タンブールから戻ったシーヴァスは、レインに指輪を贈った。それは、フォルクガング家の女主人が代々身につけていたもので、彼の母はそれを身につけることはなかったが、祖母の亡くなった後、ずっとしまわれていたものだった。 レインは、そんなものを自分がもらっていいものかどうか、と迷った様子を見せていたが、シーヴァスはそんな彼女に言った。 「例え君の過去がどうであれ、私は君をかわらず愛するだろう。 たとえ君に過去がなくとも、この指輪は君が今はフォルクガング家の者だと示してくれるだろう。 何一つ確かなものがない、と君は言うから、それなら君自身を証明するものを私は君に与えてあげたいのだよ」 レインは、その言葉にシーヴァスの思いを知り、指輪を受け取った。以来、彼女の指には、彼が贈った指輪が輝いている。 ある日の夕食の後、レインがシーヴァスに言った。 「シーヴァス、ワルツを教えてくださいませんか?」 シーヴァスはレインのその言葉に少し驚いて彼女の顔を見つめた。 「・・・それは、かまわないが・・。君はワルツや舞踏会は嫌いなんじゃなかったのかい?」 それは嫌味でもなんでもなく、彼女を心配しての言葉だった。彼は彼女を無理に舞踏会へ連れ出そうなどとはもう考えていなかった。彼女が楽しめないのであれば、行く必要などない。 「・・あのころとは、私も違います。 今なら、素直に楽しめるような気がするんです。 ここには、あなたと、私しかいませんし」 レインは、そう言って少しはにかんだように微笑んだ。 「君がそういうなら、いいとも。 それでは、お手をどうぞ、姫君」 シーヴァスはそう言ってレインの手をとった。 タンブ−ル以来、シーヴァスのレインに対する思いはより深くなり、そしてほろ苦く、切ないものになっている。 彼女がすべてを思い出したなら。 今、彼の腕の中にいるこの愛おしい存在をシーヴァスはなくしてしまうだろう、と考えていた。思い出してほしくはない。たとえ、それが彼女にとって辛いことだとしても。 彼女がかつて愛していたのは、自分ではないのだから。 彼女が何者であったのか、自分は思い出してしまったのだから。 「シーヴァス、あの、無理しないで私が下手だったら、言ってくださいね。 きっと、上手には踊れないと思うんです」 恐縮したようにそういうレインにシーヴァスは笑いかける。 「君が楽しく踊れるなら、上手も下手も関係ない。 ここは、舞踏会ではないのだからね。さあ、いいかい?」 シーヴァスはレインの手をとり、もう片方の手をそっと彼女の細い腰に添える。体を寄せ合うと、彼女は少し頬を赤く染めた。その様子をシーヴァスは微笑みながら見ている。やっと、心を開いてくれた彼女を、手放したくないと、そう思った。 シーヴァスは、彼女が踊りやすいようにと心を配りながらステップを踏んだ。流れる音楽がないかわりに、彼の口から唄が漏れた。時にそれはステップを数える声になり、時には少し笑い声混じりになり、腕の中に彼女が確かにいることが彼の心を浮き立たせていた。 とまどいがちなレインのステップは、やはりけして上手とはいいがたかったけれど、それもまた、シーヴァスには愛すべきことに思えた。 「!! ご、ごめんなさい!」 ターンを大きく廻ったとき、レインがシーヴァスの足を勢い余って踏み付けた。途端に彼女は真っ赤になってあやまる。シーヴァスは声をあげて笑うと彼女を抱き締めた。 「君ときたら! 本当にダンスを習いたての少女のようだな! でも、君がそう上手にならないことを祈るよ、私以外の男が君と踊りたがったりしないようにね!」 レインはその言葉を聞いてますます赤くなったが、やがて、おずおずとシーヴァスの背中に腕を回し、彼をそっと抱き締めた。 「・・・あなた以外と踊りたいなんて思いませんから、大丈夫です」 シーヴァスは少し驚いたように彼女の体をそっと離してその瞳を覗き込んだ。それから、優しく笑って、もう一度、今度はゆっくりと、けれどより強く、彼女を抱き締めた。 シーヴァスの望み通りというべきか、レインはやはりワルツが苦手なのだった。上達したかと言われれば、少しは、というくらいの成果しかあがらなかったようだが、しかし、二人とも十分に楽しんで踊ったのは確かだった。舞踏会は無理でも二人だけでこうして過ごすのは悪く無い。そんな気にさせられた。 「今日はこれくらいにしておこうか。もう夜も遅い。 また、君さえよければいつでもダンスくらい教えよう。」 レインはシーヴァスの言葉に頷く。夢中になっていたものの、終わってみれば靴が足に擦れて痛くなっていた。シーヴァスはそれに気付くと彼女の足から靴をぬがせて抱き上げた。 「!!」 