グリフィンは苦笑しながら言った。だが、うまく笑えたかどうかは自信がない。 「グリフィン様がいらっしゃらなかったから・・・ 心配になってしまって・・」 「ばぁか、何を心配することがあるってんだよ、お前は。 ほら、これやるよ」 グリフィンは、先ほど娘から奪ってきた指輪をイダヴェルに渡す。 「え・・・? グリフィンさま、これは・・・?」 指輪という贈り物自体に驚くと同時に、高価そうなそのものの良さにイダヴェルは驚く。そして、それを彼女に手渡したときのグリフィンの手の熱さにも。 「グリフィンさま? もしや、熱が?」 イダヴェルのひんやりした手がグリフィンの額にあてられる。 グリフィンは、実際には立っていられないほどに頭が痛くなってきており、それ以上は耐えられそうになかった。 「! ひどい熱です、早く、横になってください、お医者様を呼んできますから!」 イダヴェルが細い肩でグリフィンを支えながら、彼をベッドへと連れていく。 ほとんど倒れこむように、ベッドに横になると、グリフィンの意識は深く沈んでいった。 『グリフィン』 優しい声が彼を呼んでいた。 『ごめんなさい、グリフィン・・・・ ごめんなさい』 その声には聞き覚えがあった。ずっと涙一つ見せなかったくせに、最後の最後に泣いて許しを乞うていた。許せない、と思った。どうしてなんだ、と思った。怒りと悲しみと憎しみと。 そうだ。それは、イダヴェルではなかった。 『お前が言うから、あいつに優しくしてやるんだ。 俺はお前以外の女なんてどうでもいい』 本気だった。今でさえも、そうかもしれないほどに。 『グリフィン』 優しい声でそう呼ばれるのが好きだった。だからイダヴェルにもそう呼ばせた。そうだ、俺が好きだったのは・・・・ 『あなたは、私を知っているんですか?』 グリフィンを見つめた娘の瞳。 ・・・ああ、知っているとも。 『なぜ、そんなことをするんですか』 ・・・それをお前が言うのか、ラビエル。 俺を裏切ったお前が。 熱がやっと引いたらしいグリフィンを、イダヴェルはほっとした表情で見つめていた。温くなってしまった額にあてた布を冷水でひやし、置き直す。そして、水をとりかえるために桶を持って部屋の外にでた。宿の主人に頼んで、井戸を使わせてもらっていた。 心配したが、グリフィンの熱もさがったようで、少し安心する。彼は昨晩、どこへ行っていたのだろう。そっとポケットにある彼が渡してくれた指輪を手にとる。自分の指にはめてはいけないもののような気がして、彼女はその指輪をずっとポケットにしまっていた。 グリフィンは、ぶっきらぼうだが、優しい人間だ。彼女を迷惑だとも言わず、側に置いてくれている。だが、イダヴェルには、彼の優しさが本当に自分のものかはわからなかった。誰かのかわりなのかもしれない。彼は、ときどきふと、考え込むことが多かったから。指輪は、そんな不安を大きくした。 イダヴェルは、考えても仕方ないというように、首を振ると指輪をポケットにもどし、水を汲むと部屋に戻ろうとした。だが、彼女が部屋の戸を開けようとしたとき、中から扉が開けられた。 グリフィンが、まだよろめく体を壁に支えながらよろよろと部屋を出てくる。 「グリフィンさま、まだ寝ていないと!」 イダヴェルはグリフィンの手をとり、彼を止めようとする。しかし、グリフィンは、彼女の姿など目に入らないように、その手を振払うと何かを呟きながら宿を出ていった。 『・・・・思い出したぞ、俺は・・・ なぜ、お前がそこにいるんだ・・・』 その呟きは、イダヴェルの不安を現実のものと変える言葉だった。 イダヴェルは、もう自分を見ていないグリフィンの背中をずっと見ていた。彼は、もう、帰ってこない。そんな思いが彼女の心を過った。 |