レインの顔が真っ赤になる。 「部屋まで送ろう。」 「いえ、シーヴァス、大丈夫ですから!」 レインが彼の腕からおりようともがくのに、シーヴァスは笑って歩き出す。 「何を気にする必要があるんだい? 私と君、それから使用人たちしかいないのに?」 「お、重いです」 「いや、まるで空気のように軽いよ、君ときたら」 あいかわらず、と心の中で付け加えてシーヴァスは歩き出す。レインは思わずシーヴァスの首にしがみついてしまう。その自分にかかる緩やかな力をシーヴァスは楽しんだ。 部屋の扉をあけて彼女をそっと床に降ろす。レインは、シーヴァスにしがみついた腕を離して床に立つ。 「す、すみません・・・重かったでしょう?」 「私を見くびらないでほしいな、レイン。これでも騎士のはしくれだ、女性を抱き上げるくらい訳のないことだよ」 シーヴァスはそう言うと、してうつむき加減な彼女の頬にそっと手を触れると、唇を寄せた。 「・・・おやすみ、レイン」 にっこりと笑うと、レインの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。 シーヴァスはその反応が楽しくてつい、もう一度彼女を軽く抱き締めると、部屋を辞した。不安もないではなかったが、彼女は今は自分を愛しはじめてくれている。それがわかる。このまま、彼女と共に歩んでいける。そう思っていた。そのときまでは。 レインの部屋を辞して自分の部屋に戻りかけたシーヴァスの耳に、彼女の部屋から物音が聞こえたのはそのときだった。壁に物を打ち付けたような激しい音。足を痛めたレインが、倒れたりしたのだろうか? 気になったシーヴァスは彼女の部屋の前まで戻るとノックをして彼女に呼び掛けた。 「レイン? 物音がしたようだけれど、どうかしたのかい?」 そのシーヴァスの耳に、レインの切羽詰まった声が届く。 「シーヴァス!!」 ドアに彼女が駆け寄る足音。彼女の声は何かにおびえたように震えていた。 「シーヴァス、だめです、来てはだめ。 あぶないから、来ちゃいけません!」 そんなことを言われて、おめおめと彼女を置いておけるはずもない。シーヴァスは強引に体ごと彼女の部屋の扉にぶつかると、部屋の中へ入った。 ベランダへと続く戸が大きく開け放され、カーテンが風になびいていた。レインは床にうずくまり、震えていた。 「レイン!!」 シーヴァスは彼女に駆け寄り、その体を抱き締める。レインは震える腕で、シーヴァスにしがみつくと泣きそうな声で彼にあやまった。 「ごめんなさい、シーヴァス・・・ あなたのくれた指輪を盗まれてしまったんです。 ごめんなさい・・・大切なものだったのに」 しきりにそう謝るレインをシーヴァスはきつく抱き締める。 「ばかな。指輪なんてどうでもいいんだ。 君が無事でよかった・・・・。」 そして、改めて彼女の顔を見て頬が少し赤くなっていることに気付く。 「乱暴されたのか?」 レインはそのシーヴァスの言葉に頬をそっと押さえる。 「あ・・・・、指輪を取りかえそうとしたから・・・ 大丈夫です、たいしたことありませんから」 「なんてことを! 指輪を盗んだよりも君をこんな目に合わせたことの方が許しがたい。 男だったのか? どんな奴だったんだい? 私が必ず見つけて、相応の償いをさせてやる」 「いえ、シーヴァス、いいんです。 指輪さえ還ってくるなら、それで私はいいんですから」 シーヴァスはレインのその言葉を聞いて赤くなった彼女の頬に触れ、そっと唇を寄せた。 「君は優しいな。 そんな男にまで優しくする必要なんてないんだよ」 しかし、シーヴァスには一つの不安があった。彼女を襲った男は、彼女の過去に関係ある男なのだろうか? 彼女を見つけたというのだろうか? それともただの盗賊なのか。 「・・・すみません、シーヴァス、ありがとうございました。 もう大丈夫ですから」 レインはそう言うと、シーヴァスの腕の中から体を離した。シーヴァスはしかし、彼女を離そうとはしなかった。 「このままこの部屋に君を残しておくことなんてできるはずがないだろう? いつまたそいつが戻ってくるとも限らないのだから。 今晩は、私の部屋で寝たまえ」 「え!!! シ、シーヴァスの部屋で、ですか??」 突然の申し出にレインの顔が真っ赤になる。シーヴァスはそんな彼女に向かって笑った。 「大丈夫、何もしないよ、君が赤面するような事は、ね。 ただ、何かあった時に側に居て守ってあげられないのは、 私がつらい。こんなことで君が傷付くのは見たくないんだ」 だが、それも、本当は違うのかもしれなかった。ある日、目が醒めたら彼女が消えているかもしれない。すべてを思い出した彼女が去ってしまっているかもしれない。そんな不安を、自分が感じないためなのかもしれなかった。 あくる朝、シーヴァスは眠るレインをベッドに残したまま、彼女の部屋へと向かった。 もしも、彼の懸念が当っているのなら、また、来るだろう。 シーヴァスが、思い出しているのだから、他の勇者もまた、そうかもしれない。その中に彼女がかつて愛した男がいてもおかしくはないではないか? ベランダに続く窓の傍らに身を寄せてシーヴァスは思いを巡らせる。 簡単に彼女を諦めるつもりなどない。今回は。 そのとき、カーテンが不自然に揺れて、人影が映った。 ゆらりとふらついたように部屋に足を踏み入れたその男の首元に、シーヴァスは剣をつきつけた。 「問答無用で切り掛かられなかっただけでも感謝するんだな。 盗賊風情に情けをかけるつもりなどさらさらないが・・・・ 彼女から奪ったものを返せ」 シーヴァスは男にそう言った。だが、男はシーヴァスを睨み付けるとつきつけられた剣をものともせずに答えた。 「あいつを返せ。あいつは、俺の物だ」 シーヴァスは内心の動揺を隠して男に言った。 「あいつ? 誰の事だ」 すると男は、シーヴァスに、今彼が一番聞きたくない名前を告げたのだった。 「ラビエルだ・・・・。ここにいるだろう」 「・・・・そんな名前の人間はここにはいない。」 「しらばっくれるな。あいつだ、昨晩この部屋にいたのはラビエルだ」 「・・・違う、彼女はレイン。私の婚約者だ。 彼女を盗賊ふぜいの女だなどと侮辱するのは許さん」 しかし、男はやがてゆっくりとシーヴァスの顔を見上げると目を細めて彼の顔をまじまじと見つめた。 そして、ゆっくりと彼に向かって言う。 「・・・・そうだ、思い出した。 お前も、そうだったんだな。勇者だ。ラビエルの勇者だったはずだ。 ヨーストの騎士、シーヴァス。あいつから聞いたことがある。 おまえだな・・・・?」 「何のことかわからんな」 「しらばっくれるな。お前は知ってるんだ。 知っていて、あいつを自分のものにしている。 あいつを返せ」 男はシーヴァスがつきつけた剣をものとせずに彼の襟元につかみかかろうとした。 シーヴァスはその手を払いのける。 「彼女は誰のものでもない。 私のものでも、もちろん、君のものでさえない。彼女は彼女自身のものだ。 言っておくが、彼女は自分の意志で私の元にいる。 自分のものにしようなどと考えずに諦めてとっとと帰るのだな。 命くらいは助けてやろう」 「うそだ! あいつは、俺の元に来ると言ったんだ。 俺と一緒に地上に残るってな!」 シーヴァスはその男の言葉に冷笑をあびせる。 「では、なぜ、彼女は貴様の側に、今、いないんだ?」 「お前があいつをそうさせたんだろう」 「違う。言っただろう、彼女は自分の意志でここにいるんだ」 「あいつにもう一度会わせろ」 男はそう言ってシーヴァスに詰め寄る。 「無駄なことだ。彼女は貴様の事など、何一つ覚えちゃいない。 貴様は、彼女にとって今では見知らぬ赤の他人だ。 自分を傷つけた恐ろしい盗賊にすぎない。 早く貴様も自分にふさわしいねぐらに帰るんだな。」 シーヴァスはそう言うと、再び剣を構えた。 「言っておくが、私は彼女を傷つけた貴様を本当ならここで切って捨ててもまったくかまわない。 昨晩、彼女がどれほどおびえていたと思う。 自分のものだ、などといきがる前に、考えてみるんだな」 男は、シーヴァスをもう一度睨みつけると言う。 「お前だって、自分が思い出していながら、あいつに何も言ってねえだろう。 あいつを自分のものにしたいからじゃねえのか? きれいごとを言うなよ、偽善者さんよ。俺にはわかってるんだぜ?」 その言葉にシーヴァスの剣を持つ手が一瞬震える。表情を変えずにいることが精一杯だった。 「あいつが忘れているっていうなら、思い出させてみせるさ。 あいつは、俺のものだ」 男はそう言うと、入ってきたときのよろめいた足取りとうってかわった素早い動きでベランダから外へと身を踊らせた。シーヴァスはその後ろ姿を追おうとして、やめ、椅子に座り込む。 自分のものにしたいと思っている。そうだ。当っている。 確かに自分は偽善者なのかもしれない。それでも。レインを諦めるつもりなどない。 彼女は、レインだ。ラビエルという名前はもはや、彼女にとって意味をなさない名だ。 そうであってほしいと自分が願っているだけかもしれないが。 シーヴァスは溜息をついて目を閉じた。 レイン、君は、記憶が戻ればやはり、私よりも彼を選ぶんだろうか? そうなんだろうな。 黙っていた私を憎むだろうか? そうかもしれないな。 それでも君を・・・・私は君を・・・・・。 |